回廊を、限りなく小走りに近い速度で、楊ゼンは歩いていた。その顔には、苦虫を噛み潰したかのような表情が貼り付いている。
「太公望師叔が何処に行ったか知らないかい?」
通りがかった官吏らにそれを訊く時だけは、常の穏やかな微笑みを浮かべていたとはいえ、どちらが素の顔かは一目瞭然であろう。
目的の人物の行方に関するはかばかしい情報が得られないのは兎も角、自分に対する腰の引けた対応の中に見え隠れする好奇の色にはうんざりしていた。遠巻きにしつつ、一挙一動を見張っているような、そんな反応は崑崙でも珍しいものではなかったが、何故だかやけに癇に障る。
強い、ただそれだけの視線に。
 
 
「……げ」
小さく、口中で呟いた。
僅かに顰められた眉が、それと解らぬ程度にせよ更に寄せられたのは、丁度正面から対面するような形で此方へと回廊を渡ってきた人物の姿を見てである。癇に障るという意味では目下一番の人間かもしれない。
「……これは楊ゼン殿、お久しぶりでございます」
相手も苦手意識は同じなようで、型通り拱手する初老の男にも僅かな動揺が見える。
「やあ、琥仲くん」
仕方なく挨拶を返すと、ぴくりと相手の眉が跳ね上がる。しかし、数瞬の間を置いた後には、茫洋とした、穏やかな表情を取り戻している。
……これが厭なのだ。楊ゼンは悟られぬ程度の、辟易した響きの溜息を吐いた。
姫琥仲は姫昌の弟の一人であり、有力な皇族である。姫昌に似た、と言われる穏やかな気性が兄の信頼を得、朝歌に姫昌が幽閉される以前の時期は片腕として国政を動かす立場にあった。
七年後、帰国した姫昌は第四子の姫旦(周公旦)を新たに宰相の位に就け、その後太公望が軍師となったことから、政界に居場所を失った琥仲は引退し、城下の広壮な屋敷にて隠居生活を送っている、筈である。
「……ところで、キミも太公望師叔を知らないかい?」
「は、軍師様のお姿が見えないので?」
「まあね……」
「重要な時期でございますからな、さぞご心配でしょう」
同情を寄せるかのような琥仲の言葉は、見当違いも良いところではある。普段のらりくらりとしているとはいえ、頭脳に優れ戦闘でも決して弱い訳ではない太公望がそう易々と危険に遭うとは考えられない。
(でも、そういう考え方もあるか)
特に、外見で人を推し量る術の身に付いた人間からすれば、太公望の姿はか弱い子供にしか見えない。相手が仙道だと判っていて、且つ力量を量り間違えて命を狙いに来るような浅はかな者もいないとは限らない。
(特にこういう輩はね)
「ありがとう、キミも師叔を見掛けたら、僕が捜していたと言っておいてくれないかな?」
軽蔑混じりに思ったことと、口にしたことは別である。
「は、それはもう……」
お互いやりにくい、そう感じているに違いない。
人間界において、仙道とは無条件に敬われるべき存在である。故に、どうしても敬して遠ざける傾向が人間側には出て来る。太師聞仲の例を取っても判るように、代々仙道との縁の深い殷王家なら対応もきちんと定まっているのだろうが、全くと言って良い程仙界や其処の住人との関わりのなかった周としては、突如大挙して押し寄せた崑崙の仙道達に対してどう接して良いのやら困じ果てている気配が宮廷内にも漂ってはいた。
加えて、時として感じられるのは、外見とのギャップである。
楊ゼンにも、琥仲が『この若造が』との思いを噛み殺して応対していることは目に見えて解るが、天才道士といえどもこればかりは如何ともし難い。
言わせて貰えば、人間の好きな年功序列の考えからしても、高々五十年そこそこしか生きていない目の前の男などは楊ゼンから見ると若造の域にも入らない。楊ゼン以上に己の実年齢に拘りを見せる太公望に至っては、息子程の年齢と言っても支障のない相手に対し気安く応対して憚らないのだが、それがこの男にどういった感情をもたらしているか、楊ゼンとしては些かの警戒心を感じてはいた。
「それでは、私は旦に用事があります故……」
楊ゼン等に対しどういった感情を抱いているにせよ、それをおくびにも出さず一礼すると、彼にとっては甥に当たる宰相の名を告げた。暗に立ち去りたいと告げているのだと解し、楊ゼンは軽く頷く。
「ああ、手間を取らせて悪かったね」
「……そう言えばお訊きしたいことがあったのですが」
ふと、気付いたように琥仲は口を開いた。
「なんだい?」
「国境に要塞も完成したことですし、仙道の皆様はいつ御出立なされるのか、お解りになりませんでしょうか?餞の宴の準備などもあります故……」
思わず愛想笑いを消した程度の僅かな変化を、じっと上目越しに観察されていることに楊ゼンは気付かなかった。
「……決まったら知らせるよ」
「は、ありがとうございます」
言い残したことはないとみえ、しずしずと歩み去る男の背中に楊ゼンは険しい視線を向けた。重ね着した絹の衣服の重みでか、やや前屈みとなっているその背中に唾を吐きかけてやりたい衝動が込み上げる。
公的には何の位にも就いていないとはいえ、琥仲は今だ大貴族であり、最有力の皇族として権勢を誇っている。穏健派で、殷放伐には常に消極的な立場を取ってきた彼からすれば太公望達を豊邑から追い出したく思っているのだろう。
万が一にも太公望の不利になるようなことを企むのなら、許してはおけない。
何の能力もない癖に。


