森々と冷気が背筋を這い上る。
気が付けば、窓の外には雪が舞っていた。
「奉孝のことだけれど」
火炉の灰を掻き回している叔父に突然切り出され、それまで上の空だった荀は思考を読まれた錯覚でぎょっとした。
「最近会っているかね?」
「いえ、それが……」
曖昧に語尾を濁したが、続きの言が胸中に用意されている訳ではない。
幼い息子を放ってふらふらしているという風聞ばかりは耳に届くので心配しているのだが、話をしたくとも本人の居所が全く知れないのだった。
別に行跡を眩ましている訳ではないらしいが、同じように郡城に勤めている郭図や郭援に尋ねても明瞭な応えが返らない。先だっても仕事の手隙な日に幼子の預けられている実家を訪れたが、養父母に恐縮されるばかりで郭嘉本人には会うことが出来なかった。
「昔は始終べったりしていたのになぁ」
「お互い子供ではなくなりましたから」
今の疎遠さに、明確な理由はないと思う。気付けば訪れが減り、自然に受け入れた頃には顔を見ないのが当然になっていただけのこと。
「そんなものかな」
自分の方が少々淋しそうに、荀爽は首を捻る。強いて言を重ねずに、荀は瞼を伏せて微笑んだ。
「何か奉孝のことで?」
「確か、彼は内儀を亡くして……」
「四年です」
「ふむ」
今日の荀爽はどことなく機嫌が良い。郊外の別邸に籠もり、頑なに本家へ足を踏み入れようとしない愛娘への対応に困じ果て、うち沈んでいる日が多かったので、珍しく明るい表情を見て荀も嬉しくなる。とはいえ、郭嘉の亡妻を気にするということは、寡婦となった娘のことが念頭にあるからだろう。
荀にとっては、郭嘉の結婚も見知らぬ女人の死も、共に与り知らぬ彼方の出来事だった。身近に感じると言えば、従妹の不幸の方が余程印象に深い。
「子供……も居たのだったな。男手一つでは難儀だろうに」
荀のことにも想が及んだか、叔父は少々苦い顔をする。
「ええ……」
荀にも一抹の淋しさはあるのだ。だから鰥生活で子育てに苦労していないか相談に乗りたいし、出来れば孤児を引き取って自分の娘と一緒に育てたいと申し出たくて、行方を捜しているのだが。
「あの、叔父さま……」
今の話の流れでは、叔父も同じことを考えているのかもしれない。荀は己の存念を話そうと、居住まいを正して対座した。
「采を娶してはどうかと思うのだけれど」
「え」
想像もしなかった。
そのこと自体が取り返しのつかない瑕疵に思えて、荀は自分が仰天したことに衝撃を受けた。
「………っ」
肺腑に石でも詰まっていそうな重さを必死で取り繕って唇を湿らし、
「……ですが、家格は……」
ようやく出てきたのが詰まらない確認なのに、我ながらうんざりする。
「末端とはいえ、陽の郭なら相応だろう。こちらも再婚であることだし」
荀爽はおっとりと火箸を動かして、灰の上に模様を描いている。気軽な口調だが、それなりに真剣なのは荀にも解る。
真っ白い灰となった脳裏を釣られたように掻き回すうち、自分が必死で否定の材料を探していることに気付いてしまって、そうであれば何も言えなくなった。
「実は、もう申し入れはしてあるのだよ。返答は次に貰えると思うが」
「奉孝に会ったのですか?」
「ああ、それで最近顔を合わせていないと聞いて、不思議に思ったのだけれど」
荀は月の大半を陽の郡城に居ても会えないというのに、潁陰に腰を落ち着けている荀爽は簡単に郭嘉と連絡が取れる、という事実。
……いけしゃあしゃあと!
この場にいない郭嘉に向かって怒鳴りつけたい衝動を、袖の中で握った拳に力を籠めることで抑えた。
意識に留めないようにしていたが、態と避けられていたことは識っている。そして、荀自身忌避に近い感情が存在していたことも。ならば互いに、中途半端に関わろうとしなければ良いものを、こんな形で存在を見せつけて如何とするつもりか。
「文若はどう思う?」
……何を?
聞かないで欲しい。悪気のない叔父の視線に晒されることが苦痛で。初春の寒さにも関わらず、背中を冷汗が流れた。
「奉孝は素行で色々言われているのもある。親戚筋には反対する者も出てくるだろうけれど、彼を身内に取り込んで損はないと思うのだよ」
「…………よろしいのでは?」
造り上げた微笑を浮かべれば、ぱっと荀爽の顔が輝いた。
「そうか」
「ええ、家庭を持てば奉孝も落ち着くかもしれませんし」
思ってもみないことを。
「お前が賛成してくれるなら心強いな」
「彼になら、大事な従妹を任せられます」
満足気に、荀爽は頷いた。それも当然で、叔父の望む通りの答えを口にしたのだから。
荀の感情は違う方向を向いている。しかしその出所は解らないのだ。巣立つ弟分への儚い寂しさと、強く自己を主張していた異物を規定していた、その認識が不安定に揺らぐのを感じる。
少しでも気を抜けば、途端に何か得体の知れないモノが白日の元に晒されそうな気がして。微かな震えが荀を苛む。
放たれかけた意識に再度厳重な封をして、何を懼れているのか自分でも知らぬまま、荀は笑顔の下で怯えを隠した。
森々と、雪は沈黙を保っている。
〈続〉
早く他のを終わらせろという無言の苦情を無視して開始。本当は鹿の後にやろうと思ってたんですが、なんとなく書いちゃったもんで(アバウト)。
嘉辰令月とは、めでたい月日=めでたく縁起の良い時節、の意。「嘉」と「令」の両方が入ってるから郭荀向きだなー、と、アホみたいな選択理由です(苦笑)。
テーマは『結婚』なのか何なのか、時系列は189年春と199年冬を行ったり来たりする予定ですが、『後漢書』列女伝読んだことある人には色々とバレバレかもしれない……。
1〜3同時アップ。なるべく一気にいきたいと思いつつ、他の続き物の完結を優先するかもしれません。予定は未定なり。