一旦決断すれば、その後の太公望の行動は迅速であった。
通常の仕事に加え、城の業務の引継作業を行い、要塞の受け入れ態勢を整えさせ、崑崙への報告を行い、その片手間に周公旦と共に難民保護令布告の詳細な打合せをし、……日頃の怠惰なアホ道士とは別人かと思えるような豹変ぶりである。
元々ああ見えて仕事をこなすスピードは並の官吏の及ぶところではなかったのだが、次々と下される指示に下の部署も忙殺されることになった。かつてない軍師の精勤ぶりによって一番割りを食ったのは、伝令として何度も豊邑と国境付近の間を往復させられた四不象であったかもしれない。
 
粗方の仕事を済ませた太公望が城下へと繰り出したのは、豊邑を出発する前日になってである。
 
明日太公望と楊ゼンは、武成王率いる周軍本隊と共に豊邑を出発することになっていた。国家要人たる彼らを送り出す為に今夜、王宮主催の送別の宴が開かれることになっている。
公認スパイである蝉玉も『敵の兵力を知る為』要塞へと赴くこと宣言していたが、宴の御馳走が目当てであろうというのが関係者の見解であった。が、それは本筋とは関係ない。
……夕刻までには帰らなければならないが、太公望は無理を言ってでももう一度街に出てみたかった。
買い食いなどしながらぶらぶらと市を見て回り、時折足を止めて周囲の様子を脳裏に刻む。
喧噪に身を浸しつつ、ほろ苦い笑みが浮かんだ。
この国を焦土にするつもりはない。戦火は国境にて防ぎ、撓めた力は殷へと向かわせる。
しかし、全てが予想通りにいくと思う程、太公望は自らを過信していないのである。
一旦巻き込んでしまった以上、火の粉は確実に、この国を蝕んでいく。
先日歓声をもって戦争を受け入れた人々が、明日には罵声を浴びせるかもしれない。そうなった時は、その責は太公望一人で被ろうと思っていた。
……傲慢な考えかもしれないが。
 
 
「よう!久しぶり!」
突然己の想念から解放され、戸惑い気味に太公望は目をしばたいた。
「あ?この格好じゃわかんねーか」
「……いや。急に見違えたのう、ボウズ」
「へへっ」
得意げに鼻をこする。
羌族の少年は、確かに見違えるような出で立ちをしていた。
青い染料で染められた麻の着物は、安物とはいえ洗濯の行き届いた新しい品であるし、本人も風呂に入っているらしく、ぼさぼさだった髪も清潔に整えられている。こざっぱりとした身なりは、良家の使用人といった印象を抱かせた。
「どこぞに就職の当てがあったのか?」
「うん、なんか知んねーけどおふれが出たらしくってさ。先の大臣の琥仲殿下がわざわざ俺を捜し出してくれて、雇ってくれたんだ。立派な人だぜ、あの人はよ」
満面の笑顔で、胸を反らせる。
その胸を、太公望は拳で軽く小突いた。
「ほう、それは重畳だのう!」
言葉に嘘はない。確かに、目の前の少年は見違えるように健康的だ。
以前まであった、暗い目に時折灯る鋭い光が気になっていたのだが。これならば、彼はどんどん立ち直るだろう。辛い過去を忘れ、人間は強く生きるように出来ている。
「その口振りでは、琥仲には会ったのか?」
「屋敷に連れて来られた日に、一度だけ声を掛けて頂いた。『よろしく頼むぞ』ってな、わざわざ下男に挨拶する奴も珍しいよな」
その一度で、すっかり豆は琥仲に惚れ込んでしまったらしい。
「ま、あやつは兄に似て情の深い奴だしのう」
口の中だけで呟いた言葉は聞こえなかったらしい。勢い込んで、やれ屋敷が大きいの、食事は美味いの、言い立てている。
「下男の宿舎には、俺みたいに雇われたばかりの新入りも居るんだけど、以前から働いてる兄貴分も大勢居て、親切に色々面倒みてくれたりするんだ。そんでさ……」
ふと、気になる。人手は足りていないという話だったが、内情を聞いているとそうでもなさそうである。
考えすぎかもしれないが、頭の片隅にメモを書き留める。
その他、違和感を覚えた箇所は……。
「おい!聞いてんのか!?」
「おお、すまんすまん」
再び思考を引き戻されて、太公望はへらへらと笑ってみせた。
今は、些事に囚われるよりも彼の喜びを共に分かち合う時であろう。
「うん、安心したよ。これで心残りもないのう」
頭を掻きつつ口にすれば、豆の笑顔が俄に曇る。
「……心残りって?」
「実はのう、また旅に出ることになったのだよ」
嘘は言っていないが、事実の全てでもない。言ってしまえば、二度とこの笑顔を見ることは出来ないと知っている。
「明日出発する」
だから、このまま別れるのが正しいのだ。
「……んだよ、随分急だな」
「そうだが、思い立ったが吉日というやつでな」
「またいつか、此処には戻ってくるのか?」
「さあて、どうなることやら」
のらりくらりと要領の得ない返答に苛立ったのか、ぐいっと襟首を掴まれる。太公望はやや驚いたが、表情には微塵の変化もない。
「あのなあ!こーゆー時は嘘でも帰ってくるって言うもんだろ!!この俺が待ってやるんだからな!!」
「……待ってくれるのか?」
意外である。太公望は兎も角、豆の方に彼を気にする理由などないように思えるのだが。
「ったりめえだろ!……アンタのおかげで俺は立ち直る気になったんだ」
「へ?」
「志があれば、こんな所で燻ってちゃ駄目だって言ってただろ」
「おお、そういえば……」
確かに、そういうことを言って発破を掛けた記憶がある。
 
