――本当は、ずっと怖かったのだよ――
天祥の話はよく要領を得なかったが、事情はこういうことらしい。
まず、同じ天幕で寝起きしている太公望と四不象がお互いの鼾について文句を言い合ったのが発端。
喧嘩はエスカレートして、とうとう太公望は四不象を天幕から蹴り出した。仕方なく四不象は一時避難所に黄兄弟の天幕を選んだが、それを聞いた天祥がスープーの代わりに太公望と一緒に寝たいと言い出した。そして天祥曰く「おねがい」に赴いたところ、既に天幕はもぬけの殻だったとか。
まずは現場検証とばかりに太公望の天幕へ赴いた二人は、そこでおろおろとしていた四不象の話も交え、おおよそを理解した。
太公望は、いつも一緒にいるスープーをわざと遠ざけて宿営地を抜け出したのだ。
何年も一緒にいて、今更鼾が五月蠅いもないだろう。多分それは口実だ。
「それであいつは何処にもいないのか?」
「はいっス……。宿営地の中は全部探したっスよ…!」
西岐城にいた頃は、サボリと称してよく抜け出していたが。それも自分の責任を果たしてからだったし、進軍してからは行き先も告げずに姿を隠すことなどなかった。
やはり気付いていなかっただけで、本当はかなり傷ついていたのだろうか。察してやれなかった自分達に怒りを覚える。
それは四不象も同じのようで、気の良さそうな顔が今にも泣きそうになっている。
「どうするか……鼻の利く武吉っちゃんは自宅通勤だから今はいないさ」
方策もなく皆は途方に暮れた。
と、再び天幕の入り口が何者かによって上げられる。
「あれ………?」
「あっ、楊ゼンさん!たいこーぼーが大変なんだよぉ!!!」
紙袋が、音を立てて落ちた。
太公望は、何をするでもなく座り込んでいた。強い風が吹いて辺りの灌木を揺らす。
宿営地からそう離れていない小高い山の上である。
太公望はぼんやりしたい時は、大抵山に登る。それは荒れ野の中に忽然と聳え立つ巨大な奇岩であろうと、鬱蒼とした大木に囲まれた深山でも構わない。
姜である時は実際に岳を目にすることはなかったが、山岳に対する郷愁は血の中にインプットされているのだろうか。以前、ある山頂からうっすらと嵩山の姿を認め、不覚にも泣きそうになったこともあった。
ここは宿営地を作る際、材料となる木を調達してきた場所である。旅団が到達する少し前に下見で訪れた際に、気に入ってはいたのだ。
余裕が出来たら来てみたいとは思っていた。まさか誰にも言わず、こんなかたちで行くことになるとは思ってもみなかった。
それに、一人と言ってもいつもは、傍らに四不象が居た。
本当に自分らしくないことである。思わず苦い笑みが浮かぶ。
今度は風もないというのに、灌木が微かな音を立てた。
「覗き見も飽きてきたのではないか?」
「……なによ。気付いてたんじゃないの」
かんじわるーい。ぶつくさ言いながら蝉玉が茂みの蔭から顔を出した。
ぱんぱん、と膝に付いた土埃を払うと、当然のように大股で歩み寄り、太公望の傍らに座った。
「スパイ業は返上したのだと思っておったのだがのう」
自分よりやや高い位置にある蝉玉の顔を見、くつくつと笑う。
「あのね。……あたし達が何心配してんだか解ってんでしょ。原因はなんなんだか知んないけどとっとと仲直りしなさいよ」
「……余計なお世話だのう」
「なっ……!」
蝉玉はカッとなって太公望を睨み付けるが、太公望は飄々とした態度を崩さないままである。それを察し、蝉玉は脱力した。
「もうちょっと素直に生きなさいよね、あんた」
「これが性分だからな」
溜息を付きつつ言うと、太公望も寂しそうに笑う。他の人間を見下しているわけではないのだが、自分の本心を決して表出させようとしない太公望の態度は、孤高を保つ蝉玉の元の上司を思い出させた。
それでも今はガードが柔らかい気がする。ここが戦とは関係のない場所で、周囲に余人が居ないからだろうか。
この機会に乗じてみた。
「……あの色男に謝ったら?あんたが怒らせたんでしょ」
「………ふん」
蝉玉の直言を、柳に風とばかりに聞き流している風な太公望の態度だったが。
「のう蝉玉。おぬしハニーが浮気したとしたらどうする?」
「決まってるわ。ハニーを殺してあたしも死ぬ!」
物騒なことを高らかに蝉玉は宣言した。
「そうか、」
「……ううん、やっぱり嘘かな。……ハニーにはいつまでも生きてて欲しいよ。でもね、あたしだけを見てて欲しい。許すのは絶対無理だなあ」
……それがなんなの?蝉玉は首を傾げつつ太公望を覗き込んだ。
「まあなんだ。……喧嘩の原因か?」
「えええっ!?どっちが!?って太公望がっっっ!!?」
「悪いのは楊ゼンなのだぞ。……って」
苦虫を噛み潰したような表情で、なんでこんなことを言わねばならんのだ……などとぶつぶつ呟く太公望である。
「楊ゼンの奴が本格的に下山する前だったのだがのう。
