踏み締めた足の下で、さくさくと軽い音がする。粉を磨り潰す音に似て何処か水っぽい響きは、夜半に止んだ雪が早くも陽光に溶けかかっているからか。
街中を走る大路を逸れれば人通りが極端に少なくなるようで、轍の跡がくっきりと一筋残る他は純白を踏み荒らす足跡も目立たなかった。
この辺りの区画に住まいを構える只でさえ出無精な連中は、こんな日の早朝から態々出歩いたりしないだろうが、庶人の暮らす界隈では天候に関わりなく平時と変わらぬ生活が営まれている。
異様な静けさの中、遠くから物売りの声が微かに一条風に運ばれて来たのが、逆に幻聴のようですらあった。
己の足下を見下ろせば、甲までを覆う厚手の布沓が泥混じりの水を吸って汚れつつある中途。
対照的な未踏の白。
照り返しが眩しくて、俯くのを止めにした。天涯の蒼は遠い。
直ぐ脇の塀から枝でも顔を覗かせているのではないかと目を凝らしたが、塀の屋根瓦の先には如何にも遠い色をした蒼だけで、無愛想な壁に隠された内部までを推し量る術は存在しなかった。近寄れば耳を当てる間もない無慈悲さで、屋根に積もった欠片が剥げかけた漆喰のように頭上に落ちてくる。
肩を竦めると、思案する表情で目をうっすら細めた郭嘉はあちこちほつれた頭の見栄えを余計に悪化させがてら、髪を掻き回した手で雪を薙ぎ払った。艶のない毛髪は藁のような感触を指に伝える。
世界のしらじらとした明るさが気に食わない。とは言っても明光に人格があるならば、眇めた眼光が醸す剣呑さや士大夫の体を全く成していない薄汚れた風体を目にして、己の方から若者らしからぬ崩れ方をした郭嘉を避けて通ることは間違いないだろうが。頬から顎にかけての鋭角的な輪郭が、二十歳になったばかりの青年を余計に男として見せていた。
客を招き入れる正門、家人や塾生が普段利用する脇の側門は、街路に面して在る。塀を眺めながら徘徊しているのには意味が無く、強いて言えば使用人の使う裏門から屋敷に足を踏み入れるつもりだった。
招かれた身であっても、堂々と門を潜るのは……今日は彼の人が実家に帰っているかもしれないと思うと怖くて足が竦む。ここまで落ちぶれていれば目にしても気付かない、ということもないだろう。
簡素な古着を纏えば我ながら庶人のような有様で、清潔なら兎も角垢じみているような気がする。この格好を見て先生は意を翻してくれないものだろうか。
最近の塒は蛆の涌きそうな男所帯で、馴染みの妓の処に行けばまだしも身形を整えて貰えただろうが、代わりに脂粉の匂いを撒き散らしつつ屋敷へ直行するというのも、それはそれで気が引ける。
……此処まで来ても、肯う気なのか断りたいのか、まだ己の胆を据えられていない。
決心がつくまで、高い塀の周囲をぐるぐると馬鹿みたいに歩き続けるのも良いかもしれなかった。
急に、見えない塀の向こうから雀が一羽躍り出したかと思うと、蒼天を横切ってあっという間に視界から消失した。
寒々しい残像は自由の象徴にも見え、郭嘉は自分の姿にも見える。
かつて、家族の愛情に餓えたこともない癖に、縁もない他人の家は幼い身に揺籃のように思えた。やがて高い塀の内が牢獄なのだと気付いて、一人逃げ出した。既に囚人の誰もいなくなった空の器は廃墟ではなく、見知らぬ場所のようにただただ敷居が高い。
「あー、バッカみてえ……」
久々に出した声は、乾いて罅割れている。
もう一周して決心がつかなければ帰ろう。約定を放り出す自体には罪悪感もなく、そう決め込んでしまえば現金にも雪道を歩く足も軽くなる。
背を丸め、足早に裏門の前を通過しようとした。
「入らないのかい?」
少し歪んだ門扉の僅かな隙間から、するりと声が流れ出た。
「……先生?」
狐に化かされているような心持ちで郭嘉は足を止めた。
半信半疑の体ながら、立て付けの悪い木扉を押し開ける。
「先生、どうして……」
果たして、にこにこと穏やかな微笑みを浮かべた荀爽が客人を態々出迎えていた。冬衣を重ね着した上に毛皮の裘を羽織っていながらも、寒そうに体を揺すっている。
足踏みした雪の跡がそこら中散らばっていて、待ち草臥れていたものか、点々と厩舎を過ぎた奥にまで往復の足跡が刻まれていた。先程の雀を驚かせたのは周辺を徘徊していた屋敷の主らしい。
「文若が裏門から来るだろうと予見していたからね。本当だった」
「文若どのが!?」
知られていたのか。話を。
荀のことは何度も考えて鉢合わせを心配もしていたのに、今回の話に関わっているとは思いもしなかった。
「疎遠だとしても、やはり幼馴染みのことはよく解るのだねえ」
感嘆しつつ、荀爽は着いて来るのを微塵も疑わない足取りで歩き始める。
「そ、それで文若どのは今日……?」
行った先で待ち受けられていては堪らない、そう思いつつも見えない手に引きずられるように後を追ってしまう。
「どうしても抜けられない仕事があって、残念ながら同席出来ないそうだけれど」
「そうですか……」
何とはなしに安堵した、その次の瞬間には。
「賛成してくれたよ。私も心強い」
絶望。
「……先生」
誤った道に踏み込みつつあるのは知っていた。
「うん?」
振り返る。何もないと思っていた背後には、自由を奪う鎖のように己の痕跡が残されていて、もう逃げられない。
「お嬢さんを頂けますか」
何を今更と言いた気に、荀爽は小さく含み笑った。……本当に今更だ。
一番欲しいものはどうしたって手に入らないのだから。
微妙にツッコみ難い回ですな……。
荀家は名を挙げたのはおじいちゃんの荀淑からですが、ぽっと出の新興豪族とも違う気がするので県城内に屋敷があったと想定してます。
地方都市の造りとか他のサイト様で解説してらっしゃるのを見たことありますが、ウチも譫言とかでやった方がよろしいのでしょうかね?私めも素人なので、寧ろちゃんとしたサイトの説明見た方が安全ですが……。