雨宵
上空から太公望達が見たのは、もうもうとした砂埃と大量の土砂。
張奎によって地面に埋められた兵達は、脱出するのに鍬を必要としたらしかった。既にあらかたの者は脱出したらしく、残りの者を掘り起こしている段階である。
殷の兵士達は既に降伏した後らしく、メンチ城には周の旗が翻っていた。
「良かったっスねぇ、みんな無事みたいっスよ」
気の良い霊獣が喜ぶのに一つ頷くと、降りるように指示した。
「あ、師叔。封神台はどうでしたか」
「う…うむ。皆元気そうでのう、張奎は納得したようだったよ」
兵士達から場所を聞き。城内の一室へ入るなり掛けられた声に、太公望は応えを返した。
留守を任せていた片腕は、しっかりやっていてくれたらしい。先程の兵達の様子からも、軍が問題を抱えていないことは読みとれた。
その片腕は、多少機嫌が悪そうではあるが平然としている。
九ヶ月間の留守のことなど、食ってかかられるだろうと内心びくびくしていたというのに、相手の平静さに毒気を抜かれた体の太公望である。
直接文句を言ってくるなら丸め込みようもあるが、自分から言い訳するのも馬鹿らしい。
視線をこちらに合わせようとしない楊ゼンに苛立ちつつ、視線を室内に走らせると見慣れないものにぶつかった。
それは、太公望の視線に気付くと、椅子から立ち上がって礼を執る。
「お久しぶりでございます、軍師様」
「ええと、おぬしは確か……」
頭を掻きながら問うと、二十三、四ぐらいの美女は笑みを零した。
「禎婉、とお呼び下さい」
「前にもそう聞いたような気がするのぅ……」
すまぬ、と答えると相手は恐縮しつつも嬉しそうに笑う。意志の強そうな、厳し気な顔立ちが綻んで柔らかみを帯びた。
彼女は、元は女官の一人であった。
一度仕事が切羽詰まった折に、太公望は偶々手近にいた彼女に手伝わせて、その有能さに気付いたのである。
女官というのは、貴人の身の回りの世話が主な仕事である。極端な例、文字を読めない者も存在するのだ。だが、彼女は寧ろ文官としての才能があった。
西岐は別に男尊女卑の風習があるわけではなかったが、官吏は全員が男性である。そこで、太公望は目立たぬようにと、彼女を史籍を取り扱う小さな部署の長官に回したのだが。
その女性が、何故こんな処に。
「僕の、秘書になって貰っているんです。流石に一人で軍師代行は務まりきれなくて」
訝しげな太公望に気付いた楊ゼンの言葉で、疑問は解ける。
見ていない振りをしてしっかり見ている楊ゼンに少し腹が立ったが。
「おぬし……だからといって女人を戦場にまで引っ張って来るのは感心せんぞ」
呆れたような態度をとりつつも、太公望は楊ゼンを見直しはした。
先程の人事は太公望が独断で行ったことであり、楊ゼンは知らない筈である。楊ゼンの他人、特に目下の者への無関心が気になっていたのだが、この分では心配することもなかったようだ。下の者の能力はしっかりと把握していたらしい。
……元々二人が知人であっただけかもしれないが。
ずきん、と胸が痛んだ気がして、太公望は首を傾げた。
「師叔?」
訝しげな楊ゼンの声で、現実に引き戻される。
「……何だ?」
今度は目を逸らされない。妙に強い、熱の籠もったような視線に、今度はこちらが息苦しさを覚えた。
……そういえば、この部屋には窓がない。この圧迫感はその所為か。
「今までの状況を報告したいのですが……」
「ああ、……後でも構わんか?皆の様子を見ておきたいのだが」
「はい、そういうことなら」
半ば強引に楊ゼンの了承を貰うと、何故か逃げるような足取りで太公望は部屋を後にした。
「愚痴を言ってもらえんのも、それはそれで居心地悪いのう……」
見回りをするでもなく、城壁に腰を掛けて足をぶらぶらさせる。
作業はもう終わったらしい。鍬を振るう兵士達の姿は見えなかった。代わりに、城内に収容しきれない兵らのための天幕の設置が行われている。
どうにも気分が優れず、太公望は溜息を付いた。
