去年、獄寺隼人の日本で初めて迎えた聖ヴァレンティーノの日は実に惨憺たるものだった。
欝陶しい女子どもの集団に物凄い剣幕で纏わり付かれ追い掛けられ、這々の体で教室に戻れば、彼の全世界にして神なる存在であるボンゴレ十代目は疾うに帰宅した後だったのだ。教室に残っていた連中は純愛の女神がどうとか言っていたが意味が判らない。確かに十代目は俺の女神だけどな!いや、十代目を女と思ってる訳じゃないぜあの方ほど渋カッコイイ人を俺は知らない。悶々と思考の迷路を彷徨いながら、置いてけぼりにされた獄寺は遅れ馳せながらも主の帰宅路を辿った。
彼にとって何重にも不運だったのは、沢田家でチョコを巡る騒動が収束したばかりの、その現場に鉢合わせる形となったことだ。獄寺が沢田家のチャイムを押し、勝手知ったるお宅に入ろうとしたその時、玄関の扉を開けて出迎えたのはよりにもよって悪魔の如き異母姉だった。そして良いところに来たとビアンキは毒入りクラッカーを腹痛で動けない獄寺の口に押し込み、
「獄寺くん!?ちょ、ビアンキ何してんだよ!!」
玄関先の惨事を聞き付けた十代目が割って入って下さらなければマジで死んでいたかもしれない、と獄寺は今でも確信している。
後日聞いたところでは、十代目はその時台所で笹川京子とアホ女を手伝い、ポイズンクラッカーの代わりにチョコフォンデュに浸す為のクッキーを作っている最中だったという。ビアンキに対してはバリエーションが多い方が楽しいから!と言い包めていたとかで、
「もう少し遅く来たならポイズン入りじゃないお菓子食べれたのに……」
切なげに嘆息されてしまった。十代目のお作りになった(笹川・ハルの存在は黙殺)クッキーを食い損ねるだなんて俺の馬鹿!或いはもっと早く、姉が料理中の時なら玄関先に出て来られることもなかっただろうに……つくづくタイミングの悪い男である。
――しかし、そんな苦い過去など、輝かしい未来を前にしては風の前の塵に同じである(←学はあるが微妙に日本語の用法を間違っている獄寺隼人)。頭脳派を自称する獄寺は、今年のバレンタインにおける勝ち組となる為の策を練った。それこそ節分の翌日である立春の日から延々考え続けていた。執念だ。
取り敢えず学校は休もう。登校しても女子を追い払うのに手一杯で十代目とお話するどころではない、ならば行かなくとも同じである。秀才の獄寺にとって学校とは勉学に励む場ではなく、主を不測の事態から守り、ついでに甘酸っぱい青春ライフを送る為の場である(あくまでも主観)。
そして、十代目のご帰宅時間に合わせてお宅にお邪魔する。日本式のバレンタインを知らなかった去年は密かに購入していた花束を渡せぬまま無駄に枯らしてしまったが、今年はちゃんとチョコレートを用意している。冷蔵庫の扉を開け、可愛らしくラッピングされた小さな箱を確認しつつニヤリと悪相で唇を歪める獄寺は、微妙に日本のバレンタイン文化を把握しきれていない。もしかしたら十代目からもチョコを頂けるかも…!凶悪犯じみた面持ちが一転、でろりとだらしなく溶け崩れた獄寺は、繰り返すが日本のバレンタインを正確に理解していない、主に性別に関する部分を。
昨夜、13日の晩に獄寺は十代目のお宅に電話を掛けた。これが面と向かってで、相手が沢田綱吉でなければ、女子にチョコ渡されるのが嫌だから学校休みますなどと口にした男を反射的に殴っているところだろう。実際電話口で聞いた綱吉も内心どよんとした気分に陥ったが、去年の必死に女子から逃げ回る獄寺の姿を思い出し、
「うん、そうした方がいいかもね」
と、極々穏やかに同意した。気分に余裕があったからでもある。
「今年も放課後に京子ちゃんとハルがうちでチョコ作るんだって。獄寺君が来てくれたら喜ぶと思うよ」
「恐縮っス!!」
綱吉が受話器を耳から遠避けるくらいの大声で獄寺は返事した。彼の脳内世界では、獄寺の来訪を喜んでいるのは十代目当人だということになっている。
「実は他の守護者にもリボーンが召集かけたみたいなんだよね。慰安だとか言って、あいつが作る訳じゃないのに図々しいよなあ」
「はあ……」
綱吉どころか頭脳派を自称する獄寺も、それなら何故自分の元へリボーンから連絡が来ていないのか疑問に思わなかった。つまりは、放っておいても獄寺なら勝手に押し掛けるだろうと把握されている。或いは来なくとも構わないと思われているのだが、幸いなことに二人は全然気付かなかった。世の中には知らなくて良いことが多々存在する。
電話を切る直前十代目の口にされた、それじゃあね、おやすみ……を昨夜から脳内でエンドレス再生し続けながら、獄寺はウキウキと全身鏡で己の姿をチェックした。我ながら完璧に決まってるぜ。獄寺は至極満足した。この辺りの心理状態は世の男性諸氏と余り変わらない。ちょっと興奮しすぎて昨夜はなかなか寝付けないというアクシデントにも見舞われたが、学校を休んで昼過ぎまで寝ていたので顔つきもすっきりしている。
「うおっしゃー!!頑張るぞ!!!!」
鏡の前で雄叫びを上げる獄寺。出がけに冷蔵庫からデニムのポケットへと包みを移動させることは忘れない。折角のチョコレートを溶かさんばかりの無駄に熱いテンションでもって、彼の人生二度目の日本式バレンタインデーは幕を開けた。