――僕は、人間になりたかった。
心の中に砂漠があった。
父上は、二度と僕を迎えに来ないのだと理解した時からだと思う。
玉鼎師匠は実の父のように僕を育ててくれたし、師匠が『人間』なら、僕も人間になろうと思った。
僕は完璧な人型を覚えた。
完璧で、素晴らしい『人間』なら、誰もが愛してくれると思ったから。
誰もが、僕を受け入れてくれると思ったから。
実際は、僕が才能を発揮して『完璧』になればなる程、皆は僕を遠ざけていったのだけれど。
まだ足りないのかもしれない。
まだこれでも『人間』に見えないのかもしれない。
“あの人”のような、誰からも受け入れられる人間に。
走りながら、楊ゼンは歯を食いしばっていた。
太公望に刃を向けた、あの少年を捕まえて。
自分はどうしたいのだろう。
許せない気持ちがあった。太公望はあんなに彼のことを気に掛けていたのに、その想いを裏切ったのだ。
紙一重の妬ましさを見ないふりで、楊ゼンは思索する。
師叔は仰っていた。彼は自分を許したのだと。
楊ゼンも、出来るならそう思いたい。土壇場で怖ろしくなったのだとしても、楊ゼンに邪魔をされただけなのだとしても……例え、事実は違ったとしても。
そして、訊きたい。
同族殺し。
彼は、その心理的タブーを乗り越える為に敢えて『違う生き物』だと思い込もうとしたのか。
楊ゼンと同じように。
僅かに残る気配を追いかけても、仙道でもない只人の感覚は極微弱で、ともすれば失いそうになる。
もしや完璧に見失ったかと焦るまま角を曲がり、常人より鋭敏な鼻で異臭に気付いた。
先程までより、やや広い街路。
昼間はさぞ活気溢れるのであろうが、深夜の静謐の中、生き物の気配や僅か。
数人の影法師が、黒々と動いていた。
妖怪とも見まごうばかりのその影は。
月明かりに照らされ、詳細が判る。
人間の男達が、血にまみれた少年の躯を引きずっていた。
留め金が外れる音を聞いた気がした。
ぷつん。
「……馬鹿馬鹿しい」
太公望の暗殺には失敗したものの、それだけに証拠を遺さない必要に迫られて役立たずの死体を処理しようとしていた男は。
不意に耳に届いた、自分達以外の者の声にぎょっとした。
一人も二人も同じ、見られたのなら、口を封じなければならない。
他の仲間は一向に気付いていない風なので、自分が役目を果たさねばなるまいと億劫そうに顔を振り仰ぐ。
大臣家お抱えの猛者達すら気配を感じなかったということに。
……奇妙だと気付いたところで、意味はなかったかもしれない。
何かが目の前を凄い速さで掠めたと認めた瞬間。
「っ!かはっっ」
喉に鋭い痛みを感じ手を当てると、ぬるりとした触感と共に指の埋まる感覚。
頚を裂かれたのだと理解する前に、喉からひゅうひゅうと笛の漏れるような音をさせつつ、男は地面に倒れた。
「おい、なんだ!?」
見張りの為に遅れて付いてきていた仲間の異常を察知し、残りの男達も豆の躯を投げ出して、背後を振り返る。
「な、……!」
そこには、血に染まり、のたうちながら転がっている仲間と、……少し離れて佇んでいる一人の青年の姿。
「……ふん」
楊ゼンは、三尖刀に付着した血糊を振るい落とした。
月光を反射して、紫紺の瞳が冷たい光を放つ。
すうっと、その目を細めた。
男達は、遠目からでも一度見れば忘れられない美貌に、相手が誰かを察知した。敵と認識し、ひとりでに身体が戦闘態勢を取る。
「こ、こいつ、例の道士……!!」
「妖怪殺しの!?」
その言葉と共に、楊ゼンは跳躍した。驚く程の距離を文字通り一足飛びに移動する。
とん、と足を着く。重力を感じさせない軽やかな着地の後、すれ違い様に三尖刀を一閃させた。
「……っがあああっっっ!」
不意を付かれ、急所を切り裂かれた男は絶叫した。
その脇を、絹糸の髪が残像のように翻る。
(あと、三人)
冷静な頭で、楊ゼンは独白した。
思考はクリアーながら、感情のどこかが麻痺している。怒りが一定以上のレベルを超えると、却って冷静になるのが楊ゼンの常だった。戦士としての本能かもしれない。
男達は、彼我の圧倒的な力量の差を知り、既に三々五々、逃亡体勢に入っている。
(逃がさない)
手を優雅に翻す。
どん、と衝撃音と共に白い光が腕から発された。
彼らの退路を塞ぐように唸りを上げるのは、巨きな白い犬。牙を剥き出しにする姿に、危険を察した男の一人が足を止めた。
完全に囲い込まれた形になっている。
(人に危害を加えたことを知ったら、太公望師叔は悲しむだろうな)
充分解っているが、楊ゼンは彼らを皆殺しにするつもりである。
(彼らだって同じ『人間』を殺める)
ならば、僕が妖怪を殺めようと構わないではないか。
流れるように、身を翻した。しなやかな獣のような動きは、常以上に冴えている。
一閃。
逃げようと背を向けた男が、倒れ伏したまま地面を掻きむしった。
(あと二人)
ましてや、僕は妖怪ではないのだから。異族殺しはそれ程罪深い行為であろうか?
