二十歳での冠礼。とはいえ、婚姻を経て、初めて一人前と認められるという認識も世間には確かに存在する。
古礼においては、正式な結婚は三十の歳まで行われなかったと聞く。遵守されておれば、半数近くの成人男性は未だ半人前のままという理屈になろう。日頃は法秩序をこよなく愛する陳羣だが、とはいえ、流石に古礼に則ってこの年まで独身を貫いてきたものではない。全ては甲斐性の一言で説明出来る類の話だが、そんな日々も今少しで終わりを告げるのだった。……多分。上手くいけば。
春を予定している。が、そこに漕ぎ着けるまでに様々な手順が待ち受けているのである。まず納采があって、媒酌人を通して女性の実家へ幣物を納める。次いで相手の名を問い(問名)、その名を占って吉兆を女性の父に告げる(納吉)。そして結納を贈り(納徴)、婚礼の期日を問い合わせる(請期)。……一応、納吉までは済んでいる。
親族でない女性の名など、結婚の時以外に明かされることはない。初めて聞く妻となる人の名前は恐ろしく神聖に感じられ、多分に形式的な吉の音が特別に響いたものだった。
……などと、来し方と行く末に思いを馳せ、改めて今を確認する。というより、緊張で気が遠くなっている間に走馬燈が脳裏を過ぎったというのに感覚は近いのだが。
「どうされました?」
現在、卓上には自分の持参した反物や干し鮑、不動産などは目録に記すだけだが――結納の品が置かれている。卓は黒っぽい材質の一枚板で造られた大振りのもので、永劫を隔てた如く感じる先には、義父となる予定の人が僅かに首を傾げて此方の様子を窺っている。
ここに至っても尚、何かの間違いではないかと陳羣としては己を取り巻く状況に半信半疑であったりするのだが。
「あ、あ、あのあの、あのっっ」
「はい?」
今回の話は、病に倒れた父の見舞いに先方が来て下さる間に、親同士が盛り上がって実現したものだった。息子からすればあれよあれよという間に全てのお膳立てが整ってしまったのだが、当事者たるもの無責任ではいられない。つい流されるままに来たが、今日こそは明瞭と己の意思を伝えようと、実は決意に燃えていた。
ここまで緊張しなくても、というか完全に挙動不審となっていることは、動じずに見守っている義父候補の様子からは推測出来ていない。僅かながら陳羣の不幸である。
「あのっ……」
それゆけ私!男を見せる時だ!!膝に置いた手が、ぎゅっと衣の布を握り締めた。
「おっ……お義父さんを下さい!!!!」
……………………………………………………………………………………やってしまったー。
そう、『お義父さん、お嬢さんを私に下さい』という定番の台詞。 を。
微妙な空気が室内に満ちる。
緊張の剰りのベタな言い間違いに、陳羣は蒼白になった。これで婚約破棄になったら父に顔向け出来ない。というか恥ずかし過ぎて死んでしまう。
「………良いですよ」
「えっ!?」
「あ゛ぁっ!?」
ごん。
時間の流れが停止した沈黙。それを破る荀の爆弾発言に、陳羣は思わず身を乗り出した。同時に鈍い音が下方から聞こえた気がするが、気の所為だろう。
「はい」
にっこりと、荀は天人の如き麗しい顔を綻ばせた。
「実のお父上には至らないでしょうが、今後は義父として力になりたいと思っておりますよ」
陳羣としては、眩しくて目が眩みそうになる笑顔。この人、後光が差しているのではなかろうか。
「あ、なんだ、そういうことか……」
浮かした腰を落ち着ける。一気に上がった心搏数を宥めながら、多量の安堵と微量の失望を追い出すべく息を吐けば。
「っくくくく……」
ごん、と再び下方から音がして、気の所為でなければ僅かに卓の位置がずれた。ってゆーか謎の笑い声が聞こえるのだが。
荀がちらと咎めるような視線を真下に零したことからも、陳羣だけが感じる怪異現象ではあるまい。とてつもなく悪い予感が押し寄せた。
「うりゃあっ!!」