まあちょっと荒れていた時期があってな、時折豊邑の繁華街で後腐れのなさそうな奴を引っ掛けて遊んでたりしたのだが。……先日その中の一人とばったり遇ってのう」
やれやれ…、と太公望は溜息を付いた。
「まあ周の男の大多数が徴兵されておるからのう。今まで会わんかったのが奇跡で、多分他にも数人は混じっておるのだろうが、……まさか楊ゼンと巡回してる最中でなくとも良かろうが」
「………絶対それあんたが悪いわ」
反省の色もなさそうな太公望の態度に、蝉玉はゲッソリとする。
姫発や天化の言っていた男というのは、その人物のことであろう。楊ゼンに喰ってかかるような態度から見て、相手は結構本気だったのではないだろうか。
そんでもって、相手は全員男なんかいとかツッコミどころはあるが、返答が怖くて出来ない。
「楊ゼンが悪い」
「なんでよ」
「……あやつは。わしが男だとか、結構な年を生きてきてることだとか、全然認めとらんかったのだ」
そう呟いた太公望の表情は、穏やかなものであった。
「『あなたがそんな人だとは思わなかった』とか呟いてどっかに行ってしまったがな。
……自分はどうなのだ。会ったこともないわしの元にまで届くくらい、艶話の噂が絶えなかった自分は」
「……だって、昔の話なんでしょ?………あ、そうか………」
「自分のことはなかったことにする気なのに、わしの過去は許せんのだ。あやつの目に映る『太公望師叔』は奴の理想通りの純真な存在でなくてはならんのだよ。
……まあそれが当然なのかな」
そう言って笑う太公望の貌が何故か慈母のように見えてしまった自分に、蝉玉は混乱した。疲れたように、太公望は息を吐き出す。
「わしはその辺はアバウトだからな。わしとこうなった後でも、奴が他の女に文を貰ってたりしても気にしたことはなかったし」
「……やっぱりあんたが悪いわ、それ。なんか歪んでるわよ」
太公望は楊ゼンに何も期待していない。それは優しいのではなく、自分を慕う者にとっては残酷なことではないのだろうか。
「こういうのは初めてなのでな。……勝手がわからん」
「は?あんた散々遊んでたんでしょうが」
「本気で好きな者とは全くだったぞ?」
しれっという太公望の神経は絶対おかしい。歪んでいる。蝉玉は変なところで確信する。
「……レディに向かって何言ってんのよ」
すまんな、などと言いつつ笑う太公望は悪ガキそのままで、恋愛相談中には見えない。まあ相談内容も普通ではないのだが。全てがアンバランスである。
「長いこと生きとるから何度か好きな人も出来たが。……言えるわけないだろう、こんななりのガキが、同性に、嫌われたくなければ」
その悪ガキの表情のままで、さらりと言う。
「後腐れない相手ならどう思われても構わんだろう?大体わしなんぞを欲しがる変態を好きになどなれるか。気持ち悪い」
呟く顔には嫌悪感が表れている。
「訂正。……あんたってやっぱり乙女っぽいわよ」
大体自分達はなにを話しているんだか。つい失笑してしまう蝉玉を、胡乱な目で太公望は見上げた。
「……なんだ」
「なんか、女の子同士が恋愛について熱く語ってるみたいじゃない、このシュチエーションってば」
「おぬしが姫発や天化まで使って、根掘り葉掘り野次馬根性丸出しでうろうろするからだろう。大体わしだってここまで喋る気はなかったわ」
「ふふん、なんか女の友情ってかんじよね♪」
「……気持ち悪いのう」
「失礼ねえ、ってあたしがあいつら焚き付けてたって知ってたのね……」
「わからいでか。策士を舐めるなっつーの」
あはははは、と二人は顔を見合わせて笑った。
「……ねえ、あんた謝るべきだわ、やっぱ。ちゃんと自分の気持ちも言ってさ、その男のことは全然好きじゃなかったー、とか」
もう一度言ってみるが、多分駄目だろうなとは思った。
「言えぬわ。自分のことも遊びじゃないのかだの色々煩そうだ」
それでも何か吹っ切れたのか、太公望の笑いは清々しいものだった。ただ、さっきから痛いことを言う時にこそ優しい笑顔を見せていたのだが。
これ以上は入り込めることでもなく、蝉玉は項垂れた。
ここまで話してくれたこと自体奇跡だし。
「でも、なんでいつものあんたみたくはぐらかさなかったの?」
「……今のわしはそんなに『太公望』っつーわけではないのだ」
「……へーんなの」
それ以後は、なんとも言えない鬱屈を弄びながら、お互い黙って座っていたが。
ふと太公望が身を固くした。
「え?なに……」
「――師叔」
突然背後から掛けられた声に、蝉玉は驚いて振り返る。
気配も何もなくそこに佇んでいたのは、蒼の色彩を持つ美丈夫だった。
声を掛けられた当人は、気付いているだろうに、背を向けたままである。
「何だ?」
声だけで応じれば。楊ゼンは冷たい眼差しを相手に向ける。
「ご自分が何をなさっているのだか自覚はあるんですか?
