「伝令は輜重部隊に連絡を」
「はっ」
「武吉はこの書類を武成王の処にまで持っていってもらえんかのう」
「はいっ!わかりましたっ!!」
平常と変わらない進軍風景。そのはずだったが。
「……この決算は楊ゼンに任せる。あと兵が妙に浮き足立っておる。用はなくともその辺を歩き回っておけ」
「……はい、太公望師叔」
ただ一つ違和感を与えるものがあるとすれば、向かい合って書類に目を通す二人が先程から一度も目を合わせないことだった。
ある日、ある一つの噂が広まったことによって、周軍は壊滅的なダメージを被った。
事情を知る者を仰天させ、知らぬ者までをも混乱の坩堝に陥れたその恐るべき噂とは、「軍師様とその片腕が仲違いをした」というものである。
周国軍師であり崑崙道士でもある太公望の常に一歩後ろに控え、役目を忠実に果たす有能な天才道士楊ゼンの名は、畏敬の念をもって全軍に響いている。まだ稚気の抜けない若手道士達の中にあって唯一『仙人らしい』雰囲気を持つ彼は、一般兵士達の間にも尊敬の念を抱く者が多い(まあ実際知り合いになりたいタイプかどうかは別にして)。
加えて、太公望との仲睦まじさも有名であった。その真に意味するところは極少数の親しい者しか知らないとはいえ。
根っからお気楽なのが周の国民性である。「軍師様達に任せておけば大丈夫」的な雰囲気が全軍に漂っていないこともなく、太公望の頭を悩ませていたものであった。この場合下手に全幅の信頼を寄せていたがゆえに、今回の上層部の不和の噂が兵達に与えた打撃は大きかったりする。浮き足立ち、今敵が攻めてきたとして勝てるかどうか。
そんな、端から見たらアホさ極まりない理由で壊滅の危機にある周軍に、一筋の光明が射す。
ここに、人心の不安を収束させ、軍に秩序をもたらす為立ち上がった正義の使者が約三名いたのであった。
……多分。
「……だからって、なんでオレ達が他人の色恋沙汰に首を突っ込まなきゃなんねえんだよ」
「うるさいわね!あんた達だって太公望の友達でしょう!?友人の危機をほっとくなんて友達甲斐のない奴らねえ!!」
「蝉玉のはただの野次馬さね」
天化が煙草の煙をゆっくり吐き出した。蝉玉は、厭そうな顔をして煙を手で払う仕草をする。
今日は兵達にも疲れが見えるという太公望の判断で、平常よりも早く野営地の設置が始まっている。先日の呂岳による病から回復したとはいえ、まだ体が本調子ではない者も多いだろうという考えから発せられた命令であった。
実は兵達は疲れているわけでなく意気消沈しているだけだが、無論太公望はそのことを知らない。勘付いているだろう黄飛虎も、何食わぬ顔で兵達に指示を飛ばしていた。
予定としては、この地点で哨戒を兼ねてもう二、三日を過ごした後再び野営地を畳んで先へ進むことになる。付近には比較的大きい街もあり、兵達の息抜きには丁度良かった。
見晴らしの良い大地に次々とテントが立ち並んでいくその片隅で、姫発・天化・蝉玉の三人は密談を交わしていた。この場合、声量が小さいのではなく、人目を避けるようにテントの影で話し込んでいるから密談だということである。
「……んで、そもそもその噂はホントのことさ?」
「とーぜんよ!元スパイを甘く見てもらっちゃ困るわね!!」
蝉玉は哄笑した。たまたま資材を運んでいた数人の兵士が驚いて彼らの方に視線を向ける。はっきり言って密談の意味を成していない。
「アイツらって最近お互いがよそよそしいのよねー。仕事の打ち合わせ以外で話しているのを全然見ないし。大体一緒にいるとこをほとんど見ないのよ!」
「そりゃいつもとおんなじだろ。アイツらが人前でベタベタしてんのなんて見たことねーぞ、オレ」
「以下同感」
盛り上がる蝉玉に対し、やる気のない男性陣である。
「……でもまあデキてるってのはなんとなく解ったよな」
「事務的なこと話しててもなーんか独特の空気作ってたさ。よく見ると楊ゼンさんの態度露骨だし」