己の羞恥を誤魔化す心意気からも、重厚な卓をがしりと掴んで傍らに追いやった陳羣は全く礼法を忘れていた。傍目からは卓を投げ飛ばすつもりに見えたかもしれない。ばさばさと、積まれた干し蚫が崩れ落ちて床にまで転落するが、誰も一顧だにしなかった。
「あっ、あっ、あなたなたなた……」
「あちゃあ、バレちゃった☆」
頭痛を堪えるように額に手を遣る荀、の膝を枕にして寝転がる不審者一名。
「何であなたがこんなトコロにいるんですかっ!?」
悪い予感が的中しても全然嬉しくも何ともなく、陳羣は卒倒しそうになった。
「尚書令宅を『こんなトコロ』呼ばわりとは豪気だねえ、長文ちゃんてば」
潜伏・盗聴が発覚したにも関わらず、にやにや下卑た笑みを浮かべる郭嘉に悪怯れた様子はない。どういう心臓をしているんだ。陳羣はかつてない殺意を覚えた。
「じゃなくて何故私の結納の場に潜んだ挙句、れ、令君に膝枕まで……っ」
どちらの原因に怒りの矛先が向いているのやら自分でも頭に血が昇り過ぎてよく判らないのは兎も角、
「ふーんだ、あんたにゃ文若どのはあげないよーぅだ」
郭嘉は陳羣の怒りを煽るように、寝転がったまま荀の腰に腕を回したりする。
「じゃかあしいっ!貴様のモノかっっ!!」
規律と秩序の人である筈の陳長文は立ち上がると、八つ当りの全てを込めてげしげしと郭嘉の腹を踏み付けた。
「ぐはぐふげほ」
「ふぬっ、ふぬっ」
悶絶する郭嘉と据わった目で同輩を蹴り続ける陳羣を何とも言えない表情で眺め、荀は荒い呼吸と共に上下する袖を軽く握って、無言で狼藉を止めに入る。
「え……あっ」
ぴんと引っ張られた袖を辿れば白い手首が衣から垣間見え、その白さが陽に当たらない生活を送っているであろう令嬢を連想させて、陳羣は一気に今の状況を思い出した。
「充分お灸になったでしょうから」
眉尻を下げた荀は苦笑を浮かべていて、あからさまな怒りの気配はない。が、暴力的な婿など要らないと、父どころか娘すら貰えなくなる可能性は高いかもしれない。
促されるままよろよろと膝を付き、今更ながら陳羣は蒼白になった。
「けほっ……文若どのー、こんな奴に繝ちゃんあげちゃ駄目ですってー。家庭内暴力とかに走りますよ絶対」
誰が貴様以外に手を上げるか!反射的に動く拳を必死で耐える。これ以上醜態を見せれば、間違いなく婚約破棄される。
「……って!何故貴様がお嬢さんの名前を知ってるんだ!?」
うっかり聞き逃しそうになったが、由々しきことを口に出された気がするが!?
「……一時期は家族みたいなものでしたから……」
口籠もる荀の後を引き取って、よろよろと上体を起こした郭嘉は偉そうにふんぞり返った。
「ってゆーか繝ちゃんの襁褓すら取り替えた俺様に黙ってナニ嫁取りしようとしてんのヨおたく。今日は不届き者のツラを拝んでおこうと思って卓の下に潜んでたんだけどさー」
「毎日顔を合わせとろうが!」
い、いけない、言葉の乱れは風紀の乱れ。つい言い返して、陳羣は自分の墓穴を堀ってしまったことに気付いた。そもそも荀ともほぼ毎日会っている以上、今更付け焼き刃で良い子ぶっても意味がないという所まで意識が回っていないのが哀れかもしれない。
「ねえねえ、このとーへんぼくに呉れてやる位なら、いっそ俺に繝ちゃんくれませーん?」
腹を踏まれた復讐か、陳羣が大人しいのを良いことに図に乗った郭嘉は、荀に甘えるように纏わり付きながらとんでもないことまで言い出した。
ぎゃあ!心中絶叫。まさか、いや、奉孝は曹司空の覚えもめでたいし、しかしそんな……。
荀は無言で、その言を吟味しているように見えなくもない。陳羣のぐるぐるも頂点に達さんばかりになった。
ぺちん。と軽い音。
荀が誰かに軽くでも暴力を振るう場面など、陳羣は初めて見てしまった。
「馬鹿は休み休み仰い。当家の女は金輪際そなたに嫁がせる積もりはありません」
しかも、随分と倹の籠もった否定。
「黙って聞いていると言うから同席を許した私も間違っていました。これ以上当家の縁談に口出ししないで下さい」
ほっとしながらも、珍しい荀のきつい物言いに、陳羣はやや及び腰になった。
