「あら、りょうさん。しばらく顔を見ないと思ったら、小父さんにこき使われてたんだって?」
 何故か、老人の住処にはお江一人しかいなかった。師匠とはいえ、小遣い稼ぎに芸者のようなこともしている。どこかに呼ばれた帰りなのだろう、目にも鮮やかな着物を纏ってのんきに煙管など吸っている。
「小父さんはどこぞのお屋敷の襖絵を描くって朝からいないよ」
「お波さんはどうしてる!?」
「ああ、昨日今日とあたしがお座敷にお呼ばれしてたからね。申し訳なかったけど一人にしてるよ。まあそろそろ江戸にも馴れたようだしね、……ちょいと竜さん!こんな時分からどこに行くんだい?
 お江が素っ頓狂な声をあげる程のもの凄い形相で、竜太郎は長屋を飛び出そうとしていた。慌てて彼女が着物の端を掴んだ手を、邪険にふりほどく。
「お波さんが大変なんだ!爺さんか……番所の役人でも紅葉橋まで連れて来い!」
「――判った」
 流石にただごとでないと気付いたお江が、緊張した表情で頷くのを確認すると、今度こそ竜太郎は既に夜の訪れた月明かりの町へと駆け出していた。
 
 
 
 
 
 お滝は、呆然とする男――佐山源也の目の前で、僅かに首を傾げてみせた。その顔には、常の彼女には不似合いな、皮肉げな笑みが浮かんでいる。
「よく――俺が江戸に来ていると判ったな」
「何となく察しは付いていたけれど……。ずっと確かめるのが怖かった。ようやく決心がついたのは、宮城様が貴方を見かけたと便りを下さったからよ」
「え?」
 源也が不審そうな顔をしたのを、お滝は見ていなかった。憎い相手として以外、目の前の男を彼女は判別していない。
「貴方が仕官するためにお金が要るって言うから、私は家族を裏切ったのに。……どうして何の罪もない両親やお波を殺したの!?」
 激昂して叫ぶ彼女を、暗い瞳が無言で見つめる。そこには覚悟したかのような、あきらめの表情が宿っていたが。
 お滝には見えない。
「何とか言いなさい!!」
 彼女の懐から白い光が覗く。短刀を構えたお滝を、だがまるで予想した光景であるかのように、源也は冷静に眺めていた。
「そうだな。……お前に殺されるなら、俺も本望だ」
 目を閉じた源也の耳に、草鞋が地を蹴る音がした。短刀が自分の胸に吸い込まれる光景が瞼に浮かんだが、


――それは現実の物にならなかった。
 珍入者のおかげである。
 
 
 
 
「やめるんだ、お滝さん!」 
 暗闇の中、対峙する二つの人影を見たとき、竜太郎は間一髪で自分が間に合ったことを知った。
「――竜太郎様?」
短刀を構えて、今にも駆け出そうとする体勢のまま、気の抜けた声をお滝は出した。
 それを見逃す竜太郎ではない。一旦は止まりかけた足を再び速め、まだ呆然としているお滝から、揉み合うようにして短刀を取り上げる。手際良く刀が奪い取られた瞬間、お滝は力が抜けたようにへなへなと、その場に崩れ落ちた。
「お滝さん」
「なんで……、何で邪魔するんです!?この男のしたことは……!!」
「……庇うつもりはないけれど、源也さんにも何か言い分があるんじゃないか?」
 うなだれたように立ち尽くしている源也に対して、まっすぐに竜太郎は向き合う。
「俺の想像では、黒幕は宮城だと思うんだが?」
「……騙されたんですよ。俺も」
諦めたようにふうっと息を吐いて、源也は自嘲の笑みを浮かべた。
「親父が宮城にはめられて死んでから、俺もずっと仕官の道を探してて。当の宮城から誘いが来たときには恥を捨てて飛びついたもんだったよ。だが金が要るって言われて……」
「向坂から盗もうとしたわけだ」
 二人の会話を、お滝は立ち上がることも忘れて呆然と聞いている。
「初めは江戸に出てきてそれから、と思った。向坂へも、金を借りることは考えていても盗もうとまでは思わなかった。……向坂が財を蓄えたのは、やつと組んで俺の親父をはめたからだ、殺して盗んだって構わない、と宮城に唆された」
「……嘘です。まさか父が……」
 震える声でお滝の発した言葉に、しかし源也はゆっくりと首を振った。
「今となっては判らねえ。……だがあの時の俺は信じちまった。良心の呵責もあったが、俺が仕官したら娘のお前と一緒になることで罪滅ぼしが出来るって思ったりしてな」
「お波さんとは何があったんだ?」
「現場を見られちまってな。二人で逃げようと誘われて、つい……。一緒になってくれないかと言われたんだが、俺の方にはその気がなくて、言い争う内にあの子は崖から足を踏み外しちまって……」
 本気で悔いているのだろう。源也の窶れた面差しには、沈痛な表情が宿っている。
 そして、彼が求愛を受け入れられなかったのは。


