荒んだ気配を撒き散らす、廃墟の一室である。
「ランチアの靴に画鋲を仕込んでおきなさい、千種」
ちらりと蠱惑的な流し目を脇に控える少年へと寄越し、つやつやと光る爪にふぅっと息を吹き掛ける。所々割れたガラス窓から差し込む秋の陽光が、複雑な装飾のように頬の白さを浮き上がらせている。
中身の所々はみ出た古いソファにしどけなく身を凭せた少女は、雨に濡れる毒花の如き華やかさといい、高慢で冷ややかなな眼差しといい、クローム髑髏というよりもM.M.に近い雰囲気を纏っていた。無論、カノジョはそのどちらでもないが。
「……恐れながら、骸様」
クローム髑髏の身を借りた主へと、無表情の裡では薄氷を踏むが如き緊張を隠した柿本千種が問い掛けた。
「あの男は確か今、イタリアにいる筈では?」
もしやイタリアに渡りランチアの居所を突き止め、その靴に画鋲を入れてこいという命令なのだろうか。その程度には理不尽でくだらない命令を平然と下しかねない主であるから、千種は確認の必要を感じる。
「いいえ、あの男は日本に来ています」
きっぱりと断言した骸は最前までの優雅さをかなぐり捨て、勢い良く背凭れから身を起こした。
「あっ…あまつさえ!沢田綱吉の家に世話になっているのですよ忌々しい!!」
「はぁ……」
美少女(モドキ)の白い頬が次第に紅潮していくのを千種は無感動に眺め、細心の注意にも関わらず自分の言葉が主の地雷を踏んでしまったことを悟った。めんどい。
「あの凶悪顔の中年、自分の境遇を逆手に取って沢田綱吉の同情を引いているのですよ!?下劣で卑しい、まったくマフィアらしいやり口です!!」
ランチアは確かまだ二十代半ばである。だが余計なツッコミばかり口にしては主の怒りを始終買っている犬と違い、千種はランチアを同情に足る境遇へ追い込んだ犯人であるところの骸に対して無言を貫いた。今までの経験上、ここで何を言っても主の八つ当たりの標的にされる可能性が高い。
「あの甘い甘い沢田綱吉なら、取り入るのはさぞ簡単だったことでしょうね」
「………」
その警戒心の薄いボンゴレ十代目に未だ遠巻きにされている主である。しかし千種は黙っておいた。
「この僕が仮に?不本意ながらも建前上は守護者になってやっている――沢田綱吉が僕を頼りに思っていることを承知しているものだから、恨みは忘れたなどと心にもないことを言って彼の歓心を買っているに違いありません」
「……………」
守護者になって以来、ボンゴレが主を頼りにした事実は一度たりともない。好意を持たれている事実は更にない。しかし千種は黙っておいた。
「思えば昔からあの男はそういった偽善者でした。いかにも子供好きを装って、自らの薄汚れた生業を糊塗していた……僕はその血に塗れた本性を暴いてやったに過ぎません。沢田綱吉は騙されているのです!!」
「……………………」
千種は黙っておいた。めんどい。
「ちょっと、聞いていますか千種!?」
「……………はい、骸様」
聞き流していたことが露見しても殴られる。因果な主である。
「もう判ったでしょう。今からお前のすることは?」
「……ボンゴレの自宅へ向かいます」
暴力衝動を隠さない獰猛な眼光に恐れをなした訳ではないが、千種はすぐに踵を返した。ここで骸の愚痴とも呪咀ともつかない繰り言を聞いているよりも、さっさと画鋲でもなんでも仕込んできた方が手っ取り早く面倒が少ない。
「不慮の事態でうっかり死なせたとしても構いませんからね」
千種が素直に従ったことで機嫌を直したのか、背中にかけられた骸の声は今し方の興奮を若干収めていた。画鋲を踏むことで何をどうすれば命に関わる事態になるのか想像も付かなかったが(ヘッジホッグの毒を先端に塗り付けておけば良いのだろうか?)、千種はその命令を聞かなかったことにした。ランチアを死なせてボンゴレに恨まれるのは千種よりも命じた骸の方で、そうなった時の修羅場を思うとめんどい予感しか湧かないからである。
「骸様……大丈夫、ボスは骸様のこと大好きですから」
同じ声だが、淡々とした中に儚げな響きを滲ませるこの声色は主を慰めるクローム髑髏のものだろう。
ありもしない事実で調子に乗られてもめんどい。余計な期待を持たせないで欲しかったが、部屋に戻るのも面倒だったので千種は黙殺した。
 