「なーに固まっちゃってるのよ?あのジジイに惚れた?」
「………スパイ」
一人決意を噛み締めていたところに脳天気な声を掛けられ、楊ゼンは脱力した。しかも言われた内容がアレである。
美形が台無しにならない程度のジト目で三つ編みの美少女スパイ(自称)を睨み付け、
「そこまで、僕の趣味は悪くないよ……」
こめかみを押さえれば。
「冗談よ、じょーだん!!あっはっはっはっ!!!」
馬鹿笑いを返され、余計に頭が痛む。このペースを崩される感覚は、太公望の持つものに或いは匹敵するのではないだろうか。
「………で?」
「あんた、太公望のやつを捜してるんでしょ?あいつなら一刻前くらいに城下へ遊びに行っちゃったわよ」
軽々と言われた言葉に、半ば予想し始めていたとはいえ、溜息が漏れた。
「あの人、自分の立場をなんだと思ってるんだ……」
「ついでに言うなら、前後して武王も繁華街に行って来るって」
「……………」
最早言う言葉もない。
「……太公望、『楊ゼンにだけは黙っとれ!』なんて言ってたけど、あんまりアンタが哀れな姿晒してるもんだから、特別に教えてあげたわよ!」
「はあ、それはどうも……」
「まああたしは殷のスパイだから?奴の言うことなんか聞く義理なんてないしー?」
ある日要塞建設の定期報告に帰ってきて、見ず知らずの少女が『公認スパイ』として居着いていた時は本当に驚いた。
太公望のことだから、深い考えがあって彼女の存在を許しているのだろうが、矢張り情報の流出は避けるべきではないだろうか。そう苦々しく思っていたのだが。
今、琥仲と遭った後、妙に彼女の存在を有難いと感じていた。
敵とはいえ、こうもぽんぽんと言いたいことを言う人間は他にはいない。憎めないという以上に、物怖じしない言動は爽快感すら感じさせる。
(仙道と居る時の方が、やっぱり楽なんだよね……)
その事実に僅かに胸を痛めつつ。
「さて、あの人をふん縛って来なきゃね」
楊ゼンは自らに活を入れた。
「盛大に雷落としてきなさいよー」
面白がっているのだか、無責任な声援を飛ばす蝉玉の声を背中で聞きながら、……ふと、金鰲島のことを考えた。原則的に人間を受け付けないという話だったかの島は、彼女の天衣無縫さを奪わなかったのか。
益体もない考えを振り払うかのように、流れるような髪を手で掻き上げつつ楊ゼンは首を振る。
 
