壱
飛鳥山へ音無の紅葉を観に行った帰りにちょいと一杯。しかも無料で飲める酒とくれば、つい飲み過ぎてしまうのも道理だろう。
だが、頬が少し上気している以外、竜太郎のすっきりと端正な顔にもしっかりとした足取りにも変化はない。それどころか、見る人が見れば、彼がかなりの剣の使い手であることがその油断ない身のこなしからも判っただろう。
商家などの雇われ用心棒を生業にしていて、今日の紅葉狩りもお得意先の一軒の大店から誘われたものだった。今回に限らず、さっぱりとした性格て人好きのする竜太郎は、たびたびこういった店を上げての行楽に参加させてもらうのだが、そこでのそつのない態度を見て、誰もが彼がさる旗本の家出息子だという噂に納得するのである。
折しも時刻は夕暮、辺り一面が夕日の色に赤く染められている。その中を歩いていくのもなかなか風流だな、とお気に入りの扇子で顔をあおぐ。
まるでさっき観た紅葉のようだな、とは夕焼けを見ての感想。何の変哲もない町中を楽しげに見渡していたが、ふと目に留まったのは木の下に佇んでいる一人の娘である。一心不乱に上を見上げる姿が、まるで何かを決心しているようにも見える。
首くくり。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、竜太郎は顔を強張らせて駆け出していた。
――が、勢い込んで駆けつけたは良いが、娘は別に自殺しようとしていたわけではなかった。
夕焼けの色と混じって遠目からでは判別できなかったが、そこにあるのは一本の紅葉の木だった。街の景観を良くしようと誰かが植えたのか、橋のたもとに立つその木は、色も形も良い物ではなかったが、娘は、それをうっとりと眺めていたのだ。
娘と言ったが、年の頃は二十二、三。二十四歳の竜太郎とさほど変わらないし、人によっては子供がいてもおかしくないような年頃は年増の部類に入るのであろうが、不思議と年齢を感じさせない顔立ちには娘、といった表現が似合った。
娘が竜太郎の存在に気付いたのは彼が駆けつけてから大分経ってからのことだった。この木に、何をそんなに夢中になっているのだろうと訝しく思っていると、ようやく気配に気付いたのかびっくりしたように振り返ったのである。
「あ、あの、もしや先程から見ておられました…?」
恥じらったような声を聞いて、一瞬違和感を感じたのはその言葉遣いだ。目の前の娘の着物を見ても、かなりくたびれており、外見は百姓の娘、である。丁寧な言葉遣いからして、没落した浪人の家の娘なのだろう――しかもかなり大きな藩に仕えていた。
「紅葉がお好きなんですね」
内心で色々と詮索しつつ、人なつっこい笑みを浮かべて話しかける。
「はい。……いえ、里を思い出していましたの」
「旅の方ですか。江戸は初めて?」
「はい。父からは聞かされていましたが……」
では江戸詰めの家臣だったということか。
いつの間にやらこの娘の素性に興味を持っていることに気付いて、竜太郎はこっそりと苦笑した。娘に合わせて、普段使わないような言葉で話す自分も変だったし、何より今会ったばかりの彼女と連れだって歩いているのもよく考えると妙なことだ。
これも酔った勢いというやつかな。自嘲気味に考えてみるが。
「江戸には知り合いはおられないんですか?」
半ば照れ隠しに尋ねた言葉だった。
「あの、え………いいえ」
しかし娘は露骨なほど顔色を変えて慌てたかと思うと、次の瞬間には一切の表情を消して口をつぐんでしまう。
どうやら事情があるらしいが……。
「――何か困ったことがあるんなら相談して下さいよ。俺、じゃなくて私に出来ることは余りないでしょうけど、こういう時に頼りになる人を一人知ってますからね」
「…………有り難うございます」
自分でも思ってもみなかったような言葉が口をついて出たが、不思議と悪い気はしなかった。はにかんだように微笑んで礼を言う娘の横顔に、ちょうど最後の光を放っている夕日が不思議な陰影を作っていて、特徴ない造作のその顔が、一瞬ひどく美しく見えたのは目の錯覚だろうか。
内心の動揺をひた隠しにしつつ歩く竜太郎を先導に、二人は彼の住む長屋へと向かって歩いていたのだった。
「あーら竜さん。また女なんて拾ってきたのぉ?」
「誰が『また』だ」
「あらヤダ酒臭い。仕事の付き合いだからって、気をつけてないとスケベ爺ぃに何されるか判ったもんじゃないわよぅ」
二人がやって来たのは、竜太郎の住む裏長屋の一角。だが用があるのは、三味線片手におかしくもない冗談でころころと笑っているこの三つ輪髷の女ではない。
「これお江。からかうのも程々にの」
腰高障子を開けたところからはお江の影になって見えないが、聞こえたのは老人の声だった。
「爺さん。ちょっと頼みがあるんだけどよ」
「何じゃ、別れ話の仲裁なら聞かんぞ」
せっかくの美人も台無しになるくらい、口を思い切り開けて笑い転げるお江を横目でにらんで、竜太郎は絵筆片手に土間近くまで這い出してきた小柄な老人に向き直る。
「あの、この方々は……?」
「心配しなくても大丈夫ですから。見かけは胡散臭い奴らですけど」