そのまま深呼吸をすると、埃っぽい空気が肺腑の中に入ってきて噎せ返る。
「おーおー、何やってんだか」
背中をさする手に振り返ると、空気に負けないくらい埃っぽい外見の道士。
「ん、韋護ではないか。楊ゼンはここには居らんぞ」
「いや、楊ゼンにはヨウ、ゼンゼンないけど」
「………はぁ………」
笑えないオヤジギャグに溜息を深くする。
「……で、どうよ?九ヶ月ぶりの感想は」
傍ら、太公望と同じように韋護も城壁に腰を下ろした。
「チームワークは絶望的だったな」
「確かになぁ……」
「あとは合格点。あやつもこれだけ出来れば充分であろう」
目を閉じて上を向くと、瞼の内で光が乱反射する。
「あいつは結構頑張ってたよ」
「うむ……おぬしらも支えてくれていたのであろう?感謝するよ」
振り向くと、喜ぶでもなく照れるでもない韋護の、存外真面目な表情に出会う。
「九ヶ月前から思ってたんだけどな、なんだか太公望って楊ゼンの恋人ってゆーよりかは親みたいだぜ、特にそういう言い方すると」
「そうか……って、ええっっ!!こ、こ、こ……」
「みんな言ってるぜ?楊ゼンのやつから聞いた話の六割は惚気だったし」
「あやつら〜……」
赤面したまま、太公望は脱力する。とっくに周りにバレていることは知っていたが、知らない者にまで暴露することはないだろうに。蝉玉や太乙、口の軽そうな面々が脳裏を過ぎる。
だが、随分と太公望の知る彼ららしくて、肩から力が抜けるのを感じた。
そういえば彼らとまだ話していない。先刻は戦のどさくさでそれどころではなかったのだし。
九ヶ月も会っていなかった所為か、皆と居る時の空気を忘れていたのかもしれない。自分らしくないが。
楊ゼンは……随分と変わったようだ。多分、前よりも大きくなった。先程居心地が悪かったのは、そういうことだ、と思うことにする。
それならば良い。
「それにしても……あやつはそのようなことまで話したか」
「まあな、俺ら仲良いしー?」
「多分おぬしは初めて出来た対等の『友達』なのだ。仲良くしてくれ」
今度は目を開けたまま上を見る。眩しい。
空には雲一つなかった。お陰で日光を遮るものが存在しない。
この地方は元々雨が少ない。ここらの空気が乾燥しているのもその所為であるに違いなかった。
こういうこと一つをとっても、先日までいた場所との、差異を見せつけられる。
軽く咳き込んだ太公望をまたしてもさすりながら、韋護は存外真面目な表情を見せた。
「……だから、その親みたいなのはやめた方が良いぜ。もう楊ゼンは子供じゃないんだ。今更親の庇護は必要ない」
「そうだのう。……そろそろお役ご免か?」
おいおい、と帽子を脱ぐと韋護は頭を掻く。
「あいつだってそれだったら錯覚しちまうだろ?あんたがそれでいいんなら兎も角、そのクセ直した方がいいわ、な?」
「確かに言うことがオヤジ臭い」
揶揄するような太公望の笑みに、韋護は呆れたような顔をしてみせる。
「ま・俺は他人事だからな。あの美人のねーちゃんに奪られても後悔すんなよ?」
「まさか」
「おー、言い切った!」
他人事、と言った割には嬉しそうに韋護は立ち上がる。
「じゃ、また晩飯の時にでも会おうぜ。ダンナと仲良くなー」
手を振り振り去っていく小汚い道士を見送りつつ、気遣いに素直に感謝出来た。
「……全くオヤジ臭い、と言ったら失礼かの……」
お陰で自分の現状が多少掴めた。原因が判れば対処の仕様もある。
よっこらしょ、とこちらはジジ臭い掛け声付きで、太公望は腰を上げた。
なんとなく気配を消して、再び彼の部屋に向かい。
黄色い光に境界線を引かれ、思わず足を止めた。
薄暗い廊下に一筋光が射している。閉め損ねた扉から漏れているもののようであった。
先刻立ち去った折、きちんと扉を閉めなかっただろうか。
記憶にない。思った以上に狼狽していたのかもしれない。
太公望は苦笑いを浮かべると、そのまま躊躇いを押しのけるように扉に手を伸ばした。
「……ねぇ、禎婉君」