 
自分の考えに没頭していた彼は、スパイメモ片手の美少女が
「……ま、無理だろうけど」
呆れたように小さく呟いたことを知らない。
 
 
 
 
 
 
 
 
豆(トウ)は、がしがしと頭を掻きむしった。何日洗っていないか数えることはとっくの前に放棄されており、塊のように付着していた塵や皮脂といったものがぽろぽろと指の隙間からこぼれ落ちる。
目立たない訳ではないが、周囲の風景に溶け込んだ、こぢんまりとした城隍廟。
人の居ない隙を見計らって観音開きの扉から潜り込めば、彼の姿を見咎められることはない。
神への敬意など欠片も持ち合わせてはいない様子でどっかと座り込むと、懐から今日の仕事の成果を取り出す。
中身をぶちまけるように財布を逆さにすれば、銅銭が廟の灯りを反射して鈍い光を放った。
これを繰り返せば、床にちょっとした小銭の山が出来る。
なかなかの収穫に満足して、頷こうとした時。
「ほう、意外と腕は確かなようだのう」
「!?」
肩越しに覗き込まれるようにして掛けられた声に、豆は仰天した。
長い間の掏摸暮らしもあり勘は鋭い筈であるのに、全く気配を感じなかった。
「!……てめぇ……」
警戒心露わに振り返れば、数日前繁華街で仕事の邪魔をした、妙な少年が背後に座り込んでいる。何時から其処に居たのか、先日と変わらず年齢不相応に泰然とした、本音の見えない笑みを浮かべている。
言わずと知れた太公望であるが、無論彼はそんなことは知らない。
ただ、その見えにくい表情から自分の狼狽する様を観察されていると悟り、体がかっと熱くなった。
馬鹿にするなと怒鳴ろうとして。
「捜したのだぞ?あの辺りを縄張りにしておるなら、ねぐらはこの辺りかと検討をつけてのう」
機先を制したように、先に口を開かれて罵声はタイミングを失う。
「……何の用だよ!」
代わりに 、憤りの残滓を吐き捨てて目線を逸らせば。
「さてのう、わしにも解らんが」
「はぁ?」
至極のんびりとした声音で答えられる。
「なんとなく気になった、では駄目かのう?」
にやりと笑う、その様はまさしく同年代の悪ガキのものだ。
高みから見下ろされるかと思えば、同じ目線から対等に笑いかけてくる。得体の知れなさを感じつつ、この時点で彼は太公望に対する警戒感を棄てていた。
人の心の隙間をかいくぐり、いつの間にか内に入り込む。太公望の、その知謀に匹敵する武器の一つと言える。
 


いつの間にか、ぽつ、ぽつと言葉を交わしていた。
豆もふと我に返れば、ねぐらへの侵入者を追い出すでもなく並んで腰掛けている、その状況には首を傾げざるを得なかったが、『侵入者』は始めからその場に居たかのように、しっくりと空気に溶け込んでいるのである。
「アンタ、金持ちの坊ちゃんって風にも見えねえけど、何やってる訳?」
「わしはのう……旅人だな」
その言葉に、豆は顔を顰めた。
「嘘付くんじゃねえよ。今の不穏なご時世、アンタみたいな子供が旅なんか出来るかっての」
「嘘ではないぞ。確かに楽なばかりではなかったが。相棒と、ずっと長い間二人旅をしていてのう……」
「二人って、あの顔のキレーなあんちゃんと?」
「………」
ふと、訪れた沈黙を不審に思って顧みる。
「……いや、あやつは優しいからな。わしらが難儀しているのを可哀相に思って、手を貸してくれているのだよ」
どこか自虐的な響きのする言葉の内容とは裏腹に、膝を抱えた太公望は心底満ち足りた、柔らかい笑みを浮かべていた。
付き合いの浅い豆はすんなりとそれを受け止めたのだが、日頃の太公望を知る者達であったら信じられない、見たこともない類の表情である。
「……へえ、良かったな」
「うむ」
「その割に役に立たなさそーなあんちゃんだったけどな」
「……う……くくっ」
楊ゼンが聞いたら激怒しそうな発言であるが、太公望には笑い事である。それでも口を押さえて控え目を心がけているのは、それなりに遠慮はしていると言うべきか。
「そこで笑うなよ……っ」
豆にも笑いが伝染する。
 
