深夜。

雨に濡れながら、彷徨うのは小さな影。

白い足は泥濘に何度も取られて、夜着の裾と同じく汚れきっている。

水滴が漆黒の髪を重くし、顔に張り付くのを泥だらけの手が掻き上げた。

その間も、抱えた荷物は離さない。しっかりと、腕に護るように。

溺れる者の必死さにも似たその姿は、小柄な少年の姿を一層小さなものに見せる。

その苦行にも似た歩みは、陣地の篝火の見えなくなった地点で止まった。

ここなら誰にも見られる心配はない。

そっと、荷物を地面に降ろした。

気分が悪いで押し通し、あれから誰にも会っていない。

四不象はいつの間にか姿が見えず、仕方なく兵の一人に頼んで『道具』は用意させた。……多分、その用途は知られていない。

巻き付けてあった布が、泥水を吸って黒く染まるのを横目で見ながら、土を掘り起こす。

掘り起こして、積み重ねる。

片端から雨に流されていくのに構わず、砂山作りに没頭する。

黄河流域の砂は、その粒子の細かさ故に水を吸って粘土状になる。どうにかして、祭壇のような形は整った。

爪の間に泥がこびり付いている。夜着の裾で手を拭うと、包みを開けた。

香炉は土の台の上に置く。

油皿には術で灯した火を。

そして、小さな机の上には、藁で作った、小さな、ちいさな人形。

人形の中には符と、蒼い髪の毛が一筋仕込まれている。

太公望は、ゆっくりと呪を唱えた。

これで、この人形はあの男と同じになる。

崑崙で修めた行の内、これだけは用途がないと思っていたものが、今役に立つ。

元始天尊の一番弟子と呼ばれた身、成功する自信はある。失敗しても、どうせこの身一つに跳ね返ってくるだけのこと。全然構わない。

最後に、懐から短刀を取り出した。

本来なら、何十日にも渡って祈り続ければ、自然と効果が出るものである。しかし急ぎたかった。

いなくなれば、手放さなくても構わない。これ以上失うこともない。

雨足に負けたのか、ちょっとやそっとでは消えない筈の火が消えた。

構わない。

そこにある筈の人形を見据える。

あと、短刀をその胸に突き立てれば完了。

呪殺。

本当に自分勝手な。

醜い妄執で。

振り上げた刃は、行き先をふと見失って惑う。

「おぬしのことが本当に……っ」

間違っている。

使命を遂げるのではなかったのか。人々から託されたものをどうする気。

「……すまん」

それでも自分はこんなに弱いのだ。間違っているのなら始めから。

この想いも。何もかも。

息が止まりそうだ。




刃は、進路を定めた。

「……うん、わしも生きていて欲しいよ……」

その切っ先は持ち主の、泥で汚れた夜着の胸元へと吸い込まれる。




「いけないっ!!」




……はずだった。

「……………楊ゼン?」

濡れ細った躰に、じんわりと温かい体温が沁みていく。背後から抱き締められていると理解した時には、短刀を奪われていた。

男の手が、強い力で刀身を握っている。血が刃先を伝って、地面に吸い込まれた。

灯火は消えてしまって真っ黒にしか識別出来ない筈なのに、真紅の鮮血が眼前を過ぎったのが見えたような気がして、眩暈が起きる。

力が抜けたように倒れかかるのを合図に、男は短刀を投げ捨てた。

「………楊ゼン………?」

「あなた馬鹿ですか!?様子がおかしいと思ってたら案の定……何やってんです、もう」

怖々呼びかければ、強い力で拘束される。

叱りつけるような声が、僅かに震えていた。

「いや、ちょっと、トチ狂って」

「何かあるんなら言ってくれないと困ります。……何のために僕が居ると思ってるんですか」

「……は?」

訝しげな声を出して、先刻から自分の声も震えていたことに気付く。

「僕はあなたが居ないと生きてけないんですから」

嘘だ。

「そう、せめてあなたの側にいて重荷を分け合うくらい出来なくてどうするんですか……」

もう充分一人立ち出来るおぬしが。

わしの側を離れて幸せになれるおぬしが。

……何故か、声が出ない。

「僕のためにも、これ以上その身を傷つけないで下さい」

きっぱりとした声に、思わず釣られて頷いてしまう。

背後で笑った気配がして、今度はゆっくりと抱き締められる。

太公望は呆れたように溜息を吐いて、意外と逞しい体に凭れ掛かった。

においは変わっていない。

――こやつ、正真正銘のアホか?