軍を預かる者として、己の責務を放り出して身を隠すなど冗談じゃありません。あなた一人の行動が軍全体にどういった影響を与えるのかお解りでしょう。軍を動揺させ、皆に迷惑をかけて、そんなことで軍師が務まるとでも思ってるんですか!」
「ちょっと楊ゼン!あんた誰の所為だと……」
太公望が悪いとは言ったが、容赦のない楊ゼンの言葉を聞くと太公望が哀れに思えてくる。蝉玉はカッとして言い返そうとするが。
「ふん!おぬしがトロトロしておるのがいかんのだ!軍師不在の穴を埋めるなりすぐに見付け出すなり出来んで補佐が務まるとでも思っとるのか?覚悟の甘いのはおぬしの方だ」
「た、太公望……?」
「おや責任転嫁ですか?見苦しいですね」
「それはこっちのセリフだのう」
自分の口を挟む間もない険悪な会話に付いていけず、蝉玉はおろおろする。
「……まあいい。帰ってやるわ。感謝せいよ」
「誰がですか」
「おぬしが」
よっこらしょ、とジジ臭い掛け声をかけて立ち上がると、太公望はそのまますたすたと元来た道を戻ろうとする。
慌てて蝉玉も立ち上がり、後を追おうとした。楊ゼンはしばらく立ち止まったままであったが。
「……師叔」
「ん?」
平常通りの声で掛けられた声に、太公望は初めて振り返り、楊ゼンに視線を向ける。
立ち止まった太公望に気負いなく近付くと、楊ゼンは手にしていた包みを渡した。
「深夜営業していたので買ってきたんですが、アンマン。この騒ぎでとっくに冷めてるとは思いますけど」
視線が交錯した。
強い眼差しが刹那、絡まる。
それを惚けたように蝉玉は見ていたが。
「ん?蝉玉何をしておる。早く帰るぞ」
次の瞬間には、太公望はゆったりと坂道を下るところであった。
その斜め後方には、いつも通り有能な補佐役の姿。
「………なんなのよ、もう」
小声でぼやくと、蝉玉は軽やかに駆け出した。
「たいこーぼーと楊ゼンさんが仲直りして良かったね!!」
翌日、周軍は宿営地を畳んで、進軍を再開した。
楊ゼンの指示により、太公望の夜間失踪は口止めされていたので、その間の事情については兵達は何も知らない。
ただ、雰囲気で和解に気付いたのか、彼らの表情はどことなく明るかった。
道士達は、兵の一団に混じりつつも自然と自分らだけで固まって歩いている。無邪気に喜ぶ天祥の傍らで、天化は腑に落ちないような顔をしていた。
「……それで、なんでスース達は仲直りしたんさ?」
「それがあたしにも分かんないのよねぇ。なーんかいつの間にか有耶無耶の内にそうなってたってゆーか」
いつものように土公孫の首に両腕を絡ませた状態のまま、蝉玉は溜息を付いた。当の土公孫は諦めの境地に入ったのか、されるがままになっている。
「よう」
集団に気付いた姫発が軍の先頭から馬を遅らせ、彼らの方に近付いてきた。周りの兵士達は、いきなりの王の登場に驚いている。
「王サマ、勝手に先頭を離れたりしてスースに怒られないんかい?」
「ああ、アイツらは今なんか小難しい話してるからな。オレの動向なんかに構っちゃいられねえって」
姫発の言葉に、自然と噂の二人に視線が向けられる。
進軍のことか、殷軍攻略のことについてだろうか。眉を寄せ合って、なにか討論しているようだ。事務的なかんじで、特に甘い雰囲気が流れているというわけでもない。
だが、寄り添って在るその姿に、皆は安心した。
「そーいや喧嘩の原因ってなんだったんだ?」
「ああ、俺っちもそれが訊きたいさ」
「……あー、それも分かんなかったのよねー……」
本当は知っているが、蝉玉はしらを切った。太公望の名誉の為にも、黙っておいた方が良いだろうと思う。
「……ふーん。ま、いいけどな」
多少は面白くない顔をしつつも、姫発はあっさりと引き下がる。
「……コラ!きはつ!」