 
一頻り意味もなく笑って。
「……そう言えば、おぬしも旅をしたのだろう?」
笑顔のまま問われた内容を脳裏に反芻して、豆は一瞬頭が白くなった。
「ひとりで、ここまでやって来たのだからのう。わしなんかより、ずっと偉いな」
話しておらず、知っている筈はないのに、何故か全て心得ているような言葉。
声音は、深く、染み込む力を持っている。
不意に、閉じこめていた感情のたがが外れそうになるのを感じ、豆は狼狽した。
「……んなことねえよ。難民のキャンプに混じってたしな」
しかし、見ず知らずの人間が集うその中で、豆は独りだった。
「……親戚もおらんかったのか?」
「みんな一緒くた、ヘビの穴ん中だよ」
何の感情を乗せるでもない、淡々と告げられた言葉に、太公望は小さく息を呑んだ。
僅かな、小さ過ぎるその反応に豆は気付くでもなく喉を鳴らす。
「バカな道士が一人いたんだよ。何の力もないクセに、わざわざ皇后の逆鱗に触れて、おかげで俺達まで巻き添えくらっちまった。同族だか何だか知んねーけど」
「……そ、れは……、とんだ災難だったのう」
ふと言い淀む気配に疑問を抱いて豆は傍らを顧みたが、目の合った相手は真顔でこちらを眺めているばかりで、変わった様子は見当たらない。その瞳の色が深いのも、気の所為なのだろう、と思い直す。
「王宮の奴隷だけって話だったんだけどな、素性を隠して朝歌に住んでいたり、たまたま立ち寄ってた商人とかの羌族出身者も捕まえられて」
「おぬしは朝歌に住んでいたのだな」
「ああ、バレるとも思ってなかったし、何代か前から住んでたんだ。……でも、ヤな予感はしたんだろうな、ヘビを捕まえる告知が出た時俺一人で行ってこいって遠くに追い出されて、……帰ってきたら家族は連れてかれちまった後さ」
「………そうか」
所々打ち壊されて、火事場泥棒が入ったのか家財道具の一式消えたがらんとした家。どん底の暮らしでも、いつも豆に笑顔を見せてくれた家族は、誰も居なくなっていた。
独り立ち尽くした後、……持ち帰った4匹の蛇を踏み殺した。
何があったか漠然と察して、その足で朝歌を出る大規模な難民の群れに混じったのだ。
「おぬしの身を守ってくれたのだのう」
「朝歌を脱出した後は大した身の危険もなかったけどな、何せこっちは大集団だ。……一度だけ、臨潼関でヤバイかんじにはなったけど」
何が可笑しいのか、太公望はくつくつと喉を震わせる。
「聞いておるよ、件のバカな道士だろう」
「ああ!どれだけのバカかは知んないけどな、関所の側について俺達を攻撃しやがった!」
悔しげに拳を握り締める。
「それが、今は周の軍師やってるって話じゃねぇか!どうせまたここの奴らをばたばた殺すつもりなんだろーよ」
最後は吐き捨てるように言うと、拳を床に叩き付けた 。
痛みに顔を顰めるが、その手をそっと包み込むように持ち上げたのは手袋に覆われたもう一人の手である。
「……西岐の人が死ぬのも嫌か」
「ったりめぇだろ!」
「そうだな、そうだのう……」
自分に言い聞かせるように相槌を繰り返す太公望を眺めていると、昂ぶった気持ちが徐々に落ち着いてくる。
「……んだよ」
照れ隠しもあってそれを振り解けば、相手も途端に剽軽な風情を取り戻した。
「いや、のう。おぬしもその志があれば、こんな所で燻っておってはならんぞ」
「ココロザシって……」
「この国で、羌を代表するエライ人物になってやれ!」
「ぐっ」
激励するように背中をバシバシ叩かれる。
「ッてーな…!大体、こんな浮浪者やってて、偉いもクソもないだろーが!!」
理不尽な暴力に噛み付けば、太公望はニヤリと口元を歪める。
「そうか、安定した生活さえあれば、いつでも偉くなれると。ふむふむ」
「誰もそんなことは言ってないだろ!!」
「違うのか?」
思わぬ真摯な声に、ふと豆は即答を迷う。確かに、この生活さえ何とかなれば、という思いがない訳ではないのだ。好きこのんで掏摸などしている筈もない。
「……まあなー…」
結果漏れたのは、同意ともつかない曖昧な声だったが。意外にも、太公望はそれ以上は追求してこなかった。
よっこらしょ、とじじむさい掛け声を掛けて立ち上がる。
「まあ何にせよ、ガキの一人暮らしだ。気を付けろよ」
「テメエだってガキだろーが」
失礼な言いぶりに憤慨しても、柳に風と受け流されている。
「ではのう、また来るよ」
ぽんぽん、と豆の頭を数回叩くと、太公望は音もなく、するりと扉の隙間から消え去った。ぱたんと、最後に扉の閉まる小さな音がして、それっきりである。来た時もそうだとしたら、確かに気配にも気付かない筈だった。
 
