「エピソード記憶と似たようなものに情動記憶というものがある。扁桃体が司っているんだけど。情動とは一時的で急激な感情の動きのことだね。怖ろしい出来事などに接すると多量のグルタミン酸が放出されて、その影響で記憶がしっかりと刻みつけられる」
「神経細胞を流れる電気の流れが速くなることによって、回路が太くなる。それにより、その後ちょっとしたことが起こっても、心拍数や呼吸に変化が現れるようになる。直接には同じ出来事ではなくても、同じ神経細胞を使った場合、思い出しやすくさせるんだね」
簡潔で断片的な情報。あまりにも無味乾燥、何の食事にもお合いします?
脳の動き。
そんなことで、僕達のことが何もかも解るなんて言わないでよ?
「感情の動きといっても、所詮脳に還元される働きの一種だね。恋愛感情なんかもそう」
 
――――え。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
至福三年
 
 
 
 
 
 
 
CHAPTER3〜晴れた空から突然に〜
 
 
爆風。ずぅぅぅん……という、腹の底に響くような轟音。地面の振動を感じて、思わず掴まる物を探した手は虚しく空をきった。
大量の土煙に咳き込みながら、姫発は状況を確認しようとする。
 
……確か、上空に飛来した謎の物体が物凄い早さで落下してきたのだ。
 
だんだんと視界の晴れてくる中、辺りの光景を確認出来るようになる。
半分地面にめり込んだような物体は、幸運にも砦の建設予定地から微妙に外れた位置に転がっていた。退かす手間だけは省けたが、地面にラインを描く為の墨壺が中身を撒き散らして散乱している光景が彼方此方で見られる。

無言で天を仰ぐ一人の工兵の姿は、まさに悲哀という文字を体現している。全員の心境も似たようなものだろう。作業の遅れはほぼ決定したようなものだった。
また太公望が渋い顔をしているだろう。
恐る恐る隣を窺った姫発の予想は、見事に外れる。
鬼の軍師は、あどけない表情でぽかんと口を開けていた。
視線の先には例の公害物体。着地に失敗してやや傾いたそれは、巨大で不細工な人間の形をしている。確か、何かの折りに仙人界の幹部専用の乗り物だと聞かされた覚えがある。真ん丸の胴体の中央には所有者の名前が書かれてあって……。
「普賢!?」
「望ちゃん!!!」
砂埃をものともせずに、物体――確か黄巾力士とか言う―― 一人の人物がこちらへ走り寄って来る。この騒ぎの元凶、と怨みの視線を投げ掛けようとして、姫発もまた驚いた。
人物は、太公望と同年代に見える、華奢な骨格が目に付く少年である。ふわりと、癖のありそうな空色の髪が揺れていた。
太公望の前まで駆け寄った少年は、そのまま勢い良く目の前の体に抱きついた。
「逢いたかったあ、望ちゃん!!」
サイズも同じくらいの太公望は、突進してきた体に突き飛ばされそうになりながらも、なんとかその場に踏みとどまる。
「うむ……久しぶりだのう」
驚いたことに、文句も言わずに、まんざらでもなさそうに普賢の背中に手を回していたりする。
見目麗しい少年道士が再会を喜び合う姿は、惨憺たる工事現場では異常に浮いていた。しばらくぽかんとしていた姫発が辺りを見回すと、作業を中断された工兵達も、いきなりの青春劇に毒気を抜かれた体で注目している。
「あの、なんだ。……そいつ誰?」
こほんと咳払いし、姫発はなんとか事態の進展を試みた。
「む?おおそう言えば。これ、普賢離さぬか」
「ええー?」
渋々そうに体を離し、胡散臭そうに自分に視線を走らす普賢の仕草に、姫発は神経に僅かにぴりりとしたものを感じる。
喧嘩を売るつもりなら上等、いくら可愛くても所詮野郎だし。それでなくとも、太公望は姫発の存在を忘れていたらしいというのに。……ちなみに、太公望も男だということは彼の意識の外にある。
心中ファイトを燃やす姫発の様子に気付いた風もない太公望は、機嫌良く向き直る。
「姫発。十二仙の一人、普賢真人だ。わしとは仙人界の同期に当たる」
「周の武王……だよね?こんにちは、普賢真人です」
先程の剣呑な眼差しは何かの間違いであったのか、普賢真人はにっこりと微笑んだ。少女と言った方が相応しい、穏やかで儚げな笑顔である。姫発は早々に敵意を放棄した。
「あ……と、よろしくな」
妙に照れを感じ、頭を掻きつつ挨拶する姫発を、面白そうに普賢が笑う。隣で太公望が呆れた顔をしていたのは置いておくとして。
「……ところで、一体どうした?何か十二仙直々に頼まねばならぬ用事など……」
相変わらす威厳のない王に見切りを付けた軍師は、傍らの親友に問い掛ける。
「ううん。遊びに来ちゃっただけだけど……迷惑だった?」
「いや、だが今は一応仕事中でのう……」
困ったように視線を動かす太公望に、姫発は先程からの悩みを解決する、絶好のチャンスの到来を悟った。
「なあ、こっちは俺に任せてよもやま話してこいや。折角幼馴染みが来てくれたんだろ?」
「怪しいのう……まさか、おぬしこれにかこつけてサボる気では……」
鋭い太公望の指摘に、思わず怯んだ姫発に救いの手を伸ばしたのは善良そうな来訪者。
「いいじゃない。彼が折角そう言ってるんだから。ね?」
「…………そうだのう………」
やや恨めしそうな視線を普賢に向けて、それでも太公望は頷いた。太公望が折れる、という前代未聞の光景に目をみはる姫発を睨み付けると、
「では、おぬしの目付にスープーを寄越すからな、絶対にサボるでないぞ!!」
捨て台詞を吐いて、背中を向ける。
自分が画策したことながら、流石にショックを受けて佇む姫発ににっこりと天使の微笑みを見せると、普賢真人もその後を追った。
この時点で、誰の心中からも、彼らの仕事を妨害した乱入者に対する怒りは霧散している。
 
