先日に芽を出したと思っていた若葉が色味を増し、しなやかな堅さを帯びて陽光を照らし返す。夏の気配が日毎に濃くなり、所在なく立っていてすら温んだ空気が纏わりつくのを、幸福感と嫌悪感の微妙な境で享受する。
 ささやかな菜園に水を撒き、雑草を毟り取る背中。幻のような安寧をそっと護るように木々が柔らかな陰を落とす、それが回廊から眺める常の光景であった。
 少ない麾下を鍛える為、張飛と共に城外で練兵を行うのが、このところの関羽の日課である。劉備が姿を見せないことに疑問の声も上がっているが、何も言わず屋敷の庭で農夫の真似事をしているのは、大望を隠し、曹操の監視の目を誤魔化そうとする作為なのだと関羽は思っている。
 ……普段ならば、見られる筈の姿。
 真っ直ぐ屋敷へ戻ったは良いが、挨拶に立ち寄った指定席に義兄の姿がないことに仰天した。張飛は他の場所も探すと言い捨てて走り去り、一人呆然と佇んでおれば、そこへ通りかかったのが孫乾である。
 その人が居ないだけで、菜園はより見窄らしく、惨めな様子に見える。日も翳り、昏い色の雲がじわじわと天を覆っていく様が、余計にその感覚を強めるのかもしれない。
 主の不在を知ってはいるだろうに、おっとりと笑みを浮かべて挨拶する文官。険しい視線を向け、関羽は身を乗り出して道を塞いだ。
「兄者はどこだ」
「さあ、どちらでしょうね?」
 問い返す形で返した孫乾を、襟首を掴むなり壁に叩き付けた。
 関羽の本気の怒気を前に、しかし背中の痛みも感じていないが如き丸顔は、笑みを絶やさず武人の睥睨を受け止め続ける。
「兄者が我らに何の断りもなく、何処かへ他出することなど有り得ん。―― しかも、儂の居ない間にだ!!」
 関羽は吼えた。
「なら、そうなのでしょう」
「だから、余程の事態なのだ、今は!!」
 ああ見えて気分屋な劉備の日頃の行いに関して、関羽自身にも己の言い分が過剰に過ぎるのは承知していたが、警戒してし過ぎることはないのだ。
 此処は敵地で、義兄は重大な使命を帯び、その身命は何物にも代え難い。
「兄者は、何処へ出掛けられたのだ」
「存知ません。近所へ、と仰っておられましたけど」
 襟首を掴まれ、半ば宙に吊り下げられる格好。理不尽な暴力を前に、苦しい体勢を強いられている孫乾は全く表情を崩さない。得体の知れない書生崩れが……思考が罵声となる前に、恐怖にも似た感情を揺さ振られる。
「知らない筈がないだろう!!」
 それが一層の怒りとなって。
「知っていたとしても、お教え出来ません」
「……このっ!」
 空いている方の手で、殴り付けそうになった。
 実行に移す直前我に返り、しかし憤懣は収まらず、勢いを付けて突き放す。再度背中を回廊の漆喰にぶつけて、孫乾は上体を丸めて咳き込んだ。
 ――だから文官という人種は嫌なのだ。
 何の力もなく、それを自覚している素振りで、あまつさえ武器にしてしまえる図太さは何だ。土地や金銭を持つでもなく、名士とか学者とかいう連中が此方を見下す理由は何なのだ。
「教えろ、兄者は何処に……」
「小兄者!大変だ!!」
 威嚇で振り上げられた拳は、用を成すことはなかった。
 屋敷中に響き渡る大声を張り上げて、張飛がどたどたと回廊を走ってくる。練兵の時のまま袖を捲った態で、義弟は気忙しく腕をばたばた上下させる。
「子仲が教えてくれたんだけどよ」
 見れば、張飛の背後に隠れるようにして、糜竺の姿がある。おずおずと此方を窺う様子が不安気なのは、孫乾へ行っていた狼藉を見て怯えているからか。
「殿は我々に口止めなされたのですが、どうしても心配で……」
 ぼそぼそと、伏し目がちに糜竺が呟いているが、聞いているのかいないのか張飛は振り返りもせずに「大変なんだ!」と興奮している。張飛へは既に話したのならば、これは自分に向けての釈明か。
 そのような思案は。
「大兄者は、曹操の野郎に呼びつけられたんだ!!」
「何ィ!!?」
 重大事を前にどうでも良くなった。
 関羽の脳裏を、最悪の可能性が過ぎる。
「貴様、何故それを言わん!」
 董承の持ち込んだ例の計画が露見したのか、騙し討ちのようにして曹操は兄者を亡き者にしようとしている。そうは思わないのか。
 これだから忠義心のない奴は。
 内心吐き捨てて、孫乾の返事を待たず、関羽は階を駆け下りた。立て掛けておいた青龍偃月刀を手にすると、柄のひやりとした触感が手に馴染む。
「行くぞ益徳!兄者をお助けするのだ!!」
「よし来た!!」
 騒々しく喚く張飛が後を付いて来ているのを確認する為、ちらと背後を振り向く。
 糜竺は後に続くでもなく此方を無表情で眺め、しゃがみ込んだ孫乾は騒ぎを聞き付けたらしい簡雍に抱え起こされていた。
 憲和も、何を好きこのんでああいった手合いと誼を通じておくのか。
 どうでも良いと切り捨てて、地を踏みしめた。
 遠雷の音が、聞こえる。
 
 
 
 
 
 
 