『この国で、羌を代表するエライ人物になってやれ!』
 
「やっぱ、掏摸じゃあ先も知れてるしな。琥仲様の覚えもめでたくなれば、出世の糸口になるかもしんねーだろ。今はその第一歩だな」
「……そうか、頑張れよ」
何か目標があれば、怒りのエネルギーは別の熱意に転化する。……かつて太公望自身が経験したことである。
「アンタは、周で出来た初めてのダチなんだからな?立派になった俺の姿を是非とも見る義務があるんだ!」
その姿が見れるなら、どんなにか良いだろう。
「そういうことなら是非とも。出立の前に、おぬしに会えて良かったよ」
「だな。買い出しに行かされた先でばったり遭うなんて、すっげえタイミング」
始めの出会いを含めて太公望は言ったつもりが、相手には伝わらなかったらしい。だがそれでいいのだ、と太公望は思う。
「じゃあな、約束だからな!!」
溌剌とした仕草が、目に眩しい。
少なくともあの少年にとっては、この件は周公旦の考えに一日の長があったと言うべきであろう。
いつも太公望が正しい途を示せるとは限らないのだ。
一つ実証されたことがあった。戦の前に。
しかし太公望が琥仲の立場なら、もっと効率よく行える自信はある。その為には、財力と権力が必要であることは確かなのだが。
(わしの手であれば……)
 
そこまで思考が及びかけて、不意に身震いをする。
それ以上は考えてはいけなかった。身の程を知る為にも。
 
 
――それは、聞仲の肯定に他ならない。
 
 
 
 


 
 
旅の話は突然だったけれど、最後に会えて報告出来たのは幸いだった。
連れの待つ、石屋の軒先へと駆けながら豆は思う。
旅人という話も、あながち出鱈目ではなかったらしい。飄々とした印象のまま居所を定めない生き方は、確かに彼によく似合っているかもしれなかった。
「……あ、名前聞き忘れちまったな……」
ふと気が付くが。
「……どうしたんです?」
それよりも、律儀に彼を待っていたらしい兄貴分が複雑な表情をしていたのに気を取られる。
「なあ豆……、今お前が話してたのって……」
「俺のダチ。……あいつがどーにかしましたか?」
問い返せば、豆が屋敷に引き取られて以来ずっと親身になってくれた兄貴分の男は、曇った顔を更に顰めた。それにつれ、豆にも不安が伝染する。

石屋の大男がうっそりと、店先にまで顔を出していた。手持ち無沙汰そうにしている。
それにも気を配りつつ、豆から目を逸らしたまま男は暫く何かを言い淀むようにしていたが。
やがて意を決したように豆の肩に手を置く。
……逃げられないように。

「お前の話していた相手は周国軍師の太公望。
 
――お前の家族の仇だ」
 
 
 
 
 




 
 
 
 