「……失格」
恐怖のトラブルメーカーから密かに発せられた呟きを聞き取った者は、誰も居なかった。
 
 
 
 
 
 
「さて、大した饗応も出来んが」
「やだなぁ、最初からする気もないクセに」
くすくすと笑う普賢を睨みつつも、太公望は天幕の入り口を覆う布を持ち上げ、親友を案内する。
「ここが望ちゃんの天幕?へえ、意外と殺風景なんだー」
物珍し気に天幕内をきょろきょろと見回す普賢を後目に、太公望は簡素な寝台に腰掛けた。

「で?本当は何の用なのだ?先程からぶつぶつ呟いているのと、何か関係があるのかのう」
普賢は腕を広げ、踊るように体を一回転させる。軽やかな動きは、太公望の正面を向いて、止まった。嬉しそうににこにこと笑む姿は、詰問されていると理解していないかのよう。
「うん、『失格』ってね。ここに来るまでに何人ものヒトに紹介して貰ったけど」
ぽす、と寝台が軽く音を立てる。太公望を挟む位置で、普賢が両手を寝台の上に置いた。上目遣いで、やや高い位置にある太公望の顔を覗き込む。
唇はあくまでも慈愛の微笑み。だが目は笑っていない。
「ここには望ちゃんに相応しいヒトなんて居ない。解ってるよね?」
覆い被さるようにしている普賢の所為で、太公望は半分仰け反る姿勢になっている。しかし、首を精一杯曲げ、普賢と視線を合わせた。
ふと、お互いの表情が消える。
時間が止まったかのような空間。


「――望ちゃんがマジ恋愛してるって、ホント?」
 
 
 
 
 
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……何時まで続くのか、お待たせしまくりの第三話です。って、誰も待ってないか。
今回は、多少展開的に進んだのではないかと。次回辺りがメインとなるようです。多分、あと二回か三回で終わる、と思います……。
雲中子の講義は、回を追う毎に嘘くさくなっていってますねぇ……。元ネタが、発達学習過程論(何故)の講師の無駄話なので、記憶がどんどん薄れていってるのですね!!ノートに書いたメモの意味が解らなくなって、広辞苑引いたのに言葉が載ってないとか!!(TヮT)

あ、今更ですが、フォントの種類が違う部分は、時間軸も違います(本当に今更)。

数々の不安材料を残しつつ、ヘロヘロと続いていくこの話。もう暫くお付き合い頂けると嬉しゅうございます……。