今年の獄寺隼人のバレンタインデーも、去年に負けず劣らず実に惨憺たるものだった。
唯一得たものといえば、雲雀との共闘は無理だという実感くらいであろうか。山本は事あるごとに癪に触る陰険野郎だが、あれよりは遥かにマシだ。本来なら死んでも認めたくないことではあるが、共通の敵を前にして、恐ろしくぴたりと息の合うことが偶にある。
雲雀はちょこまかと好き勝手に動き回り、ダイナマイトの軌道に立ち塞がった挙句にトンファーでこちらへ打ち返してくる。せめて避けろ。邪魔すんじゃねえ。あれでは中距離支援も形無しである。
そもそも雲雀には共闘する気が皆無なのだろう。恐らく奴にとっては自分以外の全てが敵に分類されている。會ての獄寺も同じように思っていたから、それは理解出来なくもない。しかし獄寺の人生は類い稀な主と出会ったことで一変したのだ。今の獄寺は沢田綱吉が懐に収めた者を味方とし、沢田綱吉の行く手を阻む者を敵とする。
六道骸は基本的には十代目の味方であるべき守護者の一員だが、あの御方に危害を及ぼすならその限りではない、と獄寺は判断する。
いや、……いくら自己弁護を図ろうとも、要は私怨だ。認めたくないが自覚はある。骸に怒り雲雀に怒り、うっかり理性を手放していたのがその証拠である。その所為で現在の獄寺は後悔の直中。
ふと我に返れば、沢田家が半ば倒壊していた。確実に獄寺のダイナマイトが原因である。骸の奴が避けて、雲雀の野郎が見当違いの方向に弾き飛ばしたのであっても、屋内でダイナマイトに点火したのは獄寺の仕業。
しかも、気が付けば骸は途中で飽きたのか髑髏とかいう女に体を明け渡した後で、あの女もちゃっかり幻術なんか使いやがって……!何時の間にやら、何故か獄寺と雲雀が一対一で戦うという理不尽な状況になっていた。
ノーモア私怨。私怨は碌な結果を招かない。遅れ馳せながら、今年の目標はそれにしようと決意した獄寺である。
――まさか、俺の所為で十代目にこんなご迷惑が掛かってしまうなんて!!
散々な一日の中でも、実のところ今現在の状況が最大の痛恨事だ。蒼白な主の顔色を横目で伺い、獄寺は深く心を痛めた。
沢田綱吉のバレンタインが惨憺たるものであったかについては、意見の分かれるところであろう。問題児に囲まれ神経を磨り減らしたが、好きな女の子からは手作りチョコレートを貰い、途中までは確かに幸せなバレンタインデーであった。問題児を抑え切れず戦闘が勃発してしまったが、こんな場合、巻き込まれて一番の大怪我を負うのが綱吉の常であったから、上手く逃げられた今日は運が良い方である。
……今の瞬間までは。
「おいツナ、どーいうことだテメエ?」
り、リボーン先生、何か嬉しそうなんですが……。
ビアンキのポイズンチョコをどうやって固辞したのか想像も付かないが、頻る健康体で帰宅した家庭教師は半ば倒壊した沢田家に迎えられた。外壁にまで大穴が空き、柱は折れおまけにぶすぶすと煙を上げている家屋を目にして、リボーンがまず最初にやったことは教え子の頭を殴り付けることである。
ちなみに、夕食の材料を買いに出掛けていた奈々はこの惨状を見て、開口一番
「あらあら、男の子は元気ねー」
と宣った。肝が太いというか、何かが突き抜けている。
彼らが帰った時には、幸いにも戦闘は終息していた。全員が庭に出てきていて、既に(勝手に)帰ってしまったクロームを除く皆が、綱吉が家庭教師に凄まれる様を静かに見守っている。
「リボーン……これには深い訳が……」
「ああ?」
「ヒッ!」
迫り来る体罰の気配に綱吉は怯えまくる。しかしリボーンの外見の所為か少女達にはこれが可愛いじゃれ合いと受け取られているようであるし、リボーンの実力を知る他の面々も手出しはせずに静観の構えだ。
「俺が悪いんですリボーンさん!骸の所為で頭に血が上っちまったから……」
綱吉の味方は獄寺一人だけである。腰を抜かしてへたり込む綱吉の傍らで同じように膝を付き、主を庇うように身を乗り出している。言っている内容は間違ってもいないので、綱吉は家庭教師の温情を願って言うがままにさせている。
「ふん、獄寺の態度は合格だぞ。ちょっと前のテメエなら骸と雲雀に泥おっ被せて、自分は悪くねえと主張しただろーからな」
唇は嘲笑めいて歪められているが、眉を割合大袈裟に上げてこれはリボーン一流の感嘆の表情である。そのままちらりと流し目を送れば、雲雀は拗ねた子供の仕草で外方を向いた。