 
「……変なヤツ」
最後まで年下扱いされていたようであるのが気に食わないが。どこかで、彼の次の訪れを待ち望んでいるような感覚がある。
思えば、西岐に来て以来、初めて長く話した相手だった。思っていた以上に、孤独を感じていたのだろう。
だからこそ、先刻の「優しい奴」に対する喜びも、理解出来るのだ。
豆にも、彼らの関係がそんな一方的なものであるとは思わない。ろくに知らない間柄であるが、あの少年がそんな風に他者に寄りかかってそれで良しとする人物であるとは思えなかった。
ただ、傍に居ると、そのことだけが嬉しいのだ。
 
元来羌の民は、小さな集落ごとに遊動生活を営んでいる。集落の構成員は軒並み家族のような雰囲気だが、それだけに結びつきは強い。
支配者に屈さぬ独立心の強い民は、また一族の絆を大切にする。誰にも頼らず生きていくことが誇りだが、一人で生きて行くには向いていないのだ。
多分、彼には新しい一族が出来たから、それで幸せなのだろう。
……いつの間にか無意識に、豆は名前も知らない少年のことを自らの一族の尺度に当て嵌めて考えていたが、奇しくもそれは間違ってはいない。
「さてと、メシでも食うか」
放り出してあった銭を手掴みにすると、豆は起き上がった。
豊かな周にも、はした金で食べ物を売る店はある。残飯に近い、決して美味なものではないが、どのみち豆の外見では入れる店など決まっていた。
ふと、太公望の言葉が頭を過ぎる。
「安定した生活さえあれば……」
ふと呟き、馬鹿な夢想を自ら笑い飛ばす。
 
 
ねぐらである城隍廟からそっと抜け出すその姿を、しかし密かに見張っている者がいることに、豆も、迂闊なことに太公望も、気付いてはいなかった。
 



種は、確実に蒔かれている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西岐城内における連日の殺人的な忙しさも、ピークを過ぎて沈静化に向かいつつあった。
それでも多忙であることには変わりなく、楊ゼンなどは歎声混じりの息を吐いている。この状態にも関わらず、相変わらず隙をみてはサボっていた姫発や太公望のような肝の太さは、持ち合わせていなかったらしい。
目下の最大の案件だった要塞建設も終わり、物資や兵の輸送や国内の安全の問題へと、重要事項はシフトしている。それも、計画を立てるまでが大変なのであって、一度発令されれた後はそれを軌道に乗せるだけである。
執務室では、珍しく真面目に仕事をこなしている軍師とその片腕、王と宰相が雪隠詰めにされていた。時折下官が慌ただしく出入りする他は、静かなものである。
 