進軍前は同じ執務室で仕事をすることの多かった姫発は、実感を込めて頷く。一種熟年夫婦めいたツーカーぶりといい、第三者としては随分と居心地の悪い思いをしたものである。
「でしょー?見てたら様子がおかしいってのは解るのよ!」
蝉玉は勢いづく。
「しかもねえ、どうやら怒ってるのは楊ゼンの方らしいのよ!!」
「………えええっ!?」
ここぞとばかりに出した蝉玉のマルヒ情報に男性陣は驚愕した。この時点で有無を言わさず蝉玉の術中に嵌ってしまったことには気付かない。
「嘘だろ!?愚痴ばっかり言ってるようで太公望のヤツにはとことん甘い楊ゼンが?」
「師叔がまたつまんない我が儘言って怒ってるんじゃないさ!?」
「バーカねえ。普段は太公望の方が全面的に悪い喧嘩でも、楊ゼンが謝って丸く収まるじゃないの。楊ゼンが許せないようなことだから問題なんじゃない」
「………これはゆゆしき事態さ」
「だから始めっから言ってんじゃないの」
口調は兎も角、蝉玉は嬉しそうである。自己主張の激しさゆえに、自分の意見が認められるのは気分がいいらしい。
「……で?オレ達に何しろって?」
渋々、といった様子で尋ねた姫発に、瞳を輝かせて蝉玉は頷いた。
「まずは情報収集よ!!スパイの基本だわ!!!」
蝉玉は高らかに宣言した。その声の大きさに、近くを通りかかった兵士が振り向く。
どうでもいいが、ここまで自分達の行動パターンを知られていいものだろうか、太公望と楊ゼン。なんか策士っぽくない。
土の音をサクサク響かせながら、姫発は太公望の為に整えられたテントへと足を向けた。なるべく何気なさを装ってのことである。
あの後蝉玉の出した提案とは『直接本人達に事情を聞く』というものであった。大きいことを言っていた割にはストレート過ぎる作戦である。
自然にそういう方向に話をもっていって上手く話を聞き出す。することは判っているのだが、姫発には上手くやれる自信はない。元々天化にしろ蝉玉にしろ、そういう交渉術は苦手な部類である。まして相手はあの老獪な太公望だ。
姫発は溜息を付いた。そもそも太公望のことに関して冷静でいられることも出来ない。気は進まないのだが、心配なのも事実である。諦めて再び歩を進めようとしたが。
「何だ?姫発ではないか」
「うわぉっ!?」
「……そんなに驚かんでも。失礼な奴だのう」
てっきりテントの中に居ると思っていた太公望本人が背後から声を掛ければ、そりゃ驚いて当然だろう。その腕に結構な量の書簡を抱えているのを見咎めて、姫発は眉を顰めた。
「なに、オマエ自分の天幕にまで仕事持ち込んでんのか?」
「どこぞの王がことある毎にサボろうとするのでな。そのしわ寄せがわしのところにまで来るというわけだ」
喰えない笑みでにやりと笑う。姫発は憮然とした。
「あー、悪ィな。……だからってそんなに根を詰めない方がいいんじゃねえの?」
この言葉は自然に太公望の身を気遣う気持ちから出たものだったが。
「……煩いわ。わしの勝手だろう」
一瞬にして、太公望の表情が強張った。同年代の友人のように、言いたいことやキツイこともぽんぽん言ってくる太公望だが、こんな余裕のない言い方は滅多にしない。
姫発は自分が何かまずいことを言ったのだと気付くが。
「ふん。おぬし暇そうだのう。仕事を休めと言うなら、その余暇で兵法の基礎をばっちり講義してやろう。さっさと来い」
「………げ」
不機嫌な表情のままテントへと歩いていく太公望の小さい背中を見ながら、自らの掘った墓穴の深淵を覗き込む思いのする姫発である。
びしばししごかれた挙げ句用件は何も聞けないという最悪のビジョンが脳裏を巡った。
「こら、何をしとる。早く来んか!」
「わ、わーったよ!」
テントの入り口に立った太公望が大声で呼ぶ。
再び溜息を付いて、姫発はそれに応えると早足でテントへ向かった。
結局、唯一得た収穫は、太公望が随分と荒れているということの確認だけであった。
