「待たせたのう」
聞き覚えのある声に、足元を注視していた豆は顔を上げた。
一縷の望みを砕かれる。
先日まで彼が塒にしていた城隍廟、その門前で佇んでいた豆の前に現れたのは。
「……たい、こう、ぼう」
確認するように、一字一句をゆっくりと発音する。歩み寄ってくる相手は、軽く首を傾げた。
ふわり、と、暗闇に姿が浮かび上がる。
月光の元だけではぼんやりとした輪郭だったものが、廟の内から漏れる蝋燭の光ではっきりとした陰影を見せる。強すぎる影に細かな表情までは判別出来なくとも、その顔が友人だと信じた少年のものであることだけは識別出来た。
不幸なことに。
「昼間に言い残したことでもあったか?」
笑んだ、気配。
白々しい言葉に、豆は歯を食いしばる。ぎりっと、嫌な音がした。
「……っざけんじゃねえよ……」
騙されていたのである。
喉元から溶岩が迫り上がってくるように感じたが、外に吐き出されたのは音の連なりである。
一歩、前に踏み出せば、橙に染められた影はより鮮明になる。相手からも、自分はそのように見えているのであろう、と思う。
炎を背にしているようだ。
「アンタが、アンタが太公望なのか!?アンタが……」
息を吸う。
「アンタの所為で俺の家族は死んだのか!?」
「そうだ」
簡潔な答え。何の感情も込められていない声音に、カッと腑が煮える。
「簡単に認めるんじゃねえよ!!俺達の命なんか、大した重みもないってか!?」
「……そういう訳ではない」
「ああ、羌族だって話だもんな。どーでもいい訳ないか」
「………」
「俺に構ってたのも罪滅ぼしかなんかか」
「………」
何か、弁明が欲しかった。
理由を提示して貰えば、どんな方法でもいいから言いくるめて納得させてくれれば、この怒りが収まるに違いないのに。
一言も、喋らない。
既に、騙すことを放棄したのか。
蛇を殺した時もこういう気持ちだった。
自分は悪くないのに、運命は理不尽に豆から全てを奪っていく。
家族の顔が眼前に浮かんだ。
やり場のない怒りは。
「余計なお世話なんだよ!!!!!」
見付けた出口に向かって迸る。
「全部テメエの所為なんだ!!!なんで、同族だからって、テメエの独り善がりに巻き込まれなきゃならないんだ!!?」
太公望は何処を見据えているのか、真っ直ぐ前を向いている。
相手の何かを言い淀む気配で、豆は自分が泣いていることに気付いた。
「周の人達まで巻き込んで、一体何がしたいんだ?
……テメエはもう羌じゃねぇよ。俺達とは違う生き物なクセに、俺達に関わるな!!!」
このまま走り去りたい。
が。
「……すまんのう。今更、誰が死のうとやめれんのだ」
「……な……」
「既に始まっておるのだよ」
言っている意味がよく解らない。
自分で言ったというのに、違う生き物としての太公望に恐怖した。
あの怖ろしい皇后も、太公望も、所詮は仙人という同じ生き物ではないか。
人間のフリをした生き物。人の生き血を啜り、大きな力を奮って死を撒き散らす、理不尽な運命そのもののような存在。
「―――ちっくしょう!!」
豆は、太公望へと突進した。
手には、琥仲の配下から渡された匕首。
刃物の光が、とろけるような色を宿しているのが、視界の片隅に映った。
太公望と、あの少年が待ち合わせるとしたら何処なのだろう。
哮天犬の背から真っ暗な街を見下ろし、楊ゼンは途方に暮れる。
楊ゼンが豆の姿を見たのは、ただ一度だけ、饅頭屋で財布をスられた時である。
その近辺をうろうろと探す以外、他に当てがないのが現状であった。
他の心当たりと言えば琥仲の屋敷くらいのものだが、あの小悪党が自ら証拠を残すような真似をする筈がない。