(僕は『人間』だから)
居直ったように、一人の男が楊ゼンに向き直った。
手には長刀を構え、
「殺!」
気負いなく佇むかのような楊ゼンの懐に向けて、突っ込んでくる。
――それとも、僕が『人間』なら、今している行為は同族殺しなのか?
緊張に構えるでもなく、あくまで優雅に楊ゼンは足を動かした。
身を捻る。
その姿は、一部分だけを取り出せば舞でも舞っているかのよう。
「ちっ!」
攻撃を躱され、空振りのままたたらを踏んだ男は大振りの仕草で体勢を立て直そうとする。
その隙を逃さず、最低限の動きで楊ゼンは刃を叩き込んだ。
(あと一人)
こんなものか、と思う。
人間に対して抱いていた憧れは、意味のない幻想だったのだろう。
(ばかばかしい)
理想を押し付け、幻滅して、随分と勝手な言い草かもしれないが。
誰に対してか解らないまま、腹が立って仕方なかった。
ちら、と視線を這わせば。
「ひいっ」
牽制する哮天犬に足留めをされて睨み合っていた男が、最後の気力を使い果たしたように、腰を抜かして座り込んだ。
「おた、お助けを……!」
涙を垂らし、鼻水を垂らし、無様に這いずって後退する姿は、醜い。
(ああ)
楊ゼンは、それに冷たい眼差しを送った。
血刀を握り、ゆっくりと歩み寄る。
(『人間』も、美しい生き物じゃないんだな)
下から見上げるようにした美しき道士の容は、冷たく冴えた氷の如き面持ちで。
頭上高く輝く月を思わせた。
恐怖に、這いずる気力さえなくした最後の男に向かい、無造作に三尖刀を振り上げる。
その腕を掴まれた。
楊ゼンの膂力なら振り払うのに苦労はしない。しかし、渾身の力が込められたと思われるその手は寧ろ強い意志の力を感じさせて、結果楊ゼンの攻撃を阻んだ。
「……すー、す……」
悪い夢から覚めたように、楊ゼンは瞬きを繰り返す。
まるで縋るように楊ゼンの腕に手を掛けた太公望は、大きな瞳を見開いて、ただ、楊ゼンを凝視していた。
「楊ゼン」
そこには、怒りも哀しみも、許しすら何も窺わせない、静かな湖水のような深い色が現れている。
見覚えがある。
『この闘いはどちらが勝っても負けても無意味であろう?』
初めての邂逅の際。
『試験』だと言って、今思えば理不尽な攻撃を加えた楊ゼンに向かい。
血を流しながら、太公望はこの瞳をしたのだ。
恐怖、したのだった。確か。
(……そうだ)
「楊ゼン」
再び、太公望は呼び掛けた。
「………っ」
楊ゼンの動揺を見抜いたのか、腰を抜かしていた男は必死で立ち上がると、一目散に逃げ出そうとした。
「!待て……っ」
「楊ゼン!!!」
咄嗟にそれを追おうとする楊ゼンを、最早腕にぶら下がるようにして太公望が押し留める。今度の呼び掛けには、明確に制止の意志が現れていた。
躊躇してしまった自分を振り払うように、楊ゼンは太公望を引き剥がす。
軽い太公望の体は、あっけない程簡単に地面に尻餅を付く。
「楊ゼン、」
「邪魔をしないで下さい!!!」
太公望の呼び掛けを遮るように、楊ゼンは声を張り上げた。
「邪魔をするのなら、あなたも敵だと見なします」
いっそ冷然と、楊ゼンは言い捨てた。
(そうなんだ)
秀麗な外見の醸し出す凄味に並の者なら恐怖を感じられずに居られないところを、一歩も引く気配なく太公望は楊ゼンを見上げている。
(本当に憎んでいたのはこの人だったんだ)
腑に落ちた。
全ては、この眼差しに貫かれた時から。
楊ゼンにとって、まさに太公望は『理想』の体現だった。
理想の『人間』の。
仲間に囲まれている彼は本当に輝いて見えて、楊ゼンは少しでも彼の傍に近付きたかったし、彼のようになりたかった。
だからこそ、人間界で、太公望が人々に疎外されているのが厭だったのだ。
琥仲の企みを憎んだのも、羌族の少年に怒りを抱いたのも、それが原因だと今では解る。
理想の『人間』たる太公望が、他者に受け入れられないなど、あってはならないのだ。
そして、太公望になれる筈もない自分。
近付けば近付く程、彼の光によって自分の影が浮かび上がってくるようで、楊ゼンはずっと太公望が怖かった。