大体自分を殺そうとしていたことぐらい、この状況を見て解らないものか。

しかも、未だに勘違いし続けている。

「……それでも良いか」

こやつが気付くまで。嘘でも良いから幸せだ、と認識するお目出度い頭を抱えて。

それが本当、というやつになるのかもしれない。

「?何がです」

「べつにー?」

そう考えると嬉しくなって、水を吸ってごわごわした紺色の道服に頬を擦り寄せた。

相手も満更でないらしく、大きな手で頬を包み込む。

「………あ、すみません。血、付いちゃいましたねぇ」

「それは良いが。おぬしずぶ濡れだのう」

「だって師叔がふらふらと城外に出て行くのが見えたから、慌てて追いかけてきたんですよ。それに師叔の方が酷い格好です」

楊ゼンは太公望の体を抱き上げると、迷いのない足取りでメンチ城の方角へ向かう。

「『道具』は見られると問題ですしね。明朝始末しに行きますから」

「うっ……」

「その辺りに至った事情もしっかり後で聞かせて貰いますからね」

「……………」

気付いていてじんわりと攻めてくる。

天才道士は、イヤミである。

「相変わらず意地が悪いのう……」

至近距離で睨め付けると、随分柔らかく微笑まれた。このようなパターンは初めてである。

「言い忘れてました。……お帰りなさい、太公望師叔」

「……うむ。ただいま」

変わったもの。変わっていないもの。

瞬きをして、頬を伝うものを認識する。今まで雨だと思っていたが。

涙であった。








本日の執務は屋外にて。昨夜の雨が嘘のような快晴である。

太公望は、用意された椅子に腰掛けつつ、楊ゼンの用意した報告書の束に目を通していた。昨日の執務室は武王が使用中。『辛気くせえ』と嘆きつつ仕事中。

「ふぁっくしょい!!」

「あの、軍師様」

盛大な嚔と、恐る恐る掛けられた声が見事にハモった。

「ん?なんだ、禎婉」

昨日の雨で風邪を引いたのかもしれない。

鼻を擦りつつ振り返ると、申し訳なさそうな笑顔に出会う。

「あの……お暇乞いをしに参りました」

頭を下げる。戦場では充分な身繕いも出来ないのか、飾り気のない簪が太公望の眼前に現れた。

「それはまた、いきなりだのう……」

浮気発覚が原因というわけでもないだろうに。大体本当のところはどうだったのだ?情報量の不足に首を捻るしかない太公望である。

「元々軍師様のご帰還まで、という話でしたから」

「それにしてもおぬしらはよくやってくれていたし、このまま軍務を任せようかとも思っていたのだが」

「まぁ、それは無理ですわ」

何が可笑しいのか、禎婉は口を押さえて笑い出す。昨日から、彼女の笑い顔しか見ていない気がするが。こんなキャラだったか……いまいち覚えがない。

「楊ゼン様は寸分の違いもなく、軍師様のやり方を踏襲なされていただけでしたわ。参画したばかりの私にすら『師叔ならどうすると思うかい?』とそればかり」

「………そう、か………」

どうやら少しばかり副官の能力を過大評価していた模様。

「私と初対面の際も、第一声が『どうやら君は師叔に抜擢されてたみたいだけど、有能なんだろうね?』ですから」

「それはすまなんだな……」

「まあこちらも少しムッとしたんですけど……」



『私が色仕掛けで軍師様に取り入ったとは思いませんの?』

『師叔が私情で人事を左右するなんてありえないからね。第一、僕がずっと側にいたし』



「……笑顔のオプション付きで断言されたら反論の仕様もなくて……」

「……………」

数瞬にして、楊ゼンの株は大暴落した。

「ま、アホの補佐も大変だったろうが……そうだ、女子一人の旅は物騒ゆえ護衛を……」

「結構ですわ。婚約者が迎えに参りますから」

さらりとした爆弾発言を、危うく太公望は聞き逃すところだった。

「軍師様のご帰還の後、すぐに楊ゼン様が霊獣の方に頼んで豊邑まで使いに出ていただいて。一緒に連れてきて下さるとか」

「スープー……」

どうりで姿が見えないと思っていたら。