一人の少年が、太公望への殺意を扇動された。
琥仲に雇われていたと言うが、それも彼を手駒に使おうという策略の一種であろう。
『我が主も彼の道士には常々危惧を抱いていた、お前が望めば敵討ちに協力してくださるだろう』
琥仲に言い含められていたに違いない、屋敷の者が持ちかけていたのだという。
仇。
あの太公望が、我が身を犠牲にすることがあっても、他者を傷付けることを何よりも怖れる太公望が、他者の恨みを買うことなど有り得ない。
……唯一つ、可能性として考えられるのはタイ盆事件である。
あれは決して太公望の所為ではなかったと、楊ゼンは思っている。悪いのは妲己であり、あの女の暴虐をこれ以上放置することこそが悪である。
なのに、世間では太公望に対する非難の声が多く聞こえた。太公望自身それを当然としている節もあり、父をあの事件で亡くした武吉が太公望を責めなかったことを、
『驚いた』
泣き笑いのような表情を浮かべて、後で楊ゼンに耳打ちしてくれた。
あの心優しい人を、苦しめないで欲しいのに。
琥仲だけでなく、簡単に扇動に乗った少年へも怒りが募る。
タイ盆事件でどれだけ太公望の心が傷付いたか、彼をテストする機会を窺って付け回していた楊ゼンは見て知っている。
武成王黄飛虎に助けられた後も、虚ろな瞳で死んだように座り込んでいた。
包帯姿が痛々しい以上に、その精神がどれだけの打撃を受けたか……思い出す度に胸が痛む。
なのに、当時の楊ゼンが考えたことと言えば、彼はこれで封神計画を辞退するのではないかという期待めいたものだったのだ。それ程までに太公望の姿が弱々しく映ったということもあるが、それ程までに他者への無関心さが強かったのである。
あの現場に居合わせて、あの悲劇を阻止出来なかったことを云々するなら、楊ゼンとて同罪である。
だから、これ以上あの人を苦しめないで。
ふと、覚えのある仙気が感覚を掠めた。
「太公望師叔っ!?」
近い。
眼下を見渡して、小さな灯りが見える辺りを目安に降りてみることにする。
大通りから外れた場所、高度を下げれば灯りは小さな廟のような建物から漏れていることが解る。
そして。
「師叔!!」
無我夢中で、哮天犬の背から飛び降りた。
立ち尽くす太公望。
そして、その至近距離に、刃物を手にした少年。
「師叔!!」
楊ゼンの叫びを合図としたように、くたりと豆はその場に崩れ落ちた。
勢いのまま太公望の体に吸い込まれる筈だった匕首が、使命を果たすことなく地面に落ちる。
かしゃん。
幽かな音に驚いたように、豆は自分の空になった右手を掲げた。涙の痕が貼り付いた貌が、呆然と己の手を凝視する。
それを、太公望は黙って見下ろしていた。
一種異様な光景に、飛び降りた体勢のまま固まっていた楊ゼンだが、はた、と我に返り立ち上がる。
「あの、ご無事でしたか……?」
気まずさを感じつつ一歩前に踏み出せば、びくりと、豆は背を震わせた。
「…………」
楊ゼンの声には応えずに、太公望は豆と目線を合わせるかのようにしゃがみ込む。と、それに呼応するように豆は立ち上がった。
踵を返すと無言で駆け去っていく。
「おい!」
反射のままそれを楊ゼンは追いかけようとして。
「楊ゼン」
呼び掛ける声に振り返れば、今だしゃがんだままの太公望。
「出来れば、このまま逃がしてやってくれぬか?」
目線を合わせぬまま頼まれたことを、
「お断りします」
楊ゼンは一蹴する。
「これは軽犯罪とは違います。仮にも一国の軍師の暗殺未遂ですよ?……あなた、どうして反撃しないんです」
「……あやつは、結局、わしのことを許してくれたのだ」
