男は気分がむしゃくしゃしていた。
 いかにも荒んだ雰囲気の漂う賭博場である。
 破落戸ややくざなど胡散臭い連中の集まる悪所であるが、当然、暗い瞳をした男もその中の一人だった。
「ほい、四六の丁!」
 二つの賽子の数に対しどよめきが起こる。男が今日に入って何度目かの舌打ちをしたとき、隣に座っていた人相の悪い男がすかさず声をかけてきた。
「へへっ、源の旦那も今日はからっきしですかい」
 男の顔は知っていたが、こんな風に馴れ馴れしくされる覚えはない。不審が顔に出たのだろう、男は肩を一つすくめて一枚の紙を懐から出す。
「この手紙…、妙な娘さんがこの辺の柄の良くない連中に、お前さんに渡してくれって頼み込んでたのに出会っちまってね。旦那とは知らぬ仲でなし、おいらが預かってきたって訳なんでさあ」
 長舌には全く耳を貸さず、その手紙を広げた男は、次の瞬間ほんの僅かであるが顔色を失っていた。
「言っちゃ悪いですけど、おいらが通りかからなかったら奴らに騙されて吉原にでも売り飛ばされてましたぜ。あの娘さん、やっぱり旦那のコレですかい?」
「……どんな女だった?」
「へえ、器量はそこそこですが地味臭そーな堅気の娘で……旦那、覚えがないんですかい?」
 最早隣の男の存在など忘れたように、男は暗い眼差しを賽子へと戻していた。
 
 
 
 
 
 竜太郎は走っていた。その表情には疲れが色濃く出ていたが、徐々に傾いてゆく陽が、一刻も早く江戸に着かなくてはならない彼の焦りを煽り立てて足を止めさせない。
 手遅れになる前に、お滝さんを止めなければ。
 
 
 
 
 
 
 
 ――話は二日前に戻る。
「で、頼みたい事って何だい?」
 約束の三日後、仕事を終えたその足で老人の元を訪れた竜太郎は、
「お波さんの里へ行ってくれんかの?」
いきなりそう言われて絶句した。
「里っていってもどこだか判らないじゃねえか」
「二十五年前にお取りつぶしになった藩に仕えていた向坂家といったら調べはつくじゃろう?」
 冗談ではない。記録の残してある幕府の役所ならともかく、一介の町人が調べてすぐに判ることではない。が、いつものことなので竜太郎は何も言わなかった。秘密があるにしても、こちらも同様。話すべき時が来たら話してくれる、と思う。
「他にも色々と調べたが、面白いことが判ったんじゃよ」
 竜太郎の思索などお構いなしに、老人は淡々としたものだ。
「これはお江の話なんじゃが、どうもお波さんが捜しているのは姉さんじゃなくて、その婚約者の方らしいの。あやつに隠れて色々と調べておるようじゃ」
「でもお波さんは姉さんが心配で江戸まで出て来たのに、人でなしの婚約者の方なんてどうでも……」
「そこが面白いんじゃがの。……あと宮城っていう侍、かなり評判が悪い。江戸留守居の立場を利用して羽目を外しているだとか、地方の素浪人を騙しては僅かな金を巻き上げているだとか叩けばいくらでもホコリの出る体のようじゃの」
「じゃあお波さん一家もそいつに騙されてた可能性があるんだな?」
「……そこで、お前がお波さんの里まで行って調べて来るんじゃ。お波さん本人には判らなくても、里のご両親は何か知っているかもしれんからな」
 それにお波さんが何か隠しているかもしれない。その言葉は口に出されなかったが。
 そうして竜太郎は江戸から数里離れた彼女の里まで行って来たのだ。
 
 
 
 
 
