今日の体育はバスケだった。授業時間の終わった放課後、広い体育館には数人の女子だけが残っている。
「ったく、ダメツナの所為で負けちゃったじゃない!」
「そーそー、どうしてくれんのよ」
「うぅ……」
授業中同じチームだった女子達に隅へと追い詰められ、壁に手を突いた沢田ツナは竦然と彼女達を見返した。並盛中学一年、クラスの女子の中でも小柄な彼女は通称をダメツナという。
「あんたなんかチームに入れてやるんじゃなかった、折角親切にしてやったのに足引っ張るだけで何の役にも立たないし」
「しょーがないじゃん、運動も勉強も出来ないダメツナだしねぇ」
嘲りと苛立ちの顕わな眼差しも嫌だが、まず何よりも彼女達の攻撃的な語調の強さに、ツナは無条件で萎縮し恐怖した。
ツナを同じチームに入れたのは別に親切でも何でもなく、人数の都合で仕方なかっただけのことである。自由に組分けを決める時、必ず一人だけ爪弾きにされるのがツナの常だった。最終的に規定の人数が集まらなかったチームに厄介者として引き取られる。目の前で“ツナ以外の”最後の一人が奪い合いになる推移を黙って眺め、負けた側が憤懣で顔を顰めつつ「ほら沢田」と召使でも呼び付けるような調子で手招きするのに頷く。今日もそうだった。
「……………」
「何よその生意気な目」
「まさかあんた反省してないワケ?」
「ったく冗談じゃないっつーの。ダメツナの所為で負けたんだから、勿論掃除はあんた一人でしてよね」
「あたし達は放課後も忙しいの!」
フラストレーションの発散を兼ねて口々に罵声を浴びせ、次々にモップをツナに押しつけた彼女達は本当に帰ってしまった。これもよくあることだ。
今日も何も言い返せなかった。試合中もチームの連中はツナを戦力に数えず一度もボールを回さなかったが、実質的な人数の少なさが不利に働いて負けたのも事実なのだ。ツナも自分なりに敵チームのパスを妨害しようとコートの中を走り回っていたが大して役にも立っておらず、彼女達がツナさえいなければと思う気持ちも理解出来る。
どうせ負けたチームが担当する掃除は、いつも俺一人でやることになってるんだ。皆も最初から嫌がらないで、掃除要員としてでもチームに招いてくれたらいいのに……。あまりの思考の卑屈さに、ツナは我ながらうんざりする。
取り敢えず余分のモップはその場に置いて、ごく適当に拭き掃除を始めることにした。丁寧にやっていたら、下校時刻までに帰れるとは思えない。
ツナがクラスでこんな扱いを受けるのは体育に限らない。運動音痴、頭も悪く何の取り柄もない、性格も暗い方だ。友達の一人もいない。積極的に苛められてはいないが、中学に入学して二ヶ月経っても、明らかに一人クラスに溶け込めていない自分を感じる。男子に髪を引っ張られたりスカートを捲られたりして泣かされていた小学生時代が懐かしくなってくる程だ。
気鬱にならない訳ではないが、登校拒否になるまでには至っていない。
「……でさ、」
覚えのある声が体育館の外から聞こえて、思わずツナはモップを動かす手を止めた。
必要もないのに息を潜めて、開いた窓からこっそり外を覗く。案の定、同級生で野球部所属の山本武が体育館に面した小道を歩いている。部の友人と二人で、体育館脇の水飲み場に向かっているらしい。談笑する山本の笑顔は底抜けに明るく精悍で、盗み見ながらツナは胸がどきどき高鳴るのを感じた。
「やっぱり山本君、かっこいいなぁ……」
山本武はツナの憧れの人である。
一年きってのホープと言われる野球の腕前に加え、人懐こくさっぱりした気性で男女問わず人気が高い。同じクラスに居てもダメツナとは住む世界が違う、正にスーパーヒーローのような存在なのだ。
確か男子はサッカーだったんだよなぁ。山本君大活躍したんだろうなー…。
並中では体育の授業は男女別々に行われるが、せめてグラウンドでの授業なら、遠くから山本の雄姿を見れただろうに。