「それに引き替え、情けねーと思わねえのかツナ」
今は雲雀を追求する気はないようで、リボーンは再び綱吉に視線を戻す。その黒く大きな瞳には怒りや呆れではなく、獲物をいたぶる残忍な喜びが満ちている。
「部下の不始末はボスの不始末だぞ。部下が暴走するのを抑える義務と責任がお前にはあるんだ。それをせずテメエだけ逃げ出したお前は何だ?人間のクズか」
正論であるから綱吉は押し黙るしかない。しかし最初からこの展開読んでただろお前!無言で睨み付ければ、ご名答とでも言いたげに大きな眼が細められる。そして黒スーツに包まれた赤子の足が、綱吉の顎を思い切り蹴り上げた。
「あだっ!」
「十代めぇぇ!!」
勢い良く引っ繰り返った綱吉は地面に後頭部をぶつけてしまう。二次災害だ。涙目で転がる綱吉を、当人以上に悲愴な顔付きの獄寺が助け起こす。
「……ちょっと。いくら赤ん坊でも、僕の前で沢田に過度の暴力は振るわないでくれる?」
「雲雀!元はと言えばテメエも……」
「あれはパイナップル男が全部悪いんだよ」
リボーンの前に一歩足を踏み出し、雲雀が堂々と嘯いた。獄寺は賛同したくて出来ないような、微妙な表情で沈黙する。
「今日のこれは僕の借りにしてあげても良いよ。その代わりこの件でこの子に暴力は振るわない。どう?取り引き」
「雲雀さん……」
綱吉はじぃんときた。あの雲雀が限定的ながらも非を認め、しかも自分を庇ってくれているのだ。あの守護者の自覚も皆無っぽい雲雀さんが!
いかにもな強面の不良が捨て猫を拾ったりお婆さんの荷物を持ってあげたりしていると、意外性の所為で必要以上に善人に見えてくる法則である。この場合の捨て猫、老婆であるところの綱吉も例に漏れず、大いに雲雀への評価を高めた。恒常的に自分を庇い続けている獄寺の言に対するよりも感動しているぐらいである。潤んだ瞳(顎と後頭部の痛みの所為)で熱く見詰められ、雲雀は万更でもなさそうに鼻を鳴らす。
「俺からも頼むぜ、ツナに避難するよう言ったのは俺だしな」
「武兄なんで嘘……別にいいけど……」
「判った。取引に応じようじゃねーか」
「リボーン!!」
目を丸くする綱吉に、リボーンはにっと笑いかけた。
「今日のところは守護者連中の顔を立ててやる。体罰は無しにしてやるぞ」
「ははっ、サンキューな」
「テメエ最後にしゃしゃり出て手柄顔すんじゃねー!!」
獄寺が絶叫した。リボーンが山本の才能や人柄に一目置いていることは綱吉も知っているが、その山本に突っ掛かるのを優先するあまり、リボーンへの謝辞を忘れている獄寺の評価が低いこともよく知っている。それにしても助かったことは事実なので、綱吉はリボーン当人と守護者達一人一人に礼を述べた。安堵したボスの顔を見て、彼らも各々らしい表情で口元を弛めた。
「……って、ぬか喜びかよ!この嘘吐きっ!!」
「俺は体罰を加えないと言ったが、罰自体を与えないとは一言も口にしてねーぞ」
澄ました顔で、極サド家庭教師は詭弁を弄した。結局本日中の修復は無理ということで、沢田家の面々は最低一夜、駅前のホテル住まいを余儀なくされた。綱吉を除いて。
最初からこのつもりだっただろお前!?内心綱吉が、いや内心だけでなく口に出して絶叫するのを、この上ない喜びとしてリボーンは受け取った。何言ってやがる、それなりのリスクがあってこそ死ぬ気で指導能力に磨きを掛けられるってもんだぞ。というのは口実で、活きの良い餌食…いや生徒を苦しめるのが楽しくて仕方ない本音が透けて見えている。
「いま何月だと思ってるんだ!2月だぞ!一晩野宿なんて下手したら凍死するよ!?」
「チッ、軟弱な都会っ子が。運が良けりゃ生き延びるだろ」
「運が悪いと死んじゃうのーー!?」
今死ぬ気弾を撃たれれば、綱吉は死ぬ気でこの場から逃げ出しただろう。しかし悪魔のような家庭教師は必ず追ってくる。5分……修業の成果で10分は保つかもしれないが、特殊弾の効果が切れた後は下着一枚のまま寒空の下に放り出される。そうしたらこいつのことだ、首輪に鎖でも付けて、犬のように杭に繋ぐくらいのことはやりかねない。綱吉は心底ゾッとした。そんな死に方だけは勘弁したい。
綱吉の思考を読んだリボーンは
「素っ裸に首輪もテメエなら似合うんじゃねーか?」
きっと可愛いぜ?なあダメツナ。嗜虐心たっぷりに囁いて綱吉の心肝を寒からしめた。
幸いに、と言うべきか。綱吉の怯えた顔を散々楽しんだリボーンはその恐ろしい計画を実行することなく、綱吉は手足の自由は確保されたままで、しかし一人自宅に放置された。急遽外食に変更された夕飯からもハブられた。