 
広間には無数の灯りが瞬き、錯綜した昼の如き空間を演出している。
堅苦しさと和やかな雰囲気。公的な側面も持っている宴の席は、相反した貌を纏う。
一番の上座に居る武王などは、この中で一番居心地悪そうにもぞもぞと身動きを繰り返していた。相変わらず王の威厳に欠けている。
普段なら側まで近寄って行って、耳元で「しゃっきりせい!」との小言を食らわすところだが。隣の席と言えども、今回の主役とも言うべき身分である太公望には軽々しい動きは取れない。
その辺りは周公旦に任せて、杯を受けることに専念すべきだった。
先程から高官達が入れ替わり立ち替わり太公望の席までやって来ては酌をしていた。よくある宴会風景と言ってはそれまでだが、良く見知った者も、ろくに言葉を交わしたことのない者も、酒杯を満たしつつ激励の言葉を掛けていく。
太公望は酒豪の上に無類の酒好きであるので、幸い儀式めいたこの状態を苦痛に思うことはなかった。ただ、じっくりと味わうにはやや忙しない。あとは、毒物の混入を警戒すれば事足りた。
「私からも一献よろしいですか」
「おお、かたじけない」
慌てて杯を干すと、酒器を手にした琥仲に差し出す。
「留守を頼むぞ」
「私の如き、物の数に入らないような者にまでかたじけないことです」
「…………」
遠慮も過ぎれば嫌味だと教えてやっても良いが、そこまで遠慮の要らない関係だとは太公望も思っていない。太公望は堅苦しいこの男を気に入らない訳でもないのだが、相手の隔意を知って尚且つ距離を縮める努力をする必要があるとも思えなかった。
……例外は居たか。
ちらりと遠くの席に目を遣れば、楊ゼンも官からの杯を受けているところである。遠目からでも迷惑がっている気配が読み取れて微笑ましい。
目の前の宮廷人と自らの片腕。どうやらお互い嫌い合っているようだが、立場を逆にすれば、精神の在り方はよく似通っている気がする太公望である。
 
かさり。
 
一瞬の隙を衝かれ、紙片のような物を手の中に押し込められる。
「……何だ?」
端に漏れぬよう、小声で尋ねる。
「我が屋敷に御身の知人だと申す者がおりまして。預かりました」
視線を合わせぬまま、琥仲も囁くような小声で答える。
すっと、一礼して下がっていく者を見送りつつ、太公望は閉じた手をそろそろと開いた。
幾重にも折り畳まれた紙片。
注がれる視線を避けるように、肴の盛られている卓の下で広げる。
顎を下げぬまま下目に眺めれば、稚拙な字で、短い文が書かれていた。
 
『今夜亥の刻、城隍廟にて待つ』
 


毒より苦い手紙を、握り潰した。
 
 
 



 
 