これ以上の言葉は聞かないことにする。気の抜けたような太公望の状態は気になったが、これ以上時間が経つと仙気も発していない相手を見失う恐れがあった。
出しっぱなしの哮天犬を、袖口の中に仕舞う。
「わしは違う生き物だと言われたよ……」
捨て台詞のような、その言葉は聞かぬふりで。
太公望に背を向けると、楊ゼンは豆の消えた暗闇へと、身を投げ入れた。
「首尾はどうなっている?」
私室に入ってきた配下の者に対し、琥仲は鷹揚に問い掛けた。
「は、報告はまだですが……」
「解った。下がってよい」
手を一振りさせれば、心得た配下は一礼の後しずしずと部屋を後にする。
ぱたんという扉の閉まる音を耳に、琥仲は酒杯を傾けた。
無意味な宴を早々に退散して、こうして自宅で飲み直している。彼一人の名目は、太公望暗殺の前祝いである。
翌朝になれば、進軍だというのに姿の見当たらない軍師に気付き、城内は大混乱に陥るだろう。そうしている内に、路上で発見された身元不明の死体がその軍師の変わり果てた姿であることも判明するに違いない。……そういえば、仙道は死体が残らないのであったか。
気味の悪いことだ、苦々しく思う。
姫昌も、勿論琥仲も、ずっと殷との親和の途を取っていた。
確かに現在の殷本国の荒廃は凄まじいと聞く。だが裏を返せば、国の屋台骨の揺らいでいるこの時期だからこそ、帝国内での西岐の発言権が強まるというものである。
亡父の跡を継いで以来、兄は殷への忠誠を誓ってきた。
それが、長い虜囚生活と息子の死によって、一時我を見失っただけなのだ。
その隙を衝かれて、得体の知れない道士が兄を扇動した。西岐の平和を奪い、誤った道へと駆り立てている。
姫昌は、情に流されたところを利用されていたのだ。
彼の人亡き今となっては、繰り言でしかないが。最期まで騙されていた兄が残念でならない。
母上が生きておられれば。
琥仲は、幸薄い母の姿を思い出す。
殷の機内諸侯の娘であり朝歌で生まれ育った太妊は、公主待遇で西岐に嫁いだ後随分と苦労した。彼女を粗略に扱うような者は皆無であったが、当時後宮の権力を一手に握っていたのは姑である太姜であったし、西岐は文化も習慣も違う異境の地である。
彼女の為に造られた、殷の様式の庭園にずっと籠もることが多かった。
父の姫歴が殷王家による誅殺を受け、太妊への周囲の風当たりが更に強くなった後は尚更である。琥仲は寂しそうな母の背中を覚えている。
母と同じく、あの庭園を愛した兄ならば。時間さえあれば、我に返ったに違いないのに。
だから、その軌道修正は遺された弟がするべきなのだ。
これが琥仲の理論である。
楊ゼンの足音も途絶え、今や静寂のみが辺りを支配している。
あやつは、あの少年をどうするつもりなのだろうか。
一人残された太公望はぼんやりと、虚脱した思考回路で考える。
情のない仕打ちはしないと思う。周公旦と同じで融通の利かない性格から誤解されやすいが、楊ゼンも基本的には情に深い性格である。
その所為で、今回のことでは自分の事情に巻き込んで、大層心労をかけてしまった。
理由ははっきりとは判らないが、太公望に負けない程のダメージを受けていたように思う。本当に悪いことをした。
一番良いのは少年が逃げおおせることだが、楊ゼンなら同情的な措置を取ってくれるだろう。
安心に目を閉じかけて。
気付いた。
逃げたとして、彼の向かう先は一つしかない。
しかしこの茶番を仕組んだ者は、彼が帰ってきては都合が悪いのだ。
よろよろと、太公望は起きあがった。
頭には最悪の想像を抱え、先行する二人の後を追いかける。
(間に合ってくれ…!)
