さて、舞台は引き続き沢田家である。
窮地に立つ千種と時を同じくして、階上ではターゲットであるランチアも別種の危機に瀕していた。
「今日のお昼ご飯は俺が作ったんですよ!」
頬を紅潮させこちらを見上げる沢田綱吉の双眸は、愛されて育った子供だけが持ち得る真っ直ぐな信頼に充ちていた。一度は世界に絶望したランチアにとっては、奇跡のようにも思える純真さであり、無垢である。
「といっても簡単なものしか作れなくて、おにぎりと卵焼きだけなんですけど……」
しかし純真さ故の凶器というものが存在するのだということを、今のランチアは深く思い知らされていた。
「あ、ああ。すまんな……」
視線が泳いでいる。口にした感謝も本心であるが、その所為でいよいよ自らを苦境に追い込んでいる。誰よりも不幸が似合う男、ランチア。
「ランボさん、おかかが食べたいんだもんね!」
「梅干し入りのだけだって、さっきも言っただろー」
……それが問題なのだ。図らずも己の代弁者となってくれた幼児へと、ランチアは共感の眼差しを送った。が、勿論のことランチアの心はランボへは届かず、ツナのけちんぼ、ボケーなどと口汚く騒ぎつつ綱吉に纏わりついている。
 
現在のランチアを苦しめているもの――梅干し。
 
初めてソレを口にしたのも沢田家であった。復讐者の牢から釈放され、虫の知らせのようなものに衝き動かされて向かった日本。
リング争奪戦が恩ある沢田綱吉の勝利に終わった後、意識を失った少年をアルコバレーノに指示されるまま背負って帰ったランチアは、成り行きのまま彼の家に寄宿することになった。
面識のない怪しい風体の男を、病院から一時帰宅していた沢田綱吉の母は温かく迎え入れてくれ、久方ぶりに感じる人の情にランチアの目頭は熱くなった。
……そこで終われば単なる良い話であったものが、思わぬ落とし穴が翌日の正午過ぎに待ち構えていた次第である。
「午後から竹寿司さんでランボ君の退院祝いをするのよ〜!お腹を空かせて行かなくっちゃ」
一家を預かる奈々が昼食にと出したのは、海苔を巻いたライスボールだったのである。初めて食べる日本料理に興味もあり、また同じように沢田家に身を寄せているバジルが実に美味しそうに食しているのを見たランチアは、何の心構えもしていなかった。
米特有の、独特のもっちりとした食感、これは良かった。しかし中にこっそりと仕込まれていた赤い悪魔!!
salato、acetoso、いや、イタリア語の語彙でこれは言い表わせられない。刺激があって、しかし単なる辛さでもない。口の中に広がった未知の味に、ランチアは激しく咳き込んだ。
「あらあら大丈夫、お水飲む?」
奈々に手渡されたグラスの水を使って種ごと赤い悪魔を流し入れ、ランチアはようやく人心地付く。見れば対面のバジルはにこにこと満面の笑みでライスボールを頬張り「やっぱり奥方様の作るおにぎりは最高です!」と絶賛モードである。

こいつ、化け物か……!?ランチアは戦慄した。今朝から遊び相手になってやっている居候のフゥ太やイーピン、退院したばかりのランボまでもが美味しそうにおにぎりを咀嚼していて、ランチアは自分こそが異分子であることを悟らざるを得なかった。
 
――などと回想に浸っている場合ではない。危機は今ここにこそ存在する。
「……ランチアさん?」
背の低いテーブル前に座したまま微動だにしないランチアに流石に不審を抱き、沢田綱吉は困った風に眉を顰めた。その手には、少々不恰好な三角形をしたライスボールの載せられた皿がある。床に膝を付き、取りやすいよう皿ごとランチアの手元まで差し出したは良いが、肝心のランチアが何の反応も示さないので一旦テーブル上に置いてしまおうか迷っているようである。
「ごめんなさい、やっぱり母さんに作ってもらった方が良かったですね……」
「いや、違う」
沢田綱吉に責はない。誰が作っても食べられないのは同じである。段々と意気消沈していく沢田綱吉を前に、シャツの背中が冷や汗でじっとりと湿っていく。
そもそも良い歳をした大人が子供のような好き嫌いをしていいと思っているのか。ここは無理にでも美味そうに食べるのが真の男じゃないのか!?
無表情の裡でランチアは激しく葛藤する。彼を苦しめている綱吉当人は知らないが、ランチアのその様は懐かしき日常編、第9話でポイズンクッキングとすり替えられたおにぎりを笹川京子の為に食するかどうか迷いに迷った綱吉自身の姿によく似ていた。
いっそ第9話のように毒料理とすり替えられている方が、食べない明らかな理由になるのだが……。追い詰められたランチアの思考がメタ的な領域に迷い込みつつあるそのタイミングで、繰り返す歴史のように第9話の立役者が姿を現した。
「ツナ、“お友達”が来てるわよ」
……予想外のオプションを伴っているが。
 
 
 
毒サソリに招かれるまま階段を上がってすぐの一室に入れば、
「ひえっ!」
素っ頓狂な悲鳴がすぐさま寄越された。
かつての因縁が因縁である。そのこと自体はどうとも思わなかった千種であるが、
「む、骸は!?まさかあいつも来てんの!?」
がちゃがちゃと皿をテーブルにぶつけながら必死に周囲を伺う沢田綱吉を見ていると、少々遣る瀬ない気分が込み上げてきた。骸様、思いっきり煙たがられてます……。
アジトで千種の帰りを待って……いるかどうかは微妙なところだが、その主へと心中で語り掛ける千種である。実際に報告するつもりはないが。めんどいから。
「骸……!?」
その名前に過剰反応した人間が、室内にはもう一人いた。
「あいつ男のくせにおかっぱ頭ー!変なぼうし変なぼうしー」
「こ、こらランボ!」
沢田綱吉はますます顔色を紙のように白くするが、この手の暴言は犬の日頃の言動で慣れている。
手に持っていた皿を取り落とさん勢いでテーブルに置き、沢田綱吉は牛柄の幼児を捕まえ口を塞ごうとする。
「駄目だろ怒らせるようなこと言ったら!怖いじゃんか……!!」
幼児を羽交い締めにする少年の心配は杞憂というもので、しかも骸を倒せるだけの実力を持っていながら何故千種を怖がる必要があるのか解らない。この理解しがたい部分こそを主は気に入っているのだろうが。
「……骸様はいらしてない。今日は俺一人」
怯える姿が余りにも哀れなので、一応フォローの言葉を呟いてみる。効果は覿面で、
「はぁー…なんだぁ……」
途端胸を撫で下ろしている沢田綱吉に少々遣る瀬な……く思うのを繰り返していても仕方がない。千種は素早く思考を切り替える。
「えっと……じゃあ何でうちに?」
骸の不在を知って落ち着いたらしい。ようやく尋ねてくるボンゴレ十代目には答えず、千種はちらりと部屋の奥に眼鏡越しの視線を向けた。同じく安堵しているようだが、千種を見据える表情は未だ硬い。
おそらく沢田綱吉の私室なのだろう、ごちゃごちゃと私物の散乱する狭い部屋。テーブルと窓に挟まれたスペースで、どことはなく窮屈そうに身を縮めているのは、標的であるランチアだ。
 
 
 
 
 
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中途半端なところで以下次号。もう少しだけ続きます。