あまりにも世界が違いすぎる故に、ツナは遠くからその姿を眺めたり、教室で居眠りしている背中を見詰めているだけで充分満足しているのだった。芸能人に憧れる感覚に近い。テレビ画面のアイドルがお茶の間に笑顔を齎らすように、山本の姿はツナにささやかな幸せや勇気をくれるのだ。
「あ、山本君!」
知らず弛んでいたツナの表情は、その瞬間無意識に強張った。
「よーっす、笹川」
声を掛けてきた女生徒に、山本はにこにこと愛想良く手を挙げ挨拶している。
「ひゅーひゅー熱いねぇ。じゃあ俺は先行ってるからごゆっくり……」
「お、おい。そんなんじゃねーって」
狼狽える山本を置いて友人は水飲み場の方へ走っていく。頭を掻きつつそれを見送った山本は、改めて笹川京子に視線を遣った。
ツナはそれ以上見ていられずに、窓から遠ざかった。こんな敷地の端で、わざわざ待ち合わせていたのだろうか……。
「やっぱり付き合ってたんだ、あの二人……」
他人の秘密を不躾に覗いてしまったような罪悪感と、それ以上のモヤモヤした感情に耐えきれず、その場にしゃがみ込む。
笹川京子もツナや山本の同級生だ。クラスの女子、いや並中で一番可愛い女の子ではないかと言われているし、ツナもそう思う。何よりツナを嘲るか無視するのが専らの女子達の中で、京子だけが朝の挨拶をしてくれたり、折々に声を掛けたりしてくれる唯一の人である。容姿が優れているだけでなく心根も優しい、とても素敵な女の子なのだ。
山本と並べばとても似合いの一対だ。二人とも幸せになって欲しいと思おうとして……、ツナは自分が嫌になった。京子に嫉妬してしまっている。
遠くから見ているだけでいいと近付く努力もせず、なのにその恋人を妬ましがるだなんて。図々しいにも程がある。
「あー……もう、最悪」
呟いて、ツナは自棄のように立ち上がった。さっさと掃除を済ませて帰ろう。
これ以上二人の姿を覗き見る勇気は持てなかった。
憂欝な気分を引き摺って帰宅したツナを、対極の表情で母親の奈々は出迎えた。
「なに、母さん」
父親不在の二人暮しだということもあって、比較的母親とは仲の良いツナであるが、落ち込んでいる最中にまで相手をしたくない。何故か自室までついてきた奈々を、制服のブレザーを脱ぎつつ渋面で睨む。
言外に出ていけという念を込めているにも関わらず、視線の合った奈々は逆にずかずかと、着替え中のツナの傍まで近寄ってきた。
「ツッ君。ほら見て見て、今日から家庭教師の先生に来てもらうことになったのよ〜!!」
「はぁ!?」
上機嫌の奈々に手渡されたのは一枚のチラシで、『お子様を次世代のニューリーダーに育てます』などという胡散臭さ極まりない文言が並んでいる。
「電話したら、早速来てくださることになったのよ。住み込み契約で、衣食住の面倒さえ見れば授業料はタダなんですって!」
「怪しすぎるよそれ!大体何で俺に相談しないで勝手に決めちゃうんだよ!?」
「だってツッ君、こないだの中間テスト散々だったでしょ?母さん成績は気にしないけど、ツッ君が追試で泣いてるのが可哀想で」
「あ、あれは………」
追試自体でなく、一人だけ教師に散々な点数を読み上げられ、クラス中の笑い者になったことを思い出して泣いていたのだが、そんな情けないことを母親に言える訳がない。母の気遣いに感謝しつつも弁明を試みようとしたツナは、
「それに『当方若くてイケメン』って書いてるでしょ!イケメンよイケメン、うふふ!」
「…かーさん………」
こっちが本音か!すぐさま落胆した。ツナもあまり人のことは言えないが、奈々はかなりの面食いなのだ。それで何故あの父親と結婚したのか不明だが、彼女に言わせれば夫が世界一の男前ということになっているらしい。
「とにかく、俺は家庭教師なんか要らないの!その人が来たら帰ってもらって!!」
「ちゃおっス。3時間ばかり早く来ちまったが特別にみてやるぞ」
