「万歳、万歳、万々歳!!」
太和殿の前庭にずらりと並んだ百官の唱和する声に応えて、赤徳を体現する緋色の衣に身を包んだ青年天子が緊張に蒼白になりながらも右手を挙げる。それに合わせて頌声は益々高まった。
圧倒され、落ち着かぬ気にちらちらと臣下の席を窺い見ていた帝が、ふと肩の力を抜く。どうやら頼りの者の姿をみとめたらしい。
帝の傍に控えていた秘書官たる尚書令も、同じ方角へ目を向ける。ひっそりと、……しかしその視線は冷たい炎を孕んでいた。
建安四年(西暦199)の正月は、初めから雷雲を予感していたと言っても良い。
新年の祝賀を述べる百官もどことなく浮かぬ顔つきながら、ほっとしたような落ち着きを見せてもいる。己が身の明日をも知れぬこの乱世、主の不在は残される者にとって多大なる緊張を強いるものである。
主というが。正式に言えば、この許は漢王朝の首都であり、万乗の帝がその地を治める主である。しかしそのような建前を信じ込んでいる者など、帝の側近くに仕える廷臣にすら居らぬであろう。許都は司空たる曹操の本拠とも言うべき地であり、その支配は彼と、数多控える有能の臣によって主導されている。許都は儀礼にしか役に立たない帝のものではなく、正しく曹操の為の都であった。
とはいえ、麻の如く乱れる中華の地にあって、曹操の力が群雄の中で図抜けている訳ではない。
前年の冬、曹操は呂布を斃した。さる興平元年(西暦194)に徐州攻めの隙をつかれて東郡を奪われて以来の、仇敵の如き間柄であった。その後も情勢は流転し一時期は呂布と結んだこともあったが、とうとう下に籠城する呂布を追い詰めて徐州を制圧することに成功したのだ。
曹操の前に引き据えられた呂布は、多少の詮議の後に縊られた。かつて曹操を裏切り呂布を東郡に引き入れた謀士であるところの陳宮は、二度目の変節をすることなく刑場の露と消えた。陳宮と同じく裏切り者であった張は、興平二年に既に死している。
それらの人士をある意味幕下に引き入れ損ねた訳だが、代わりと言うべきか、呂布配下の一部の諸将や、呂布に徐州を奪われた形になる元の徐州牧劉備が、配下や客将としてその陣容に加わることになった。人才を愛する曹操は機嫌が良い。
呂布の首を掲げて帰還した許で新年を迎えた曹操陣営の皆は、目の上の瘤を取り除いたが如き安堵と開放感に包まれていたが、しかしそれだけで単純に喜べはしなかった。
徐州を領有したことで、他勢力と接する点もそれだけ多くなるのである。特に、その最大勢力である袁紹は、冀州・青州・并州・幽州の大半を領有して、圧倒的な勢力でもって河北の地に君臨している。今は易京に逼塞している公孫に目を向けているが、やがて決着のついた暁には南方にも目を向けるであろう。かつては友好関係にあった袁紹・曹操両者だが、互いがその勢力を広げていくにつれ、徐々に出方を探るような緊張が高まっている。対決は目前に迫っていた。
呂布が局地性の暴風雨であれば、袁紹は北から低い唸りを上げる地震のようなものである。
都に祝賀の雰囲気が流れ各々が束の間の平和を享受しようとも、華やかな路地の片隅に潜む野良犬のように、戦乱と不安の萌芽は其処此処に漂っていた。
……人々の顔を曇らせる原因は他にもある。
徐州での行政機構を整えて先頃彼らの主人と共に帰還した、かの懐刀が発している怒気である。
無闇に機嫌の良い主とは対照的に、常は感情を強く顕すことのない王佐の才は珍しく不機嫌を隠そうとしていない。大仰に立ち騒ぐ訳ではないが、彼の人らしい清澄な面貌の中で眼光だけが炯々としている。
原因は多少の憶測を加え、周知の事として広まっている。ある意味いい加減な噂話の種になる程度で、重大事とは言い難いかもしれない。平生顔を合わせる事の多くない下官にとっては特に、現時点での実害はない。
しかし、荀の堪忍袋の緒が切れるのやら、逆に曹操の勘気を蒙るのやら、いずれにせよ問題が噴出するのは目前であろう、と兢々と注視する向きも一部には確実に存在した。
近未来の暗雲と現時点の雷雲に怯えつつ、祝賀の影では目端の利く者が嵐の備えに勤しんでいた、らしい。