「いや〜ん、そんな冷たい仰りよう、ならお父さんの方くださ〜い☆」
逆に言われた郭嘉の方が、そんな凍える視線を全くものともせず笑っている。
再び荀が口を開こうとする。何故だか郭嘉が可哀想になった陳羣は、棘のある言葉が飛び出すのを何とか阻止しようと思ってしまった。
「いい加減にしろっ!」
ここは先手必勝。卓上から結納目録を記した紙を取り上げ、懲りない郭嘉をはたいた。すぱーんと景気の良い音が響く。
「あ、いいかも……」
本来の意図を忘れ、予想以上の使い勝手の良さに感動している陳羣を微笑ましく見守りながら、派手な音程には痛手を受けていない郭嘉に目配せされた荀は造り物の如き表情を取り戻した。
「――ところで、お父上のお加減は如何ですか?」
「え?はぁ……」
荀の優雅な微笑と、不貞腐れたようにそっぽを向く郭嘉の様子から、陳羣も場の空気が入れ替わったことを察する。名残惜しそうに目録を卓の上に返して、平静な表情を繕った。
「気力は充分なんですが、かなり寒さが堪えているようで……」
応えるうちに、陳羣も床に臥している父のことが心配になってくる。
「そうですか……。婚礼は来年頭の予定でしたが……」
言い難そうに荀が語尾を濁す。
婚礼の期日は花嫁の父が決めるものであり、実質両家の話し合いで決定する。荀の懸念しているのは、花婿の父である陳紀が年の瀬を越えられるか否かだろう。婚礼前に陳紀が死去した場合陳羣は三年の喪に服さなくてはならなく、当然結婚も三年間延期とならざるを得ない。
「本来なら婚礼は親の老いを示す分、先方の親御には不祥の礼なのですが……。年内に執り行えるよう日を繰り上げては如何かと思っているのです」
「は…い、父に相談してみます」
始めに感じたのは破談にされなくて良かった!という些か即物的な感想だったが、次いで胸中を占めたのは荀の気遣いへの感謝である。
「令君には本当に……父も喜ぶと思います」
半年近く病の床に伏している父を古馴染みの荀が見舞ううちに、今回の縁談が具体化した。息子の一人前になった姿を一目見てから死にたいと切望する陳紀に、親身に相談に乗った荀が自分の娘のことを切り出したと聞いている。
有り難いのと同時に、陳羣としては荀の意図が同情心だけにあって、心から自分を娘婿として認めてくれている訳ではない……そんな不安がある。
「もうすぐ親子になるのですから他人行儀は困りますよ。さ、顔を上げてください」
肩にほんのりとした温もりが置かれ、陳羣は伏せていた顔を上げた。こちらを覗き込む麗しきお顔。杞憂だと、何も言わずとも荀の微笑みが物語っているように感じた。
「れっ、令君〜〜〜〜」
何たる勿体ないお言葉。自分は世界一の果報者だ……!
男泣きにおいおい号泣する陳羣を郭嘉は唇を尖らせて観察していたが、口では「ふん」と鼻にかかった息を漏らしただけで、取り立てては何も言わなかった。
そんな郭嘉を一瞥して、荀は密かに溜息を洩らす。
何事もなく、納徴の儀は完了した。
後にこの日はハリセン記念日として後世に伝えられることになるのだが、当事者達にとってはさして重要事項ではない。
ええと、ハリセン記念日は嘘です(言わずもがなのことを……)。
陳羣どのはギャグキャラとして重宝しているのですが、裏を返せば殆どギャグな出番しかなかったりして、最近人気赤丸急上昇な長文どのの親衛隊に見付かったら殺されそうな気がします、管理人。
「お義父さん」ネタはコテコテ過ぎて自分でもどうかと思ったのですが、そもそもこれが作品主題なもんで(本気か?)。
つい喜んでしまった長文どのは、本当に恋愛感情を持っていないのか。書いてるおいらにも謎になってきたっス。
婚礼の次第については『礼記』を別の本から孫引き。しかし干し鮑は真っ赤な大嘘ですよー。アワビを結納にするのは日本独自の風習と思われますが、当時の中国人が何贈ってたか知らないし。
勝手に平安用語混ぜてたりもするので(車宿とか)、一見考証してるっぽいのが罠交じりの、非常に危険なサイトです。