「あやつ、主人のわしに断りもなく……」

よってたかって騙されていた気分である。

昨日の騒ぎが馬鹿みたいな気がして(実際そうだが)太公望は再び泣きたくなった。

「して、婚約者はどのような奴だ?」

「前の部署の部下なのですけど。私が居ないと何も出来ないような男で……留守の間もちゃんとやってたかしら……」

口調とは裏腹に、照れたように、嬉しそうに禎婉は笑った。

「………それは良いな」

ずっと堅い貌をしていた彼女にこんな表情をさせることが出来るのなら、きっと良い男に違いない。

「ええ。とても」

花の綻ぶように笑う女は、質素な形でも充分に魅力的な美姫に見えた。

「申し上げます。軍師代理補佐様のご夫君が到着とのこと」

何か掛けようかと探していた声は、伝令兵の言葉に遮られた。

「あら、ほんと」

同じ方向に首を傾けると、にこにこ笑う四不象にお辞儀を繰り返す若い男が居た。

確かに仕事が出来そうなタイプに見えないが、実直そうな感じの男である。

「………では、お世話になりました」

「幸せにな」

婚約者に手を振り、禎婉は一歩足を踏み出したが。

「そうですわ。楊ゼン様に賭の話を訊いてご覧なさいませ」

「ん?」

振り返りざまに謎のような言葉を残すと、今度こそ彼女は婚約者の元へと駆け出していった。








「ああ、行っちゃいましたか」

いつの間にか、背後に楊ゼンが立っている。

「……おぬし、いつの間にか気配を隠すのが上手くなったな」

「師叔が僕を信頼している現れじゃないですか?」

新しい書類を差し出す楊ゼンの手には、久しぶりに手甲が付けられていた。手に巻かれた包帯を隠すためなのは言うまでもない。

ちら、と太公望はそれに視線を走らせた。

「……時に、賭とは何なのだ?」

「………えっ、とぉ……」

目に見えて狼狽する副官の髪をぐいっと引っ張った。

「いたたたた……彼女、バラしちゃったんですか」

「だから何を」

随分と嫌そうにしつつも、話す気になった楊ゼンは書類を置いている卓の端に腰を掛けた。

「……彼女と僕は師叔スキスキ仲間だったんです」

「………は?」

本気で何を言っているのか解らない太公望に焦れたように、楊ゼンは眉根を寄せた。

「彼女は初めて才能を評価してくれた師叔に憧れてたんですよ」

理解不明の言語を話す楊ゼンの言葉を、ただ聞くしかない太公望である。

「……だが、結局あれは婚約者と……」

「それで賭なんですけどね」

楊ゼンは遠い目をした。

「あなたが彼女の名前を覚えてるか否か。僕は覚えている方に賭けて500元損しました」

去っていった金を懐かしむかのような眼差し。

「もう大損ですよ……あなたのあの記憶力はどうしたんです?」

「………っ、ダアホ!!!」

しゃあしゃあと苦情を言う男に、丸めた書簡で殴りかかる。

「人を賭博のダシに使うでないわ!!!!」

「痛い、痛いですって!!」

すわ浮気かと思い詰めた自分の立場はどうなるというのだ。理不尽な怒りに太公望は我を忘れた。

身を乗り出して掴みかかっている内に、卓のバランスが崩れる。

「うわっ……」

そのまま二人して地面に倒れ込む。咄嗟に楊ゼンが太公望の体を抱き込んだので、痛いのは楊ゼンばかりである。

書簡が地面に散乱した。

「……夫婦喧嘩は犬も喰わないさね、二人とも」

その内の一つを手にとって、軽く叩く真似をしたのは。

「……天化!!」

「よう、太公望。昨日は何で夕飯に来なかったんかい?」

「食い意地だけで生きてるような奴がよー」

韋護、雷震子。蝉玉もいる。見上げれば、久しく会っていない気がする仲間達。

「何を言うか、わしにだって胸が痛くて食事も喉を通らない日が存在するのだ!」

「嘘臭すぎよー。ねぇ?」

そうだそうだ、どうせ居眠りでもしていたんだろうと囃したてる皆と、説得力のなさそうな素振りで抗弁をする太公望。





未だ地面に転がったまま、楊ゼンは微笑まし気にその光景を見守る。