母と自分しかいない室内で、第三者の声が割って入った。途端異様な気配を感じたツナは、自分でも理解出来ない衝動で、己の足元へと顔を向けた。
「ふん、殺気は感じ取れるのか。見た目ほど鈍かねえみてーだな」
「なっ……赤ん坊!?」
いつの間にか、そこに立っているのは赤ん坊だった。真上から見た最初は、大人用の帽子が置いてあるのかと錯覚しそうになったが。それを察したか、帽子を被った赤ん坊はひょいと驚異的な跳躍力でツナのベッドの上に飛び乗る。ツナの方からも一歩離れて、そうしてようやく赤ん坊の全貌が掴めるようになった。
赤ん坊だ。サイズ的にも、ふくふくした柔らかそうな頬も、赤ん坊以外の何物でもない。しかし何故か黒色のスーツをかっちりと着熟し深紅のシャツと合わせ、おまけにネクタイまで締めている。黒い帽子と相まって、映画に出てくるピカレスクめいた格好だ。帽子の鍔の上には、これまた何故か緑色の爬虫類が乗っていて、ギョロギョロと大きな目玉を動かしている。
とにかく異様だ。異様すぎる。
「お前、何者?」
赤ん坊は微笑みを浮かべた。いや最初からずっとこの表情だったような気もするが。
「俺の名はリボーン。今日からお前の家庭教師だ」
……………………………。
「は?」
混乱しつつもタダの赤ん坊ではないとは感じていたが(大体この年頃の赤ん坊がこんなに流暢に喋れるものか!)、しかしツナには一瞬赤ん坊が何を言っているのか理解出来なかった。思わず奈々を仰ぎ見れば、彼女も唖然と赤ん坊――リボーンを凝視している。た、確かに若い。イケメンかどうかは判断が難しい所だが。
「……じゃなくって!」
逸れかけた思考を元に戻して、ツナは赤ん坊を睨み付けた。
「冗談じゃないよ、赤ん坊に教わることなんか何もないね!そもそも俺は家庭教師なんか……」
「うっせー。ガタガタ抜かすな」
「ふぎゃん!?」
食ってかかろうとしたツナは、逆に赤ん坊からの強烈な跳び蹴りを食らった。過たず鳩尾に革靴の踵がヒットして、そういや土足で俺のベッドに上ってたのかよ!と口にする余裕もなく、痛みに呻きつつ床の上に転がった。すかさずその腹の上に着地して、偉そうに仁王立ちするリボーン。
「……ん?テメエ女か」
「制服のスカート見たら判るだろーー!!」
「女装趣味の変態かと思ってな。はっ、洗濯板でも一応ブラジャーはしてんのか」
「ぎゃ!ぎっ、ぎゃあーーー!!」
あろうことか、はだけたブラウスの隙間から革靴の先を突っ込まれ、スポーツブラのアンダーを押し上げられる。混乱と羞恥と怒りと鳩尾の痛さで、ツナは視界がぐるぐるする。脳の容量オーバーだ。
「ジャッポーネでは『俺』は男の一人称だろ?」
「どうせ俺女だよ悪かったな!なんか小さい頃は外国に住んでたらしくて、父さんしか日本語教えてくれる人いなかったんだよ!!」
「……ふん」
「ちょっ、足退けろよ変態!へんたいっっ!!」
「赤ん坊相手に自意識過剰な女だな。テメエみてーなちんくしゃ、頼まれたって手ェ出さねーよ」
「それが赤ん坊の言う台詞かぁぁぁぁぁ!!!」
名前に相応しく一本釣りされた直後のマグロのように、ツナがびたんばたんと暴れて赤ん坊を振り落とそうとしても、どういう訳かリボーンはバランスも崩さず上に乗っかったままでいる。実力行使と腕を振り上げれば、素早い動作で手首を捻り上げられる。
「授業内容に礼儀作法も追加しねーとな。これから宜しく頼むぞ、ママン」
「あらあら、ツナがこんなに大声を出して楽しそうにしてるの久しぶりに見ちゃった。こちらこそツナを宜しくね、リボーン君?」
「ちょ、母さんマジで!?」
何処をどう見ればそんな解釈になるのか、如何にも微笑ましそうに二人の様子を見守っていた奈々は「お夕飯の支度をしなきゃ」などと、そのまま機嫌良く階段を降りていってしまった。いつの間にかこの胡散臭い赤ん坊を家庭教師として雇うことが既定の事実になってしまっている。
……冗談じゃない!!