その手が半ばで止まる。
楊ゼンの声は、笑いを帯びていた。
「太公望師叔には言わないでくれないかい?」
「まぁ」
漏れる笑いを抑える声。
何故か、太公望はそのまま扉の隙間に目を押し当てた。
「あの人意外と潔癖だから。こんなことがバレたら怒られてしまうよ」
「私も共犯ですわ。一緒に叱られれば宜しいではありませんか」
自分の前に居る時ですら、いつも取り澄まそうとしていた筈の男が、ばつの悪そうな表情を浮かべていた。
そういえば、禎婉のことをすぐには認識出来なかったのは、硬い表情しか覚えていなかったからだった。
幸福そうな笑顔。
張奎とその妻も、この部屋ではこんな様子だったのだろうか。
「うわ」
楊ゼンは、書きかけの書簡に墨を零した。
「まぁ、大丈夫ですか?」
慌てて禎婉が立ち上がる。灯火の前を横切り、廊下に浮かんだ太公望の影を一瞬消した。
それを契機に、弾かれたように太公望は扉の前を離れる。
胸を押さえる。
気が乱れてはいないだろうか。
呼吸は平静だった。嫌になるくらいに。
再び手を伸ばして、しかし、震える手を握り締める。
「……昼間から灯火を使うのは勿体ないのう。採光の点で問題あり、か」
口の中だけで呟いた。
そんなことは考えていないのに。
結局開かれなかった扉を見ることなく、逃れるように太公望は再びその場を後にした。
――自分が玉鼎の代理だということには、早くから気付いていた。
その出自を知る前から、家族の愛情に飢えている様子は見せていたのだ。
逃げ出した先、急に視界が晴れるのを感じて太公望は足を止めた。
目前、壁の一部が崩れていて、空が見える。
日差しはもう射しておらず、珍しいことに大気は雨の気配を感じさせる。
曇天の、柔らかな光が心地よい。灯火などよりは、ずっと。
壁面は、残った部分にも無数の罅が走っていて、老朽化した様子を見せていた。
傾いた殷では、修理するだけの余裕がなかったのに違いない。この戦争が始まる以前、随分と前からこのままだったのだろう。
多分、無意識の内に人気のない場所を目指していた。
「……永久に堅固な物など、ある筈もない、か……」
この区域が危険だとは判っていたが、そのまま膝が崩れるのに任せた。
……楊ゼンにとって特別な存在であった自覚はある。
上司で仲間で、数少ない尊敬出来る人間。
その自分に、楊ゼンは家族のような、包み込むような愛情を求めた。
その手を、太公望は取ったのだ。『あなたがいないと生きていけない』という言葉を信じていたわけではなかったのに。
「韋護よ、最初に勘違いしたのはあやつの方なのだ……」
ああ、また汚い自己弁護をしている。
「いや、……勘違いをしたのはわしの方か?」
縋る手を振り解けなかった。間違っていると解っていたのに。
いつか本人も言っていた。それしか知らない子供の、実のない愛情表現に惑わされて。
彼の望むものになろうとした自分が居て。
いつか、彼が広い世界を見ることが出来るようになったなら。その時は笑って送り出そうと思っていた筈なのに。
「くくっ、……ははは……っ」
額に手を当てる。全く、可笑しくて涙が出そうだ。
その手を離せないのは自分。
彼が居ないと生きていけないのは自分。
いつの間にか、随分な勘違いをしていた。この手に掴めるものなど始めから何一つなかったではないか。
「今更遅いわ……」
どうすればいい?どうすれば失ったものを手に入れられる。
『ハニーを殺してアタシも死ぬ!!』
「…………そうか」
光が射した、と思って顔を上げると、澱んだ空。丁度最初の雨滴が目に入った。
はい、忘れた頃にやってきた1000リク作品です(死)
潮 綾子様のリクエスト。・・・もう全然違うことになってて謝っても謝りきれないです・・・
リク発表は後編にて。同時アップですけど。
相変わらず重暗い話で申し訳ないですよ・・・
いつか心正しい楊太ファンの皆様方に刺されそう。・・・はっ、ウィルスメールの原因っ!?そんな・・・・・・(涙)