門から一歩出れば、鬼教師の仕掛けた罠が作動して今度こそ綱吉は爆散する。本当にあれは赤子の皮を被った鬼だ。
凍死も爆死もしたくない綱吉は、さてどうしたものかと寝床の算段に入ることにした。家庭教師のシゴキの積み重ねで、かなり精神的にしぶとくなっている。
二階には比較的破壊の手が及んでいないが、階段近くは瓦礫に埋まっており、外壁を登って自室に入れたとしても何時床が崩落するか定かでない。無残な姿を晒す一階はほぼ屋外と変わらない状態の上に、やはり家屋が完全に倒壊した際は瓦礫の下敷きになるだろう。
……やはり庭に野宿しかないのか。
「俺、生きて朝を迎えられるのかな……」
「うっうっ、十代目、なんておいたわしい……」
独り言のつもりで呟けば、意外にも返答があった。暗がりの中に響く嗚咽。誰かは解っていても、ホラー嫌いの綱吉にはキツイものがある。
「……獄寺君?なんでいるの?」
「俺の失態の所為で十代目お一人が辛い思いをされるのに耐えられなくて……。あと俺の部屋、姉貴の料理の残り香で居れたもんじゃないんスよ」
前半は目頭を押さえながら、後半は腹を押さえながら獄寺は説明した。
「あー成程……ビアンキ追い出すことしか考えてなかったけど、獄寺君には酷だったよね、ごめん」
「なんと優しいお言葉……!!」
感激にうち震える獄寺は元から深い愛をますます熱く激しいものとしていたが、綱吉の興味はそんなものにはない。
「ね、これ毛布?」
「へ?あ、はい!俺んちにある分全部持ってきました!」
主の喜色にすぐさま浮かれ、獄寺は自慢げに両手に抱えた布団や毛布をばさりと広げる。灌木の葉が隙間から転げ落ちたのは、塀を乗り越えて沢田家の敷地に侵入する際、両手の自由を確保する為、先に庭へと寝具を投げ入れたかららしい。ちなみに綱吉の置かれている境遇に詳しすぎる獄寺だが、その理由は彼が獄寺だから、の一言で回答に代えさせて頂きたい。
獄寺は意外と(と綱吉は口にしなかったが)役に立ち、沢田家の二階に命懸けで侵入して綱吉の冬布団を取ってきたり、炬燵机の天板や壊れたダイニングテーブルの破片などを利用した壁に持参したシーツを被せ、即席のテントらしきものまで作ってしまった。
「すごいよ獄寺君!技術家庭苦手な筈なのに!」
「いや……不恰好ですいません」
照れ照れと頭を掻きながら獄寺は恐縮するが、要は多少なりとも風が凌げれば良いのだ。その点獄寺の即席テントは申し分ない。
「ささっ、それでは中へどうぞ!」
「え、俺だけ?獄寺君はどうすんの?」
一瞬このままマンションの自室に帰ってしまうのかと思った綱吉だが、違っていた。
「材料があんまり大きくないもんで、こん中かなり狭い空間しかありませんから……。窮屈な思いをさせてすいません。俺は外で風避けになってますんで、何かあったらお声を掛けて頂ければ」
「なっ、駄目だよそんなの!絶対駄目!獄寺君が凍死しちゃう!じゃなくても風邪引いちゃうよ!!」
「ですが……」
「小さくなって三角座りしたら、ギリギリ入れそうじゃん!二人でくっついてた方が温かいし」
昼間のフゥ太の言葉を思い出しつつ綱吉が言い募れば、ぽかんと口を開いて主を凝視していた獄寺の顔は、みるみるうちに茹で蛸のような赤に染まった。あ、温かそう。綱吉は何となく思う。その予想は外れていない。
「あの、でも、その、あのぅ……」
「俺寒いのやだから。ね?」
獄寺の心中に天国と地獄が一挙に到来した。こんな、別に俺は下心があった訳じゃねーんスよ!?望外の僥倖と、自分の理性に対する疑惑とで獄寺の心は千々に葛藤した。葛藤した結果。
「…………………ありがとうございます」
易きに屈する。彼はまだ若い。
またこの人って、畏れ多いとか思って悩んでるんだろうな。言い募ったものの、獄寺が納得してくれるか心許なかった綱吉は安堵の息を吐いた。リボーンがなんて言うか解らないし、本当は帰した方が良いんだろうけど。だけど暗闇が怖い綱吉は獄寺と話しているうちに、こんな真っ暗な屋外に一人取り残されることが改めて怖くなってしまったのだ。
俺って友達としてもボスとしても我儘だよなぁ……。自分への呆れは押し隠し、綱吉は獄寺の手を引いた。日常的にダイナマイトを扱う手は皮膚ががさがさに荒れていて、やはり温かい。
「――Deo gratias!」(ああ神よ!)