太公望には上手く誤魔化したが、実は『賭』にはもう一つの側面があった。

『私があの方に覚えて貰っていたなら……これからはあの方の近くで働きたいと思います』

拳を握り締めて、禎婉は語った。

『僅かな間だとしても、少しでもお役に立ちたいですけど……もし忘れられていたとしたら、諦めます』

その結果が。

このことは、太公望には内緒にしようと思う楊ゼンである。

優しい人だから、このことで自分を責めるようなことをして欲しくない。

それに……始めは同じような考えを持つ親近感だったのが、彼女自身をも憎からず思うようになっていたなどと知られれば、今度こそ殺されるかもしれない。いや、死なれるか。

「僕はあなたに殺されるなら本望なんですけどね……」

シリアスに呟いた瞬間、砂埃が舞って寝っ転がったままの楊ゼンに目潰しをかけた。

しかも口に砂が入り込み、噎せ返る。

「あー、何をしておるか」

それを助け起こそうとしたのは太公望。

「おぬしもまだまだ一人前にはほど遠いのう。これからもしごいてやるから覚悟せいよ?」

「……はい、勿論」

偉そうにふんぞり返る姿も子供っぽくて可愛いなどと、かなり間違ったことを考えつつ、楊ゼンは笑みを返した。

「っかー、お熱いねぇ」

「ひゅーひゅー」

「!おぬしらっ!!!」

一度助け起こそうとした楊ゼンをあっさり見捨て、太公望はヤジを飛ばす連中とじゃれ始める。

「はいはい、この続きは仕事の後にして下さいね」

楊ゼンは何とか自力で起きあがると、良識を楯に事態の収拾を図った。

仕事と聞いて、皆も急に立ち去ろうとする。太公望に手伝わされる危険性を察知してのことである。

「じゃあな!」

「お幸せにー」

こそこそと退散する皆を、溜息を吐いて軍師様は見送る。

「安心しましたか?」

「……どこまでバレておるのやら」

それは皆に対してか、楊ゼンに対してか。それを楊ゼンは訊きそびれる。

「あ、それと禎婉のことだが」

「はい」

「忘れていたのではなくてだな、見違えて綺麗になっておったからすぐには解らなかっただけだったのだが」

思わず楊ゼンはまじまじと太公望を凝視する。

「……なんだ?」

「あ、いえ」

まるで『賭』の内容を知っていたかのような言葉であったが。多分知らなかったのだろう。恐らく。

「師叔も充分に綺麗ですよ?恋をしてるからですよねー……痛っ」

書簡が宙を舞って楊ゼンの顔面に激突した。

だが、呆れた風を装いつつ、太公望が大層嬉しそうな表情をしていたということは。





楊ゼンだけの秘密である。










<完>


 ← 駄文の間に戻る



はいっ!!お待ちかねのリク発表のお時間です!!!(もう自棄)

・楊太
・普賢は出さないでください(切実)
・懸命に尽くす楊ゼンに対しつれない太公望
・打ちひしがれる楊ゼンが誰かに慰められているのを見て(知って)嫉妬で何も手に付かなくなる太公望
・太公望は自分の非を諭され、(幾分)反省する
・出来れば楊ゼンに少しはいい目を見せてあげてください

・・・・・・。
これのどの程度を達成出来たというのでしょう・・・・・・(死)
クリアしてるのなんて、「楊太」と「嫉妬」くらいしか・・・(それも怪しげ)
楊ゼン尽くしてないし!!師叔ってば反省の方向性違うし!!!
何より楊ゼン全然(ギャグ?)いい目見てない〜〜〜〜〜っっ(困)

潮様は幸せな話がお好きなそうで。「不幸な話でなければいい」とのお許しをいいことに好き勝手してしまいました。
怒られそうですね・・・ああ、元々私には楊ゼン浮気話は(そういう指定でない)無理でした〜〜〜(涙)

師叔が趙公明呪殺しなかったので楊ゼン相手にでも、と。ちなみに灯かりが(蝋燭の可能性大)消えたらきっと駄目です。
表の諭し役は韋護で、裏が「徒花」の蝉玉ちゃん。何故韋護かというと、初めは楊ゼンの浮気相手候補にノミネートされていたからです(死)

こんな物しか出来なくて、本当に申し訳ないです・・・・・くくうっ
これから修行の旅に出ます・・・・・・