正式に周の官吏となっている訳ではない。普段は軍師たる太公望の副官として事実上それに次ぐ発言力を持っていても、宮廷の序列が物を言うこんな場面では弱かった。
楊ゼンは己よりずっと上座の、太公望の席へと視線を遣る。これで幾度目か、数えるのも莫迦らしい……自覚はある。
自分の心配を余所に、彼の人は頬をほんのりと染めて、へらへら笑いながら酌をしてくる者に何事か話し掛けている。
いつまで経っても、楊ゼンにはあれが愛想笑いなのか本心の笑みなのか、解らなかった。
『人間』は、取り繕うのが好きである。
だからこそ、嘘に全てを塗り固めた楊ゼンが崑崙山で大手を振って生きていくことも可能だった。
無。この宴にも、何の意味もない。
この空間にいる果たして何人が、心から太公望達に惜別の心を持ってくれているというのだろうか。
その中で太公望が何を考えているのか……、『人間』が好きなあの人が人間のこんな部分も愛しているのか、どうしても解らない。
「楊ゼン様……、お注ぎさせて頂いても……」
「ああ、有り難う。喜んで頂くよ」
瞬時に、用意された笑顔の仮面を被る。見覚えのある官吏は、あからさまに安堵した表情で酒器を持ち替えた。
不機嫌さが、顔に出ていたのだろうか。ポーカーフェイスにだけは自信があったというのに。
「では……」
そそくさと立ち去る官吏の姿にも、不安が募る。それともいっそ傲岸不遜な態度でいるべきだろうか。しかし。
「よっ、色男!」
ばしんと背中を叩かれて、楊ゼンは咳き込んだ。酒が気管支に入りかけたらしいが、冷静に分析しても苦しいのには変わらない。
「な……んだいスパイ」
「んふふふふー」
酒臭い息を吐かれて、閉口する。蝉玉はべろべろに酔っぱらっていた。
確か一番下座で四不象と一緒に居た筈……と視線を彷徨わせれば、四不象は連日の疲れもあってか既に酔い潰れて寝ているようだ。
「なーによ何よ、『有り難う』とか色目使っちゃってさ。奥さんにチクってやるー」
「何を……」
給仕に駆り出されていた女官達が一斉に自分達の方を見たのが解った。殺気立っている。蝉玉を含め、いい加減にしてくれと言いたい。
「残りの酒、寄越しなさい〜…」
その蝉玉と言えば、手を伸ばしがてら、覆い被さるように抱き付いてくる。それこそ太公望に見られたらどんな誤解を招くやら知れない。
「ちょっと、離してくれないかな……」
仕方なしに肘で退けようとすれば。
「ちょっと待ちなさいよ」
耳元で、低い、意外にしっかりした声が制止する。
「いいからそのまま。……あたしの古い知り合い達が豊邑で石屋やってんだけどね、そいつらが……」
あとはぼそぼそと、囁くような声音。
「―――!!?」
ばっと、振り仰げば。
「いったーいっっ」
振り落とされた蝉玉が、打って変わった大声できゃらきゃらと笑い転げる。
彼女にこんな擬態が出来たということに驚きつつ、再び太公望の席を見れば。
 
「――太公望師叔は?」
楊ゼンは、偶々通りがかった一人の女官の袖口を掴んだ。
「軍師様なら……つい今し方席をお立ちになられましたけど」
「有り難う」
今夜初めて心を込めた礼を言うと、床に転がった蝉玉を跨ぎ越す。
 
 
楊ゼンは転びかねない程の勢いで、宴席を抜け出した。
 
石畳を走る靴の音以外、何も視えない。
 
 




 
闇夜が、怖い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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……今回はちょっぴり短め(?)第3話。しかし既に最長編と化しています(死)。
多分、あと2話くらいで終わるかと思いますが、……リクを果たせるのは最終回になる、と、思います……(遅)。
果たして9月中に終われるのか否か。最早笑い事で無し。ぎゃふん。

蝉玉の知り合いの石屋って、方相・方弼兄弟です、……書かないと分かんないですが(死)。
元々お互い朝歌で働いていたんだし、太公望と楊任が知り合いだったみたいに、彼らに面識があってもおかしくないかと。
彼らの店の軒先で、悪だくみ(?)が行われたんですねー。

琥仲くん(君づけするな)について。
一応史実に出てくる人にしようと思って、『史記』やら宮城谷氏の小説やらPHP文庫の『太公望』やら色々見ましたが、結局コーエー版『封神演義』の最後に名前だけ出てくるこの人にしました。
手っ取り早く管叔鮮(姫昌の3男)にしても良かったんですが、王宮の中に住んでそうだしこのヒト。そして、私は叔鮮×太公望っぽいもので既に書きかけの話が……(死)。歴史上では悪役(あ、ネタばらしι)として有名な人ですが、どうにも可愛くて。
PHP文庫の広夭(正式な漢字が出てこない…)もそれっぽかったんですが、この人は姫昌様の代になってから西岐に来たらしいので、いわば余所者ですしねぇ。

コーエー版のアレ、原作からしてそうなのかと思いますが。
奥さん関係について、姫昌様と姫発をごっちゃにしてるんですよねぇ。それで信用無くて(笑)、『新字源』でも調べてみたら……記述が違う
琥仲、コーエー版では姫昌様の弟なんですが、『新字源』では姫発の弟。
……しかし『新字源』にも、何進を後漢霊帝の義理の甥にしていた前科があるので(本当は義理の兄)どっちも信じられず。
こっちの都合の良い方を採用しました(笑)。……今見たら叔鮮の記述も間違ってやがる、『新字源』。
ちなみに、「琥」の字も、本当の字が出てこないので当て字です。正式に書こうとしても「?仲」に……(悲劇)。

以上、言い訳コーナーでした(死)。