「おお、賑わっておるようだのう!!」
「おいおい、川に落ちても知らねーぞ?」
赤い欄干から小柄な体を乗りだし、はしゃいだように歓声をあげる太公望を、姫発と天化は苦笑をもって眺めた。
橋を渡った先には、夜の帷を押し返すかのような活気溢れる不夜城。
この状況には訳がある。
調査の翌日、彼らは自分達の得た収穫(というほどのものではないが)を報告しあった。
「とにかく二人が大荒れに荒れてるってのは判ったのよね……」
蝉玉が腕組みをして唸る。
「ま、アイツらがなんか余裕ないことになってるのは確かだろうな」
ひいては仲違いの噂の信憑性も高くなったということである。
昨日は太公望の八つ当たりに近いスパルタ教育の所為でどっと疲労した姫発である。本来なら太公望と二人きりというのは彼にとって願っても見ない僥倖なのだが、用事が用事であるし、サボりたさの方が勝った。
「……なんだ、今夜でもオレ達で太公望に酒でも奢ってやるとか」
そこまで考えたところで、姫発はふと思いついたことを言ってみた。
「ああ、それはいいさ。酔っぱらってべろべろになったらスースも口が軽くなるかもしれないさねえ」
天化が同意する。
「あんた達が街で遊びたいだけなんじゃないでしょうね……。まあ仲直りさせる方法なんて思いつかないし。気分転換させてやるのもいいかもしれないわねぇ。うん、じゃ、二人に任せるわ」
「……なんだ、蝉玉は行かないさ?」
天化が唇を尖らせ、僅かに不満そうな表情を見せる。
「だってぇ〜、あたしってばなんといっても人妻だし?日が暮れてからハニーを置いてあたしだけどっか行くわけにもいかないっしょ?」
何が嬉しいのか、蝉玉は頬を弛めつつ『まいったねこりゃ』のポーズをした。
「……はいはい解ったから……」
別の世界へイッてしまっている蝉玉を見て、参ったのはこっちの方だと天化がこぼす。
兎に角、日暮れを待って姫発と天化が太公望を街に連れ出すということで話は決まった。
「……それで?楊ゼンの方はどうする?」
「俺っちもうあの人とこの件で関わりたくないさ……」
昨日恐怖体験をしてきたばかりの天化が肩を落として言う。
「………まあなあ………」
「だらしないわねえ。あんた達男でしょーが!ああもうハニーとは大違いね!!」
蝉玉の言葉には苦笑で返す男性陣。
違っていて良かったとは、大っぴらに言えない事実であった。
最後の太陽の残滓が消え、覆い被さるように黄昏の藍色の闇が近付いていく時分、大抵の店は軒を下ろし、人々も帰路につく。
ただ、日が暮れた後に活気づくという界隈は何処にでもあるわけで。
そんなわけで三人は宿営地近くの都市にある繁華街に繰り出している。
一つ、また一つと店内や軒先に明かりが灯っていく。
その間を、珍しい物を見るようにきょろきょろとしながら周の一般兵達が徘徊していた。
押さえつけるばかりでは兵達に不満が溜まり、却って指揮もしにくくなるというのが太公望の持論である。略奪や暴行を厳しく取り締まる一方、当番制で、行動の自由を与えてもいた。勿論人々に迷惑を掛けない範囲で、ではある。
兵達が割合大人しく、地元の民に立ち混じっているのを見て、太公望は機嫌良さそうに自らも人混みに飲まれていく。姫発と天化ははぐれないように追いかけるのが一苦労である。
ある店が、透けるような薄い色紙を何重にも重ねて花の形にしたものを幾つも、街路に面した店頭に飾っていた。中には高級品である蝋燭が入っているのか、炎が揺れる都度花は繊細な陰影を見せる。
「……贅沢なものだのう……」
わざわざ間近まで近寄っていって覗き込みながら、太公望は感嘆の声をあげた。
「豊邑にもこんなのはなかったよなあ」
やっと追いついた姫発も感心したように頷く。
「国境近くならではであろう。ここはまだ周の国内ゆえ民の生活には余裕がある。そこに殷の雅な文化が流入してこのような趣向を凝らすようになったのだろうな」