 ゆらり、とお滝が立ち上がったのに竜太郎は気が付いた。同じく我に返ったような源也の方へ、止める間もなく駆け寄って行く。
 そして、彼女は源也の胸に顔を埋めた。
「なんで……何でもっと早くに言ってくれなかったの?」
「お滝………」
「私、今でも家族を殺した貴方を許せない。でも、……まだ愛しているんだわ」
 胸の中ですすり泣くお滝を、そっと源也は受け止めた。
「だから忘れられなかった。本当は、こんな自分が一番許せなかったの……」
これ以上の告白を止めるように、背に回された手に力が籠もる。源也のその目に、ふっ、と光が灯る。
「竜太郎殿……だったかな」
 安堵と一抹の寂しさの混じった表情を浮かべて二人を見守っていた竜太郎に向かい、源也は今度ははっきりとした眼差しを向ける。
「俺も、やり直せるだろうか」
「どうせ金は宮城にだまし取られたんだろう?でなきゃこんな所で浪人なんてやってないだろうしな。……やり直せると思うぜ。まだあんたは根っからの悪人になってない」
「償わなければならないな」
「でしたら私も」
 呟く源也の声を聞いて、顔を上げたお滝も縋り付くようにして言い募った。
 そんな様子に竜太郎は嬉しそうに頷くと、いつもの人好きのする笑みを二人に向けて、そのまま踵を返す。
「あっ、竜さ〜ん。小父さん捕まえて来んのに時間かかっちまってさぁ……あれ、そのヒトは?」
「明日の朝早く、この二人を奉行所まで送ってくれ」
「ふーん、ではカタはもうついたんかの」
「カタって? あっ、竜さんってば!」
 遅ればせながら駆けつけてきたお江達二人に言い置くと、竜太郎は振り返りもせずに歩き出した。目の端に、三年ぶりに心の通い会った恋人達が頭を下げている姿が見えたような気がしたが、確かめはしなかった。
 そんなことはどうだって良かったのだ。
 竜太郎は僅かにほろ苦い笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 
 
 
 ――その日、竜太郎が起きたのは夕方近くになってからだった。なんといってもここ数日、ずっと走り回っていたのだ。健脚を誇る彼だが、やはり体が参っていたらしい。
 起き抜けのぼんやりした意識のまま、すぐに立ち寄ったのは老人のところだった。
「あらいらっしゃい、竜さん」
 例によって、いるのはお江一人である。三味線の練習中だったらしく、床には教本が散乱している。ここよりも広い自分の長屋に帰れば良いのに、四六時中老人の部屋に入り浸っている彼女の存在は、竜太郎にとって永遠の謎だ。
「爺さんは仕事かい?」
「昨日の襖絵の仕事の続きだって」
「ああ、そんなことも言ってたな」
 他愛のない話が続いて、お互い核心にはたどり着けないのが手に取るように判る。