焦がれて仕方ないというのに、同時に怖ろしくて堪らない。
あの瞳が、自分の偽りを見通してしまいそうで。
あの浄さに接している内に、表皮の下の醜い本性が露呈するのが、更に怖くなった。
騙していたから。
……本当は、どう足掻いても『人間』にはなれないのに。
『天才道士』たる楊ゼンは誰のことも気にしない。
ただ一人を除いては。
恋と言うには激しすぎ、愛と言うには苦すぎる。
「あなたなんか……あなたなんかっ!!!」
激情を持て余して、絶叫する。
今や、逃げ出した男の存在も忘れ、楊ゼンは太公望と睨み合っていた。
その表現は正しくないかもしれない。
憎しみを込めて睨み付けているのは楊ゼン一人で、太公望は相変わらず見詰めているだけである。
「……楊ゼン」
沈黙に飽きたように、太公望は何度目かの呼び掛けを行った。
「人間を殺めたことをどう思っておる?」
瞬間、胸が痛くなるのを感じる。鋭くもない視線は、しかし楊ゼンの心を罪悪感を引き出し、抉るような暴力的な力を纏っている。
口の中が乾く。
「そ…れが、なんですか。許せない、と僕を成敗するおつもりで?」
身を守る必然から、楊ゼンは尚更攻撃的な口調になった。余裕で、笑みを浮かべさえする。
「それは困るのう。おぬし程の道士を失えば、計画に支障が出る」
茶化す風でもなく、太公望は至極真面目に答える。
いつもの誘導作戦ではないかと、警戒しつつ楊ゼンは身構えた。
「……へぇ。あなたからそんな非人道的な言葉をお聞きするとはね」
ふい、と目を逸らし、太公望は吐息を零した。不可視の圧力から解放され、楊ゼンも肩の力を抜く。
「ボウズにも言うたが」
よっこらしょ、と年寄り臭い掛け声混じりに立ち上がる。如何にも億劫そうな仕草に、楊ゼンがつい反射的に差し伸べた手を、気負いなく太公望は取った。
「既に始まった計画がわしにとって第一義だからな。好き嫌いで、今更流れを変える気は毛頭無い。……誰が生きようが死のうが」
ニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。
「鬼とも蛇とも言われるだろう。わしとてそんなに綺麗な生き物ではない。安心せい」
(どこまでが“ひと”と言えるの?)
楊ゼンの思考を、読み取ったかのような言葉。
この人は、どこまで察しているのだろうと思うと、真実を暴くその瞳が怖ろしくて堪らない。
「それに、おぬしが行ってしまうと寂しい。……というのはわしの我儘だな」
そして、愛しくて堪らない。
楊ゼンには、これらの言葉が太公望の本心だとは、どうしても思えなかった。
辛くない筈がない。しかし、この人はそうやって傷を直視しながらそれでも前へ進むのだ。
真似出来ない。
(だけど)
真似する必要もないのだ。
全てを受け止める、この人が居てくれるから。……なら、僕はこの人を受け止める者になりたい。
知らず、三尖刀を取り落としていた。
返り血を浴びていないか、恐る恐る確かめて。
(僕はこの人に触れても良いのだろうか)
ゆっくりと、引き寄せた。
「………ごめんなさい」
抱き締めるつもりが、逆に抱き付くような形になっている。それも構わず、漏れ出た罪悪感そのままに、楊ゼンは腕に力を込めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
頑是無い子供のように、謝りながら太公望の肩口に顔を埋める。苦笑しつつその頭を撫でていた太公望は、楊ゼンに気取られないように辺りに目を遣った。
死屍累々の光景。生前の姿を知らない者達の屍を前に、一瞬沈痛そうに目を伏せ。
こびり付いた血と土埃で再び汚れた姿になってしまった少年に目を留める。
(そういえば、名も訊いていなかった)
巻き添えで自分が殺してしまった者達に、太公望は密かに黙祷を捧げた。
「あの、いいんですか?」
「何がだ?」
気味の悪い程あっけからんと、太公望は尋ねた。
二人は、何故だか手を繋いでいる。