「あー、確かに西岐はなんか建物とか地味っぽいさ」
太公望の分析に、朝歌生まれの天化が相づちを打つ。
「お前はこーゆー派手なモンは嫌いだと思ってたけどな」
深くなっていく闇の中、いよいよ光は美しく輝きだしている。営業を始めた店も徐々に増え、一帯が非現実的な美しさに包まれているようであった。
「確かに好みというわけではないが。美しいものを素直に愛でるのも悪くあるまい」
ゆらゆら揺れる、ぼうっとした赤い灯りに彩られた太公望の表情は、明るそうに見える。やはり気晴らしになったのか、と二人は安心した。
「で、何処の店にするさ?」
「……おぬしらが奢ってくれるなぞ、天変地異の前触れかのう」
「ひでぇなあ、オレ達の感謝の気持ちをそーゆー風に言うわけ」
ジト目で胡散臭そうに見上げてくる太公望を、笑って姫発はかわした。
「まあいいが。じゃんじゃん呑むから覚悟せいよ?」
「俺っち達の財布が空になる前に切り上げて欲しいさ」
端から見たら、兄たちの夜遊びに付いてきた弟のように見えるのだろう。太公望を真ん中に挟んだ形で、三人はつまらないことを言い合いながら店を物色していった。
三人ともこの街は初めてである。小料理も出す居酒屋のようなものが多く軒を並べる界隈であるが、中には女郎屋を兼ねたようなものや、いかがわしい種類の人間の出入りするような店も混じっている。
姫発だけや天化と二人だったら好奇心で入っている可能性が大だが、見かけ上は幼い少年のような容姿をした太公望を連れて入るのは気が引けた。
「んー?と……ここは駄目だな」
何軒かの店で軽く呑んだ後、とある一軒の入り口を覗き込んで姫発は苦い声を出した。
「どうした?なにか問題があるのか」
てめえのせいだよてめえのっっ!…と言いたいところだが、実年齢はジジイである太公望に言っても馬鹿にされそうな気がする。結局無言で睨み合う形になるが。
「道士様っ!!待って下さい!!!」
突如聞こえた声に、天化はびくりとする。
が、人混みを押し退けるようにして走ってくる男は、彼らの傍らを過ぎっていくとその先へと腕を伸ばした。
「……………げ」
思わずそちらを向いた天化は、視線を通りの向こうに固めたまま硬直する。よく見ると冷や汗もだらだらかいているようだ。
「なんだよ。オメエも……って、……うゎ……」
「……………ああ、なるほど」
太公望のひどく醒めた声を耳にしながら、姫発は頭を抱えた。
地元の人間や周の一般兵でごった返している街路、その中でも一際目立つ一団がいた。
その中心にいるのは、暗くて造作が見づらいといえども充分人目を引くような男で。
蒼い髪の男は、姫発もよく知る道士だった。
楊ゼンは、こちらには全く気付いていない。
必死の形相で近付いてくる男を目を眇めて見る傍ら、側の女性達に安心させるように笑いかけていた。
華やかな色彩の裳。ひらりと音のしそうな薄手の羽衣。高く髪を結い上げ、玉などで飾りたてている。隙のない化粧に、媚びを滲ませた双眸。
艶やかな女達は、荒んだ雰囲気はしないとはいえ、どう見ても堅気の娘というかんじではない。そんな女達が三、四人、頬を染めながら彼にしなだれ掛かっていた。
「お、おいっ!あっちへ行くぞ!!」
「そ、そうするさねっ!!」
今更目隠しをするわけにはいかないが、慌てて二人は太公望を楊ゼンの見えない場所まで引きずっていこうとした。
「別に。……面白い見せ物ではないか」
一人場違いな程冷静に、太公望はやや皮肉気な笑みを浮かべる。
二人がこのアクシデントにパニックに陥っている間も、太公望曰く『見せ物』は刻々と進んでいた。
「道士様っ」
やっと追いついた男が、楊ゼンの腕を掴んだ。それを払いのけつつも、仕方なさそうに楊ゼンがその男に向き合うのに、周りの女達が不満そうな声をあげる。
「……なにか用かい」
「あっ、あのっっ!」