 
その静寂を破ったのは、太公望であった。
「のう、旦」
「……何です?サボリは許しませんよ」
ハリセンを引き寄せつつ眉根を寄せるフケ顔の宰相に、怯えた表情を見せつつも太公望は逃げ出したい衝動を堪えた。
「失礼だのう。…そーではなくてだな」
怯えた顔をするから図に乗られるのだ。逃げると追いかけてくる犬と同じである。
それこそ失礼なことを考えつつ、太公望は一枚の書類を周公旦の前に差し出した。
「この案件についてだが、……却下とされているのは何故なのだ?」
周公旦が受け取れば、お馴染みの読みやすいが汚い字で、見覚えのある内容が書かれている。そして、確かに自分の字で却下の印が入っていた。
「ああ、これですか」
「ああ、ではないだろう。おぬし、自分の一存だけで勝手に人の案件をだな……」
「なら、あなたの一存でごり押しする気ですか?」
言い募る内にも昂ぶってくる感情に水を掛けられ、ぐっと言葉が詰まる。涼しい顔をしている周公旦を、それでも睨み付けていると、険悪な雰囲気を察した姫発が慌てて口を挟んできた。
「おいおい、国のトップが喧嘩してんじゃねえよ。なんだ?太公望、その案件って」
取りなすように低姿勢で顔色を窺う王に、偉そうな軍師は仏頂面で返す。
「……朝歌からの難民問題だが」
ぴく、と楊ゼンの眉が跳ね上がったが、それには誰も気付かない。
「それがどうかしたのか?」
「今までも最低限の保障はしてきたが。本格的に開戦した後は、それだけの余裕はないであろう」
「うんまあ、そうだな」
聞き役に徹している姫発に、太公望は挑むような視線を向けた。
「そこでだ。国費で義舎(無料宿泊施設)を造り、職のない者を収容出来ないかと思ってのう。
それにより難民の正確な数を把握出来るし、周の戸籍に入れることによって兵の増強も出来るであろう」
「……ま、まあそうなのか……?」
生憎と政治については見識の低い王は即答出来ず、曖昧に相槌を打った。それごとすっぱり切断するように断言したのは周公旦である。
「現在でも、国費でそれだけを賄うには、それこそ余裕がありません。国家予算は軍事費の所為で、かなり余裕がないのですよ」
確かに、戦争によって兵器などの産業は発展する。しかし、基本的に生産的な何物も生み出さない戦争は、国家にとってそもそも負担にしかなり得ない。
「それとも、軍事費を減らせと?」
軍師のあなたがそれを言うのか。無言で語る周公旦に、太公望は唇を噛み締める。
「で…でもよ、戦争だーつっても困ってる奴らを見捨てるのもヤバイんじゃないの?そりゃ本末転倒っつーか……」
またもや助け船を出す兄に一つ頷いて、周公旦は太公望に向き直った。
「それに関しては、叔父上から申し出が出ております」
「……何処の叔父だっつーの」
太公望の、茶化す声も掠れかけている。
「……琥仲くん?」
「おや、知ってたんですか」
楊ゼンの呟いた声に、意外そうに眉を上げる。
「丁度この書類を読んでいる時にいらっしゃいまして。私がお話しますと、それならばと代案を考えて頂きました」
「代案?」
「はい小兄さま。叔父上始め、周の高官・貴族の屋敷では使用人の男手が徴兵されて、難儀しているようです。それの苦情にいらっしゃったのですが。ならば、彼らが優先的に元難民を雇い入れて保護することを奨励すればどうかと」
「ああ、そりゃ一石二鳥だよな」
「はい」
兄弟の会話を後目に、太公望は拳を握り締めた。
「……それではいかんのだ。戸籍もなく、人に使われるのを強制され、……それでは新たな身分の上下が出来るだけだ」
感情を抑えたような、太公望らしくない訥々とした物言いに、周公旦はふと痛ましそうな目を向けたが。
「それは理想論でしょう、太公望。それに難民にとっても、人に仕えることで生活を保障される方が、兵士として危険な地に赴くよりずっと良いのではありませんか?あくまで奨励であり、双方強制されることはありません。