「深夜デートだのう」
ニョホホと笑う太公望を諫めるように、楊ゼンは僅かに声を荒げた。
ショックの余韻か今だ顔は青ざめているながらも、すっかり立ち直っている様子である。顔色の悪さも、夜闇の所為だと言えば、言えないこともなかった。
「ですから、あのままにしておいて!」
と、いうのは豆や琥仲配下の屍である。役人を呼びがてら自首するなり、楊ゼンとしてはするつもりだったのだが。
「おお、その話か」
太公望は、人の悪い笑みを浮かべた。
主張する楊ゼンを軽くいなし、惨状を放置したまま帰ろうとしているのである。楊ゼンが罪悪感から歯に物の挟まったような言い方しか出来ないのを、逆手にとってのことであった。
「何の為に一人逃がしたと思っておる。琥仲が泡吹いて回収と隠蔽はしてくれるだろうよ」
「え……」
「使える人手はあっちの方が多いしのう。あやつも脛に傷持つ身だ、バラしたりはせんよ」
ぶん、と繋いだ手を大きく振り回した。楊ゼンは嫌そうな顔をする。
「……それって、卑怯じゃないですか?」
「なあに、おぬしがあやつらのことを忘れないで、心の中で弔えば構わぬよ」
反論を口にするのも気まずく、暫く黙って歩く。
「おお、そういえば!この通りはのう、丼村屋のある大通りなのだよ。昼間と勝手が違くて判らんかっただろう!」
深夜の騒音公害とばかりに、太公望は声を張り上げる。しかし、この界隈には民家は少なくは、ある。
「師叔……」
楊ゼンは、溜息を吐いた。今の太公望の状態は、明らかに空元気だ。
これはこれで、罪悪感が刺激される。
「一人を逃がすというのは、確かにあの状況では最善だったでしょうけど」
「そうだろう、そうだろう」
「ですが、本当はあの少年が死ぬ前に間に合いたかったんじゃないですか?誰も死なないように」
それで、自分を責めているのだとしたら。
「……無い物ねだり、だな」
切って捨てられた。確かに、それならば我を失った楊ゼンの凶行もなかったのだから、随分と都合の良い話である。
「ま、敵を退治したと思え。思わねばこれからのこともやってられん」
自分自身も全然信じていない口振りで、太公望は呟いた。
太公望は、手袋をしていない。
繋いだ手から、人肌の温かさがじんわりと、伝わってくる。
憂愁に染まった楊ゼンの横顔をちらりと眺め。
本当は。
幾多の屁理屈も、ただ、隣の男を失いたくない故だとは。
言ったところで信じては貰えないだろう、苦笑する太公望である。
歩いても歩いても。
悪い夢は終わりそうになかった。
…………
「ししょー、ししょー」
とてとてと、覚束無い足取りで駆け寄ってくる愛弟子の姿を認め、玉鼎真人は口元を弛めた。
「どうかしたのか」
幼い弟子は、彼の師匠を仰ぎ見る。手は、長い衣の裾を掴んでいて。
「『人間』って、どうやったらなれるんでしょう。師匠も人間ですよね?」
向学心溢れる弟子を前に、彼の仙人をよく知る者にしか識別出来ない程度の、微妙な微笑みを浮かべる。
大多数の仙道にとっては『あの玉鼎真人が笑うことなどあり得ない』と思われているのではあるが。
「そうだな、そう言えないこともないが」
少しく苦笑して。
「だが、本当の人間はほんの短い間しか生きられない。生活の環境も過酷だ。
しかし、それだけに毎日を必死で生きようとする……そんな人間の在り方は、私は、美しいものだと思うよ」
楊ゼンはよく理解出来なかったらしく、小首を傾げている。
「……そうだな、お前には難しすぎたかな」
苦笑して、玉鼎は慈しみを込めて幼子の頭に手を置いた。
〈完〉
ハイ、デハ!お約束の懺悔の時間デース!!(壊)
お題は『激怒するようぜんさん』でした!さあ、皆さんご一緒に!!
「どこがなんじゃあああああっ!!?(怒)」
頂いたメールを引用いたしますと、
「あまり感情を表に出さないというか、怒りとかそういう負の感情を多分嫌悪している側面があるように思うので1度本気で怒ってもらいたいです(笑)
椅子を蹴倒すような勢いで
怒る相手は師叔でなくても良いと思います」