「胡散臭いとは随分じゃな。儂は本業は絵師じゃが、博学なのを見込まれて、時々人々の力になったりしておる」
「ま、強いて言えば何でも屋みたいなもんですね」
胸を反らして自慢げな老人に戸惑う娘に、横から竜太郎が解説を入れる。
約一年前、世間知らずな上行くあてもなく路頭に迷いかけていた竜太郎を拾って、最初の仕事を斡旋してくれたのも、老人とお江の二人である。現在に至るまで腐れ縁が続いていたが、老人がかなり頼りになるということを、身を持って熟知していた。
「そんな安っぽいもんではないわ!……ところで娘さん、やはり困り事というのはあんたが江戸に来た理由と関係あるのかの?」
娘は旅装を解いていた。竜太郎は何も言わなかったにも関わらず、この娘が江戸の者でないと見抜いている。密かに竜太郎が舌を巻いたように、娘も驚いたのだろう。それからの彼女の口がずっと軽くなったことに、彼は気付いていた。
――娘は、向坂波、と名乗った。
家を出奔した姉と、その婚約者を捜して江戸に来たという。
彼女の父は竜太郎の見立ての通り、御家取り潰しになったさる大名に仕えていた藩士だったそうだ。江戸詰めの家臣だった父は、武家奉公に上がっていた郷士階級の母と出会い、身分違いを越えて結婚したのだという。
「二十五年前でしたが、それから両親は母の郷里で畑を耕していました。――けれど、ずっと武士に戻ることを望んでいて、私達姉妹にも武家風の作法を教えるくらいだったのです」
そして、その男が現れたという。
彼女の父のかつての上役で、今は別の藩で重用されていた宮城左右衛門の直筆の手紙を持っていた、佐山源也。彼が姉のお滝を好いて婚約を申し出た時、両親が一も二もなく賛成したのは、ただ、彼の仕官がこっそりと内定している、向坂の婿になって家を再興してくれる、その言葉が魅力だったからだ。
「……そして、愚かな夢ばかり見ていた罰が当たったんです」
ある日、佐山は両親の隠していた僅かな金品を持ち出し、お滝と共に姿を消したのだという。しかも、後で宮城に問い合わせてみると、佐山の仕官の話などなく、手紙すら書いた覚えなどないという。
「両親は寝付いてしまいました。……それより心配なのは姉なんです。あれから三年、便りも来ないし、何より佐山なんかと一緒になって幸せになったとは思えないんです!
それで、居ても立ってもいられなくて……私……」
そこまで言うと、お波は耐えられなかったのだろう、両手を顔に押し当てた。肩を小刻みに震わせているのは、泣いているからだろうか。
「お波さん……」
「よく話して下さったの」
お江は、この話が始まる少し前から無言である。いや、お波がここで最初に口を開いてから一言も喋っていなかった。話を聞いているのは判るが、どちらかというとちらちらと竜太郎の方に視線を向けてふうっと肩で息を吐く、を繰り返している。
「何とか力になりたいのじゃが、生憎お江戸八百夜町の全ての人間を知っているわけではないからのう。……ああ、そんな落ち込んだ顔をしなさんな。お滝さんの居場所を探す手伝いは出来るからな――お江」
「何だい、小父さん」
「どうせお前もここのところは暇じゃろ。お波さんに付き合って人の集まるところへ行ってみんか?」
「なっ、何であたしが……」
口に出かけた言葉をあと一歩のところで飲み込んで、ちらりと横目でお波を見、縋りつくような視線とばっちり目が合ってしまう。
「――任しとくれよ。こう見えてもこのお江さんは常磐津の師匠をやってるだけあって顔は広いんだからさ、どーんと大船に乗った気でいな!」
「……すいません」
「ほんとにそうは見えないけどな」
「おだまり!」
「――竜太郎はどうする?」
お江が元々面倒見の良い性質なのをふまえての提案である。あやつには可哀相だがの、心中で苦笑しながら、老人は竜太郎の方にも尋ねてみた。
「そうだなぁ……近江屋の泊まりの仕事が明日から二日あるんだけど」
「儂も調べることがあるでな、三日後に頼むことがあるんでそれ以後の予定は空けとくんじゃぞ」
何となく残念そうな様子で竜太郎が頷いたのを見て、お江がぴくりと眉を動かしたが、次の瞬間には平静に戻っている。
「皆さん……竜太郎様、本当に何から何まで有り難うございます……」
「いえ、お役に立てるか判りませんけれどね」
お波に見つめられて、元々赤かった竜太郎の顔が真っ赤に染まる。
「長逗留するなら宿代も馬鹿にならんじゃろ、お江のところに泊まればいいのう。……これ、竜太郎、さっさと宿まで荷物を取って来んか」
「でも、男が行っても素直に渡してくれないだろ。お江の方が……」
「こやつにはまだ話があるんでの。それにお波さん本人が行かんと宿の方も納得せんじゃろ。……若い娘さんを送って行くのは男の義務じゃぞ」
「まぁ……そんな、一人で行けます」
遠慮してお波が押し留めるのを、「そういうことなら」と竜太郎は立ち上がる。清涼感漂う笑顔を向けられ、お波は恥ずかしそうに目を伏せた。
お互い照れたような表情で出て行く二人を、お江が複雑な顔をして見送っていたことに、竜太郎は気が付かなかった。