遠くからでもよく通る高めの声が、前方から聞こえた。見ると、太公望が怖い顔をして、こちらを手招きしている。といっても迫力はないのだが。
「あ、やっべえ。じゃあな!」
しかし姫発は慌てて馬の腹を蹴った。砂埃を残し、元の位置へと戻っていく。
「王サマもなんだかんだ言ってスースには頭が上がんないさねぇ」
呆れたように、天化が呟く。
「天化兄さまだってたいこーぼーの言うこときくじゃないー?」
「俺っちはスースの部下だから当然さ」
ぼりぼり頭を掻く天化を見て、姫発を叱りつけているらしい太公望を遠くに見て、その傍らで苦笑している色男を確認して。
「……ねぇハニー?あたし達もあんないいかんじの夫婦になれたらいいわね©」
「はあ!?」
他人のゴシップには興味がないのか、今まで会話にも参加せずぶすっとしていた土公孫は、いきなり話を振られて驚いた。
「おっ、オレはまだ夫婦とは認めてねえ……ぐふっっ」
抗弁しようとした土公孫は、他人の話など聞いちゃいない蝉玉の抱き締め(しかも首)攻撃により撃沈した。それに気付かず、蝉玉は愛しいハニーをずるずると引きずって歩く。
「にしても、あの噂ってのは何処から広まったんだか……」
傍らの光景から目を背けつつ、ふと気になったことを天化は考えるが。
「あっ、蝉玉さんが土公孫さんを殺しちゃったー!」
「えっ、あっ、きゃああああハニー!!誰がこんなことをっっっ!?」
連続して上がった二つの叫びを聞いて、得心がいった。
天祥と蝉玉の位置を中心に、兵達が波がうねるように次々と混乱状態に陥っていくのを見たからだ。
そういえば自分達が相談している時も結構大声で話していた記憶がある。
……情報の出所は間違いなく自分達だということで。
「あっれー?皆さんどうしたんですかっっ!?」
「ああ……」
ようやく豊邑から自宅出勤してきた武吉がこれまた大きい声で訊いてくるのを受け流しながら、スースに軍の秩序の為の道士の隔離について打診しようさね……などと考える天化だった。
崑崙山脈は乾元山金光洞。
「あー……朝日が眩しいなぁ……」
七日間に渡る完全徹夜のお陰をもって無事に研究を一段落させた太乙真人は、本日久しぶりに研究所の外に出た。
「うん、絶好の昼寝日和かな」
気持ちよくのびを一つしたところ、不意に不吉な音が耳に入った。声というか。
「ば……ばうわうとかき、聞こえたかな……?」
アレはもしかしなくても生意気な天才道士の宝貝の声なのでは……。太乙は青くなった。
無視したいのはやまやまだが、そうなると後の報復が怖い。
「いぢめられたら太公望にチクるからね……」
誰に対してか言い訳をすると、太乙はそろそろと声のする方へ向かう。
「わんデシ。」
哮天犬はいた。楊ゼンの姿は見えない……が。
「うわぁあああああああああああ!!!ナタクっっっっ!!!??」
哮天犬の背にはナタクが乗せられていた。煙を出して大破している上に、数日間放置されていたかの如く落ち葉などが上に積もっている。
哮天犬は愛らしい顔をして太乙を見上げていたが、太乙にすればそれどころではない。
「た、確かにラボに籠もってた私も私だけどね……楊ゼン君……ふふ、ふふふ………っ」
哮天犬に手伝って貰ってナタクを研究所に運び入れながら、太乙は楊ゼンに対する恐るべき復讐について考え続けていたのであった。
最初はおぬしのことも遊びだったと言ったなら、
……おぬしはどんな表情をするのだろう?
ずっとずっと怖いのだ。
わしがわしでいられなくなりそうで。
この手に持てるものがあると錯覚しそうで。
温もりを手放せなくなる日が来るのが怖いのだ。
わしは不器用でしたたかでガキでジジイで。
それでも前を向いて歩きたいと思う。
そして、おぬしが傍に居てくれたとしたら。
居てくれたとしたら。
……いつか、ありがとうと言いたい。