「――二人とも竜さんには感謝してるって言っといてくれって」
 だが最初に口に出したのはお江の方だった。
「……行ったんだな」
「うん」
 何も聞かないところを見ると、事情は聞いたのだろう。暗い雰囲気を振り払うように、お江はわざと明るい声を出した。
「お波さん……お滝さんだっけ? 実は二十六歳だったんだって。てっきり年下だと思ってたのにさぁ」
 殺人未遂とはいえ、実際は何もしていないお滝に比べ、情状酌量の余地があるとはいえ源也は三人殺した上に家に火を付けている。実のところ、出頭しても命の助かる可能性は無かった。が、お互い知っていて何も言わない。
「宮城は?」
「調べてみるけど証拠がないって……。町奉行所では御武家は裁けないし」
「そうか……」
 町奉行所には、顔を合わせたくない人達がいる。ばったり会うのが嫌で、代わりにお江たちに二人を送らせたようなものなのだが。
 自分が頼み込んで源也の罪を軽くしてもらうことは出来ない。もし不可能でなかったとしても、それをすれば自分が宮城のような人間になってしまうような気がするのだ。武士の特権を使い、平気で不条理なことを出来る人間。それが嫌で逃げてきたのに……。
「これで良かったのかな」
 お江は何も言わない。ある程度の事情は、ひょっとすれば察しているのかもしれないが、竜太郎の口に出したくないことだと、何も聞かずにいてくれる。今回も、自分はほとんど何も説明しなかったのに、(それを言うなら老人もだが)良くやってくれた。
 掛け値無しでいい女だと思う。
「りょ〜うさん」
 そんなことをつらつらと考えていて、ふと気が付くと、いつの間にかそのお江が真横に座っていた。竜太郎の内心の動揺などお構いなしで、うふふっと楽しそうに笑って、無理矢理肩を引っ張って彼の上半身をこちらに向ける。
「いっ、いきなりどう……」
「ふられて悔しかった?」
 至極真面目な顔で尋ねられ、いきなりの急接近に狼狽していた竜太郎はますます顔を赤くする。
 暫し見つめ合った後、彼はふっと肩から力を抜いて、観念したように苦笑した。
「……別に。まあ少し寂しかったけどな」
 少し困ったように微笑む竜太郎を、お江は眉をひそめて見つめていたが。
 その顔が少しずつ近づいてきて、竜太郎は更に狼狽した。が、金縛りにでもなったかのように、何故か顔を背けることが出来ない。
 そのまま二人が目を閉じようとした時――
 
がらりっ
 
 上がり口の障子の開いた音に、まるで一気に呪縛が解けたかのように竜太郎は慌てて飛びずさる。
「おおおお俺はこれでっ!」
 これ以上ない程顔を真っ赤にして、開いたままの上がり口から飛び出して行った竜太郎を、お江はしばらく未練がましく眺めていたが。ふと我に返ると、珍入者であるところの老人に手近な怒りを炸裂させた。
「ちょいと小父さん!?何てことしてくれるんだいっ!!」
「人の弱みにつけ込むのは、あんまり関心せんがの」
「んなのはどうでもいいんだよっ!せっかくの機会だったのにいぃっ!!!」
 


 …………。
 顔色一つ変えずに応答するこの義理の叔父に怒りをぶつけるのにも飽きた頃。
 お江は竜太郎の座っていた辺りに一本の扇子が落ちているのを見付けた。京の物だろうか、広げてみると、手書きで秋の七草が書いてある、骨も紙もかなり上等の扇子だ。
「これって……やっぱり竜さんが落としてったもんよねぇ、きっと」
 しばらくいじっていたが、何を思ったか懐にしまい込んだ。
「小父さぁん。この扇子あたしがネコババしたって竜さんには内緒にしといてねぇ?」
「おう。その代わり、儂らがお滝さん達を奉行所に送らず逃がしてやったことも秘密にの」
 早速絵筆を取り出しながら、老人は顔も上げずにそれに応える。
 
 
 
 望むところだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


〈完〉




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はい、相変わらず進歩がないですねー(死)。
創作部屋最初のブツは、高2の部誌に発表したオリジナル短編ちょっぴり改訂版です。
突っ込まれる前に自分で言っちゃいますが、どう考えても「異花」に似ているんですが、シチュエーション……(汗)。ついでに「雨宵」にも似ている気がする。
ほら、悪人が裁かれない辺り(苦笑)。

そして心残り。
一回も刀抜かないまま話が終わるチャンバラ物ってアリかいっっ!!?
それは既にチャンバラでなく、ただの人情物だ……。
これでは何の為にりょうさんを剣豪との設定にしたのやら解りません。
その上最初に書いた時から発表のアテもないのにシリーズ化を目論んでいたので、色々と匂わすような表現が多いです、不親切。

折角なので、封神以上に更新遅いでしょうが、続きなどもここで発表したいなー…などとも思ったりするのでした。
ダメ?(笑)

そして。登場人物少ないですけど、人物一覧なども作った方がいいですか?
っていうか、読んで下さる方がいるのでしょうか……。