「……で、楊ゼンさんって何処にいるさ?」
こちらは天化。彼は楊ゼンの担当に決定されたが、話を聞き出す本人の居所自体が判らなければかなり意味がない。
仕方なくその辺をぶらぶらしていた。
これが西岐城なら女官の黄色い声でも頼りにして捜せるのだろうが、生憎と野郎ばかりの陣中にあっては使用出来ない方法である。
「ま、いいか……」
のんきに呟いて天化は口にくわえていた煙草を摘んで、地面に放り投げるが(ポイ捨てはいかんぞ天化)。
どかーん
謎の爆発音に瞬時に身構える。
てっきり敵の仙道の攻撃だと思ったが、よく見ると空中で宝貝を構えているのは周軍一の破壊魔であるナタクである。
しかし、しばしば彼との稽古(ナタク曰く殺し合い)をしていた雷震子は先日北伯のところへ派遣されたはずである。あと、自分以外にナタクの相手が務まる者といったら。
捜し人の存在を確信して、天化は駆けだした。
案の定、ナタクによる被害の中心地に楊ゼンはいた。ナタクは地面すれすれのところまで降りてきており、火尖槍を手に接近戦を図っているようだ。
流石に彼ら二人の間に割って入るような無謀な真似も出来ず、天化は少し離れた場所で観戦することにした。強い者の戦う姿を見るのは年若い自分にとって勉強になる。
しかし、ちょっとした違和感に天化は気付いた。
今までもナタクが一方的に挑戦してきて二人が戦い始めるのはよくあったことである。その全ての戦いを見ていたわけではないが、楊ゼンの戦い方は変化術中心である。ナタクの損害少なく勝利も納めようという、楊ゼンの優等生的な態度の現れと理解していたが。
今現在、楊ゼンは三尖刀を使った攻撃のみをしている。ナタクの火尖槍と対等に戦うつもりなのかもしれないが、戦闘能力のみをとれば楊ゼンすら越えるかもしれないナタク相手に無謀な戦い方である。
と、考えている内にも戦いは続いていた。火尖槍が長く伸びたその切っ先を間一髪で横に避け、楊ゼンは三尖刀を振るった。長い蒼髪が翻る。
「……ぐっ」
三尖刀から出た衝撃波がナタクの脇腹をはじめとする数カ所を深く抉った。そのままナタクは地面に蹲る。何処か機関が壊れたのか、機械的にピー、ガガガなどと音を立てているのが故障で痛みを感じていない可能性を感じさせて、不謹慎だが少しほっとする。
「……ちょっとやりすぎちゃったかな」
流石に気まずそうに楊ゼンが呟く。だが、まあ太乙さまが修理しに来るだろう、などと一人で納得して、笑顔で天化に振り返った。
「天化君には恥ずかしいところを見せちゃったな」
にこやかな対応だが、天化は数歩後ずさった。少し返り血の付いた楊ゼンの目は笑っていない。元々人当たりは良いが他人と一線を画したようなところのある楊ゼンである。しかも今の楊ゼンは何だか怖ろしい。
「思った以上にナタクが強くてね。手加減が出来なかったよ」
「…へ…へえ、そりゃ大変だったさね……」
引きつりつつ天化は愛想笑いを浮かべる。当初の目的は何処、一刻も早く逃げ出したい。
「……で、でも、どうして楊ゼンさんは変化を使わなかったさ?」
それだけは聞いておきたかったので尋ねてみた。
「僕自身の力を試してみたかったんだけどね……」
何処か憔悴した笑みで楊ゼンは言葉を濁した。
「あ、そうだ。天化君も暇なら修行の相手をしようかい?」
「けっ、けけけけ結構さっっ!!」
慌てて天化は手をぶんぶんと振った。今の楊ゼンと武器を交えたら、冗談でなく殺されそうな気がする。傍らに転がっているナタクを一瞥して天化は思った。
「そう……残念だね……」
天化の態度を気にすることなく、楊ゼンはナタクを片腕を掴むとずるずると引っ張っていく。応急処置くらいはする気なのだろうか。
「じゃ、じゃあっっ!」
その場を逃げ出すように天化は逆方向へと走る。
結局、唯一得た収穫は、楊ゼンが随分と荒れているということの確認だけであった。