自由には義務がついて回ると、しかしその考えこそあなたの強制ではありませんか?」
「……っ、それでも、わしは……」
ふいと顔を背けた太公望に、今度は(珍しいことに)やや柔らかみを帯びた声で語り掛ける。
「この代案は、散宜生殿も賛成しております。あなたの許可を貰えば、直ぐにでも布告出来るのですが」
周公旦は、高官の中でも特に太公望寄りの文官の名を挙げた。
「俺もそれでいいと思うぜ、太公望。……なんだその、戦争が終わるまでの一時しのぎなんだしよ」
重苦しい空気を払うように、姫発はわざと大きな声を上げた。密かに苦労性かもしれない。
「楊ゼンさんはどう思われますか?」
先刻から意見を言うでもなく黙々と自分の仕事をこなしていた楊ゼンは、周公旦から話を振られて顔を上げた。
無言の、太公望からの強い視線を感じながら、周公旦に穏やかに微笑む。
「ええ、僕もそれがいいと思います」
さらりと口にした言葉が途切れない内に。
「太公望!!」
がたん、という固い音と周公旦の咎める声は、ほぼ同時に起こった。
大振りの黒檀の椅子を蹴倒すように席を立つと、そのまま太公望は無言で部屋を飛び出していった。
「あ………」
しんとした部屋に、姫発の気まずそうな声だけが響く。
かたりと、今度は静かな音がして。
「すみません、少し席を外します」
今の一幕がなかったかのように静かに笑むと、楊ゼンは太公望の後を追うようにして退室した。
扉の閉まる音を聞きながら。
はぁ、と周公旦があるかなしかの溜息をついたことを知っているのは、彼の次兄ただ一人である。
 
 
 
 
 
「師叔!」
楊ゼンがその人を捕まえたのは、回廊を奥に曲がった辺りである。どうやら自室に戻ろうとしていたらしい太公望は、腕を掴んだ楊ゼンの手を邪険に振り払うとそのまま目も暮れずに歩き出した。
「待ってくださいってば」
それを追いかけ、しつこく腕を取れば。
「………放せ」
低い声がそれだけを呟く。
「放しませんよ。こんなあなたを放っておけますか」
楊ゼンは眉間に皺を寄せた。全く、この人らしくない。
そのまま太公望は抵抗するでもなく黙り込んでいたが、急に前触れもなくその場に崩れ落ちた。座り込む太公望に引きずられるように、その腕を掴んでいた楊ゼンも膝を付く。
「……なにやってんですか」
いらいらとその肩を揺さぶろうとしてふと。
顔を上げた太公望がいつもの貌を取り戻していることに気付く。
「すまんのう。思ったよりダメージがきつかったようだ」
へらへらと笑うと、自由な方の手で額を押さえる。
「納得とは別だが、旦や琥仲の言い分も解りはするのだよ。確かに、建前に拘る前に現実を見据えるべきだ。旦がわざと悪役になってくれたのにのう……」
「なら……」
宥めるような声を、楊ゼンは出した。
「おぬしがあんまり意地悪なものだから」
それを遮るように、わざと明るく、甘えたような声を太公望は出す。
 