祈るのは、果たしてどの瞬間を指してのことか。
幾つかの路地を曲がり、豆は少し広い通りに出た。
人家の殆どないこの界隈は、事前に兄貴分達と打合せをしていた場所である。
五人の、琥仲の屋敷の中でも特に腕に自信を誇っている男達である。
追走してくる楊ゼンから必死で逃げた所為で、息切れのするままへたり込みそうになるのを抑える。恥ずかしいところは見せられない。
「おう、ご苦労だったな豆」
「首尾はどうだ?」
豆の姿を認め、兄貴分達は口々に声を掛けてくる。
「……まさか、殺らなかったのか?」
中の一人が、目を眇めた。衣服にも何処にも返り血が付着していないことに疑念を抱いたのであろう。
問われるのは解っていたから、豆も腹を括っていた。
「ああワリィ」
昂然と豆が言い放つのに、男達が瞬時に目を見交わした、そのことに気付かなかったのは彼にとっての不幸だったのだろうか。
「失敗、したのか」
確認するように、一人が呟く。
「そもそも、アイツは俺のダチなんだ。どこの世界にダチを殺れる奴がいるってんだよ」
それだけでなく。
豆の刃を避ける素振りを全く見せなかった太公望は。
間近で見た太公望は、全てを受け入れた、しかし苦しそうな笑顔で両手を広げていた。
限りない許しをこちらには向け、自らは決して救いを求めない。
あんな奴に、今まで会ったことがない。
「……そうか、残念だったな……」
そんな豆の様子にも頓着した様子なく、先程確認の呟きを放った男がすたすたと足を前に踏み出す。
豆の前で立ち止まり、労うように左手を彼の肩の上に置いた。
そして右手は。
「ぐっ……!?」
感じたのは、灼けつくような熱さ。
体中の血が腹に集まってくるような、違和感。同時に、頭はすうっと冷えていく。
思わず手を腹にやると、ぬるりとした感触が伝わった。
「すまないな。お前が仕事に成功しようが失敗しようが、どっちにせよ殺せというお達しなんだよ。……道連れがいなくて残念だったな」
彼の腹を刺した男が、むしろ淡々と説明している。が、体は密着しているのに、まるで声は遠くから聞こえてくるようだ。
視界が暗くなっていく。
さっきまでは体中燃えるようだったのに、今は無性に寒かった。
「…………っ」
一人の少年が、最期の瞬間に何を喋ろうとしたのか。
それは、永遠に解らない。
はい、死にました(あっさり)。
なんとかメインっぽい内容にまで踏み込めましたねぇ。……多分、あと1話。そこが真メイン。てか、リクはまだ果たせてない…(死)。
しかし、どうしてこう、似たようなシチュエーションしか書けないんでしょ私。
タイトルも性懲りもなく「花」モノですが(「徒花」の対みたい…)、これは、蛍の同名の歌から。
歌…っつーか、歌とポエム語りの中間ですかな。
聴いた最初は「太公望視点の妲太?」とか思ってたんですが、ネタ考えていて楊ゼン視点の楊太でもイケるなーと。
本文中にも、ちらほらと歌詞の単語を挟み込んだりしてます。暇な方は「ここかな?」とか探してみるのも吉(笑)。
モンゴルちっくなCDジャケットに惹かれふらふらとレンタルしたのですが、初めは聴いてちょっと吃驚しました(^^; 好き嫌いが結構分かれるような、気もします。
私は何度も聴くうちに慣れたというか(笑)、今では結構好きですね。
「異花」とは何か。ネットで検索したら本人へのインタビューみたいなのがあって、
『時間の流れ。この時間はどこにたどりつくのだろう・・・。すべての時間の流れ。』
とか意味不明なことを語っておりました。蛍。
琥仲君のマザコン独白は入れようか迷ったんですけど(^^;入れなかったら太公望が刺される!?ってところで話切ってました(何で)。
このままだと琥仲がタダの極悪人で終わりそうでしたので、それはあまりにも可哀相で…。基本的に、色んな性格のキャラ書いていきたいですけども、自分的に納得の出来ない行動する奴は書けないっつーか…。『国の安定の為』とか言うより『ママンが悲しむよう』の方が自分的にしっくりくるのです(死)。
ですが、『詩経』見てたらベタ誉めなことしか書いてませんけど、代々の奥さん。色々あったと思うんですよねー、恐怖の嫁姑問題ほどじゃないにしても(笑)。
姫昌様お気に入りのお庭がお母様縁のものだというのは、「殺人幇助」書く前、書きかけ未完の姫家モノを書いてた時から設定していました(もちろんオリジナルですよう)。
今回出せなかったら、そのネタだけで一本書こうかという勢いでした(笑)。
終われー終われー。