獄寺が何か小声で呟いたが、綱吉には聞き取れなかった。
それを言わせた感情は何となく見当が付くような気もしたが、いつもと同じように敢えて考えないことにした。
その晩は、ありったけの毛布をぐるぐる巻きにして、煤けた机板で出来た小さな巣の中で二人寄り添って眠った。
実を言えば、衣服越しに感じる温みや、可愛らしい唇から洩れる安らかな呼吸音に興奮するあまり、獄寺の方は一睡も出来なかった。元来短気な男が理性を総動員して、主が眠っている間にも決して指一本邪念を持って動かさなかったことは称賛に値するだろう。誰も知らなくても、獄寺自身が己の忠誠と忍耐を称賛した。
自分達は近しい主従であり、同時に親しい友人同士でもあるが、こんなに長時間肌を寄せ合うような距離にいたことがあっただろうか。いや、誰とでも、こんな恋人のような距離を持ったことなどない。これから先も一生ないかもしれない。
脳裏に浮かんだ恋人という単語は獄寺を有頂天にさせたが、同時に鈍い痛みを胸に齎らした。
自分の感情に一定数で混じる不届きな思念を、この方は知らない筈である。時折全て見透かされているような気がすることもあるが、どちらにせよ獄寺さえ口にしなければ、十代目の方から良きにつけ悪しきにつけ変化を求めることはないと思われる。二年近く傍に仕え、獄寺もその程度は己の主を把握している。
自分は変化を望んでいるのだろうか。無性に煙草が吸いたくなったが、手持ちの分は夕方暴れた際に使い果たし、それから補充はしていない。持っていたとしても、身動きして十代目の眠りを妨げたくないが為に我慢しただろう。
変化を望んでいる。少なくともチョコレートを用意してお宅を伺うまではそうだった。恋愛感情ではなかったとしても、一番近い部下として誰よりも身近に感じて欲しかった。
今はどうだろう。能力的にも精神的にも随分成長したと思っていたのに、また十代目にご迷惑を掛けてしまった。渡しそびれたチョコレートは今もポケットに入っている。これを渡す資格が俺にあるのだろうか。
「ん……お腹すいた……」
むにゃむにゃと、不明瞭な発音で十代目が呟かれた。寝言だ。そういえば夕飯を食べてらっしゃらないと伺った。おいたわしい(獄寺もどさくさのうちに夕飯を抜いていたが)。
「じゅうだいめー、チョコあるんですよ、食いますか?」
自分でも得体の知れない欲求に襲われ、獄寺はひっそりと眠る主に話し掛けた。
「ちょこ……食べる……」
寝言だ。それでも獄寺は光明を見た思いがした。
「……朝になったらお渡ししますね。15日のお菓子には何の他意も込められてませんから」
お腹を空かせたこの方は、きっと喜んで食べて下さるだろう。貰い物とでも言えば不審も抱かれまい。
翌朝獄寺からチョコレートの包みを差し出された綱吉は、超直感でこれが彼自身の用意した物であることを悟るのだが、現時点で獄寺はそれを知らない。
今はただ、安らかな眠りと穏やかな微睡みだけがそこに在った。
獄寺の今年のバレンタインデーは、実に素晴らしいものだった。
〈完〉
書いても書いても獄ツナにならなくてどうしようかと思った……。特定カプに拘らなくても良かったかもしんないですね。
メインの筈の野宿部分が蛇足に見える。