貌に貼り付けた笑みが強張った。
確かに、意見を求められた時。楊ゼンは何の定見もなく、太公望に対する嫌がらせで周公旦の考えに同意した。
見抜かれていた。
「……難民問題は以前からずっとあったでしょう。今までの方針を急に変えてそんなに慌てるから、こんな惨めなことになるんです」
自分でも、固い声が出る。
「つくづく失礼だのう」
気にした風もなく太公望は笑うが、内心では傷付いているのだろう。解っていても、楊ゼンは吐き出したかった。
「あの少年を見たからですか?……あなたの同族の」
何の根拠があった訳でもない。
だが、当てずっぽうの言葉に、太公望は大きく肩を震わせた。
「やっぱり、そうだったんですか……」
では少年への過剰とも思える同情は、いつからかは知らないが、彼が羌族であると知ったからなのか。
溜息は、切なさを伴う。
「あなたは、本当にご自分の同族のことに関しては、いつもいつも……」
こう見えて常に冷静な、理を重んじる太公望が情に流されるのは同族が絡んできた時だ。彼の魂が今でも地上に囚われていると、こんな時に実感する。
……自分との差を、実感する。
「そんなに、大事ですか」
楊ゼンは、故郷を棄ててきたのだ。居場所は、太公望の側にしかないというのに。
「ダアホ」
そんな楊ゼンの鬱屈を知ってか知らずか、太公望は困ったような笑みを浮かべた。どこか途方に暮れたような、少しく眉を顰めた表情は楊ゼンの好きなものの一つである、のに
「それもあるがな、……おぬし、この前から言いたそうだったろう」
何を。
思わず掴んでいた手を離し、楊ゼンは距離を置いて彼の上司を見遣る。
「それでわしも焦っていてのう。おぬしが言わぬ内に、とばたばたしておったな」
ようやく、太公望の言いたいことが飲み込めた。安堵と、切ない気持ちが綯い交ぜになって、楊ゼンは結局一度離した手を、今度は細い肩に回す。
お互い回廊でしゃがんだまま、楊ゼンの腕に引き寄せられた太公望はその動きのまま、蒼い道服の胸に額を押し付けた。
「……言わぬのか?」
緩やかに促されて。
「師叔……、要塞に参りましょう。この豊邑で、もう僕達に残されていることは幾らもありません」
いっそ穏やかに、楊ゼンは溜めていた言葉を吐き出した。
「うん、そうだな。早い内に行こうか」
胸の中で、太公望は小さく頷いた。
あの浮浪児の少年に遇って、何とかしなくてはいけないという義務感が起こる前から。
太公望は、豊邑でやり残したことを探していたのだろう。
その動機が、離れ難さであることは楊ゼンにも解る。崑崙を下山して以来、初めて腰を落ち着けた場所に、愛着を持っていたのだろう。
敵の狙いを豊邑から引き離す為とはいえ、一度この邑を出て戦線に赴く以上、再び戻って来れる保証はない。
「……はい」
太公望自身の決めたことではあるが、今まで楊ゼンが強く言い出せなかったのは複雑な心境からである。
太公望のそんな離れ難さを漠然と察していたからであるし、楊ゼン自身は逆に豊邑から離れたかった、そんな個人的感情を見抜かれるのが怖ろしくもあった。
想い人の髪に顔を埋めつつ、楊ゼンは逸る気持ちを抑えていた。
これ以上人間に囲まれているのが苦痛だった。
 
 
……多分、怖い夢も見なくなる。
 
 
 
 
  
 
 
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真っ昼間の回廊で抱き合う軍師と部下。
フザケてます。←管理人がね

……連載物の区切りにしてはやけに長めでしたが(当社比)、進んだのかそうでないのか。
役者は揃ったというか、これからの展開もちいっとは見えたのではないかと思います。どうせ単純な管理人の書く物ですから、驚きの展開は無理でしょう……
本筋は、これから、なんでしょうかね
2話でこの辺りまでというのは予定通り、と言いつつも。そこまで書くのに費やした筆の長さが予想外です(死)
早く終われ……(呪詛)

豆くんについて
最初は、封神1巻でタイ盆に落とされてた羌族の少年パート2みたいなつもりで書いていたのですが、いつの間にかやさぐれた呂望ちゃんなんじゃ…との感触を手に入れています(死)。
容姿は、例の1巻の子っぽいかんじで想像して頂ければ、と。
この話の裏主役は楊ゼンですが、主体となるのはこの子です。と思わせぶりに(笑)。
名前は、どうでもいいようなかんじにしようと思い(オリジナルだし)、なんとなく『さらば我が愛』の主人公の幼少時の名前が「小豆」だったなと思い出し。
しかし日本人には「あずき」としか読めないので(死)、小を取った豆。どうせ「小」は「〜ちゃん」の意味ですしねぇ。

そんなかんじで、実は大したことは何も考えていないのでした。(^^