「お波………?」
 くたびれた青い着物。後ろ姿に向かって震える声で男は呼びかけた。
 橋のたもとに立つ一本の紅葉の木。彼女は男の声にも気付かないように、じっとその木を眺めている。
 紅葉に彩られたかの小村を思い出した。
 男の脳裏を、女の髪に簪のように塗されていた紅葉を摘み上げた記憶が甦る。湧き上がる熱い想いのまま、彼女に求婚したことも。
「思い出しますね。あの日も、あなたはそうやっていかにも善良そうなふりで私を騙した……」
「……今ではふりも出来なくなってるぜ」
 暗い瞳が自嘲気味に呟くのを聞いて、やっと女は振り返って男の方を見た。歳月の流れを止めたかのように若々しい顔が月光で浮かび上がる。
「………お滝………」
 
 
 
 
 
 
 天領(幕府直轄)である関東一帯は、半士半農である郷士層と農民が混在して暮らしている。彼女の里も、山と田畑に囲まれた、そんな村の一つだった。
 
 江戸から休みなく歩き続けて、辿り着いたのは夜中である。そんな時刻に押し掛けても迷惑だろうと一番近くの宿場町まで引き返し、翌朝再び訪れた先で。
 竜太郎は目を疑うことになった。
 彼女の家はこれだと思う。仕官していた頃は余程羽振りが良かったに違いない。村のはずれに立つその屋敷は柱も大きく、土台もしっかりしている。
 だが、それだけだった。
 家屋は見る影もなく、数本の柱を残して焼け落ちていたのだ。二、三年はするのだろう、焼け跡には所々で雑草が伸びており、やがて家はその痕跡すらなくなるだろうことが容易に想像できる。
「これは一体……」
「何だいあんた、この辺では見ない顔だねぇ。余所者かい?」
 しばらく放心していた竜太郎を現実に引き戻したのは野太い女の声である。
 早朝から山にでも行っていたのだろうか、ここからでも辺りの山一面が真っ赤に色付いているのが見えるが、その小母さんが背に背負った籠にも紅葉の真っ赤な葉が数枚貼り付いている。自分に対して明らかに不審の目を向けていたが、陽に良く焼けたその顔が善良そうなのを竜太郎は見て取った。
「あ、俺はお波さんの知り合いなんだが。聞きたいことがあって……」
「嘘付いたってあたしゃ何にも教えないよ。三年前に死んじまったお波ちゃんに何で余所者の知り合いがいるんだい!?」
「は?四日前に江戸で……この人だろう?
 老人に持たされていたお波の似絵を見せるが。
「馬鹿も休み休み……あ?これってお滝ちゃんじゃないか。何だい、あんたお滝ちゃんの知り合いかい」
「ええっ!?お滝さんは駆け落ち……」
「しやしないよ。あの男が家に火を付けて逃げた後、自分が金の在処をあいつに喋った所為だって、病になってたくらいでさ。あたしん家で養生してたら、あいつと一緒に逃げたらしいお波ちゃんが国境で死んでんのが見つかるだろ?悪いけどあの時、お滝ちゃん死ぬんじゃないかと思っちまった。
 何たって婚約者に裏切られたわけだろう。しかも病が癒えたと思ったら、すぐにいなくなっちまうし。お侍さん、あの子に会ったらあたしが心配してたって伝えといて下さいよ?」
 明かされた事実に、竜太郎はただ呆然とするしかなかった。




 ――話を聞いた後、すっかり警戒を解いた小母さんは引き留めたが、すぐに村を発った。
 この話が本当なら、お波……いや、お滝が江戸に来た目的は一つしかない。
 家族の仇討ち。
 休む間もなく走りながら、竜太郎は彼女の姿を思い出していた。初めて会った時の、どこか思い詰めた、それでいて儚げな表情。どことなくふっきれたような澄んだ微笑み。
 お滝さんの話が嘘でも、あの態度の全てが嘘だったとは思いたくない……いや、思えないから。
 彼女が人を殺めるのだけは阻止してみせる。
 視線を上げた先には、江戸があるはずだった。
 かつての恋人達が再会するはずの。






 
 
 
 
 
 
 
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