問われた男は気後れしたようにどもりつつも、必死な眼差しを楊ゼンに向ける。楊ゼンには劣るが、なかなか整った顔立ちをしていることに、姫発は気付いた。
「あのっっ、ぐ、軍師様のことです!!あの方は本当に軍師の太公望様なのですかっ!?彼は……」
思わず二人は視線を隣に向ける。予想の内だったのか、太公望はにやにやとその光景を眺めている。
「……君の言う『彼』が誰を指すのかは知らないけど、先日君が声を掛けた方は間違いなく太公望師叔だよ」
「…………」
「なにか言伝てがあるのなら聞いておこうか?」
笑顔であるにも関わらずどことなく凄味のある楊ゼンに、男は威圧されたように数歩後退った。
「それとも直接本人に訊くかい?」
「………っ、いいえっ!いいえ……!!」
打ちひしがれた様子で、男は大きく首を振る。
そのまま一礼すると、脇目もふらず元来た道を駆けだした。そのまま、姿は人混みに紛れて見えなくなる。
「………さて、終わったようだのう」
男の消えた方を一瞥すると、太公望は何事もなかったかのように歩き出した。
「!」
二人は慌てて後を追うと、元のように太公望の両脇を固める形を取る。
堂々と街路を歩いてくる三人に気付き、楊ゼンは片側の唇を上げた。そんな表情もサマになる男である。
お互い、何も言わない。声も掛けない。
そのまま、ぶつかりそうな至近距離をすれ違った。楊ゼンに一番近い位置の姫発は思わず楊ゼンを睨み付けるが。
視線も返さない、作り物めいた美貌の男は無表情で前方を眺めているばかりである。
痺れを切らした女達が文句を言うのを宥める楊ゼンの声を背に、姫発は太公望の肩に腕を回した。
なんだか切ない。
それにも太公望は無反応であった。
「今日はやめとくか………」
「また楊ゼンさんに遇ったりしたら大変さ……」
次の晩、天幕の中でごろごろしながら姫発と天化は溜息を付いた。
あの後結局何軒もの店をハシゴして、陣中に帰ったのは明け方近かったのだが。
平然としているのは太公望一人で、二人の方が居たたまれなさで気まずい思いをした。
表面上は何でもない風でも、眼前で恋人の女遊びを見せつけられて太公望も心中穏やかでないはずだろう。
弱みを人に見せたくない性分の太公望である。自分達がいたからこそ平然を装わざるを得なかったのだろうと思うと、こちらから誘ったことも含め慚愧の念が込み上げる。
結局、遠慮もあって楊ゼンに喰ってかかった男の正体も聞けず仕舞いだった。太公望の知り合いのようだが、二人には心当たりもない。
「でも楊ゼンさんも酷いさね!スースと喧嘩してるからって浮気するなんて間違ってるさ」
若くて潔癖な面を持つ天化が憤慨する。
蝉玉の得た情報では、楊ゼンも同じような時刻に帰ってきたらしい。それが居酒屋をハシゴした結果なのかどうかは不明である。
「憂さ晴らしなんだろーけどよ……。バレて言い訳の一つもなしってのはな……」
二人の関係は既にバレバレであるが、あくまでも隠しておきたいのだろうか。
太公望の言動からもそう窺える部分はあるが、だからといって自分にはそんな自制心は持てそうにない。……やっぱり頭の良い奴らってのはややこしい。
「スース今頃どうしてるかね……」
「四不象とかと遊んでるだろ」
二人とも投げやりな気分である。
大体合わせる顔がないような気がする。
天化が苛々と新しい煙草に火を付けようとしたが。
「兄さま!!!」
入り口の布が翻り、起こった風で煙草の火が消えてしまった。
「よっ!天祥、どうした?」
姫発は周軍最年少の少年に気安く声を掛けた。
ここは天化の天幕であるし、兄に何か用事があるのだろうと軽く考えていたのだが。
「もう子供は寝る時間さ」
「もーうっ!そんなこと言ってる場合じゃないのに!!」
天祥は地団駄を踏む。
「あのね!たいこーぼーがいなくなっちゃったの!!!」
「…………………なんだって!?」