 
 
さて沢田家である。
小さいが手入れの行き届いた牧歌的な一軒家は、なんと門扉どころか玄関扉にまで鍵が掛かっていなかった。平和ボケした日本にあっても、無用心が過ぎるのではないだろうか。
易々と侵入を果たした千種は、気配を消しつつ玄関先に並べられた靴に目を走らせる。日本の家屋では概ね、室内に入る前に下足する習慣がある。ランチアがこの家にいるのであれば、必ず靴が置いてある筈だ。
「あらぁ〜〜」
ぎょっとした千種が顔を上げれば、上がりかまちを一段上ったすぐ目の前で、一人の女がまじまじと自分を見つめていた。沢田綱吉に面差しがよく似ている。
声を聞くまで察知出来なかったとは、自分らしからぬ失態だ。千種は無意識にポケットの中のヨーヨーに手を伸ばした。
不都合な目撃者は壊すのが今までの流儀であるが、明らかに沢田綱吉の身内である女に害を及ぼせばボンゴレを敵に回すことになる。逡巡する千種を余所に、女は首を傾げ……何かを得心した表情を浮かべた。
「ツナのお友達ね?」
「……………」
無断で玄関の内側にまで入り込んでいた、息子とは異なる制服の少年を全く不審に思っていないらしい。千種は預かり知らぬことだったが、息子や家庭教師の友人知人が家人の了承を得ず好き勝手に出入りするのは沢田家の日常である。
「……はぁ、まあ」
沢田綱吉と友人関係を結んだ覚えはないが、否定した方が面倒なことになると判断した千種は、女の勘違いに便乗することにした。
「どうぞ上がってやって〜〜!ツナは二階にいると思うわぁ」
「……………」
仕方なく、千種はスニーカーを脱ぐ。見れば女は手に財布を持っている。今この場さえ誤魔化せれば、女はすぐにでも買い物に出かけるだろう。他の人間に見つかる前にミッションを遂行することは充分に可能だ。
そんな千種の計算は、
「ママン、私も一緒に……あら」
再度の変更を余儀なくされた。
「ビアンキちゃん?」
あからさまに顔を強張らせた、毒サソリの二つ名を持つ殺し屋の変化を不審がり、沢田綱吉の母親らしい女は目を丸くする。
「……やっぱり留守番してるわ。いってらっしゃい、ママン」
口調は柔らかいが、千種に向ける眼光は鋭い。現在は奇妙な共闘関係にあるとはいえ、千種は彼女の弟と戦い、命の危機に陥れたこともある。過去の行きがかりを思えば、こちらの反応の方が当然だろう。
「ええ、よろしくね。ツナのお友達もゆっくりしていってね〜〜」
少女のような仕草で手を振りながら沢田綱吉の母親は出ていき(外見も若く見えるが、本当に母親なのだろうか?)、残された千種と毒サソリの間には暫し、気詰まりな沈黙が流れた。
「私がツナの部屋まで案内するわ、“お友達”?」
組んでいた腕をゆっくりと外し、千種から目を離さないままビアンキが階段を指し示した。明らかに見張る気満々である。
「…………めんどい」
思わぬ成り行きに、千種は眼鏡のフレームを押し上げた。
 
 
 
 
 
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