 近所と言えばそうには違いないが。
 漢帝国――或いは曹操個人の権威を示すかのように、眼前の門は威圧感を持って聳えていた。とはいえ、そんな虚仮威しに気を留める質ではない。
「司空府に何の用か?」
 長柄の矛を手にした門衛二人が、武器を交差して道を塞いだ。
「待て、その方々は――」
「我らは劉玄徳が義弟、此方に我が主君が招かれたと聞き及び、迎えに参った」
「とっとと退けってんだ、てめぇら!」
 二人の姿を見知っていたのだろう、上役らしき男が詰所から走り寄ってくる前に、関羽は朗々と口上を述べ、待ち切れぬように張飛が蛇矛の石突を向けて衛士を突き飛ばす。
「うわっっ」
 尻餅をついてひっくり返る若い男に巻き込まれ、もう一人も蹈鞴を踏む。擦れた矛先がちゃがちゃと耳障りな音を立て、開いた隙間から上体をねじ込むように、張飛は衛士達の間を通り抜けた。
「まっ、待て!誰も通さぬよう厳命されておる!」
「ならば無理にでも入らせて貰う」
 焦った素振りの三人目を押し退けて、関羽も後に続く。
「くっ、曲者ぉ!!」
「誰が曲者だってんだ!」
 門庁に至れば、ばらばらと増える衛士を遠ざけようと、張飛が蛇矛を振り回している。
「益徳、殺すなよ」
「わーってるよ」
 刃を使わずとも、打ち所が悪ければ人は死ぬこともあるのだ。関羽の懸念を素知らぬ風に、張飛は暴れられること自体を楽しんでいるように見える。
 曹操は恐らく奥の方に居る。無闇に広い府内、或いは曹操の官邸か。兄の居所が掴めない此方に対して、相手は劉備の生殺与奪を握っている。急がなくてはならない。
「おらおら、退けぇ!!」
 張飛が蛇矛を掲げたまま一歩前進すれば、包囲はその分後退する。それでも気丈に向かってくる衛士を、関羽は青龍偃月刀の柄で打ち据えた。
 劉備が何とか誤魔化しているのなら、ここで関羽達が曹操の兵を殺してしまうのは問題がある。そんな此方の遠慮を感じているのか、及び腰になりながらも、衛士達に道を空ける気配はない。散発的に向かってくる敵をいなしながら、立往生している今の状態が歯痒い。
 槍での突きを弾かれて蹌踉ける衛士を、勢いを付けて蹴り飛ばす。味方に体当たりしたなり蹲る壮年の男に心中詫びて、更に前へ。
 遠雷の音。
 湿った空気。
 纏わりつくそれらが苛立ちを呼ぶ。
「ふんっ」
 闇雲に振り回すのに近い。偃月刀の柄で正面の空間を切り裂けば、流石に避けようとした衛士達は左右に道を空けた。
 その先には軒を連ねる司空府の官舎、間には低い段差の階があり。
 
 紫電。

「双方そこまで」

 遅れて、一際大きい雷鳴。
 
 ――何時から其処にいたのか。
 階の最上段に独り佇み、決して大きくない声を発するだけで、荀はその場の空間を支配した。
 一瞬の静寂を縫うように、ぽつぽつと水滴が落下した。それが完全な雨になるに至って、我に返った時間は再び動き出す。関羽も、止めていた息をゆっくりと吐き出した。
「令君!?何故このような場所に……」
「ここは危のうございます!」
「大丈夫、私に任せては頂けませんか?」
 身分低い衛士が間近に尚書令の姿を見ること自体、稀なのだろう。関羽達による来襲以上の狼狽が起こるのを簡単にいなし、物腰柔らかな態度を崩さないまま荀は訴えを封じ込める。渋々といった風情で引き下がった彼らは、それでも関羽らを警戒するよう、一層の気迫を込めて遠巻きに包囲を続行した。
「それで、お二人はどのようなご用件でしょうか」
 雨に濡れるのを厭わない様子で、あくまで粘るつもりらしい。平然と問いかけてくる白々しさへの怒りを堪え、関羽は長髭を扱いて気を落ち着かせる。
 今度は遠くで雷鳴。耳を澄ませて、判別出来る程。
「兄者が此方に呼ばれたと聞いたので、迎えに参ったのみ」
「……そうでしたか」
「兄者の元に案内して頂ければ、当方も事を荒立てる気は毛頭ござらん」
「な、知ってるんなら頼むよ」
 二人の様子を当分に見比べ、荀は小さく首を傾げる。
「劉豫州どのがいらしているとは存じませんでしたが……ささやかな酒宴を楽しみたい故、奥の院子に誰も入らぬようにと厳命が出ております。それと関係あるでしょうか」
「それ、きっとそれだ!」
 激しく首を上下に振る張飛は、そのまま荀の傍らまで走り寄らんばかりの喜色を見せる。足踏みすれば、ばしゃりと出来たばかりの水溜が音を立てた。
「本来ならお通しする訳にはいかないのですが……」
 末まで言わず、ちらりと流し目を関羽に向ける。探るようなそれにむっとすれば、何が可笑しいのか目を細めた。
 渡りに舟だが、……だからこそ胡散臭い。
 曹操が劉備の命を奪おうと呼び出したなら、この謀臣がそれを知らない筈もなく、ましてや関羽達を簡単に奥まで通すなど有り得ない。
 ならば暗殺計画は露見していないのか。とすれば、何故曹操は人払いをしてまで劉備を呼んだのか。荀はどう関わっているのか。
「案内は私が致しましょう」
 親切ごかした態度を崩さず、荀は誘うように右手を挙げた。濡れた鬢を掻き上げる。所作の一々が、計算された優雅さとして目に映った。
 一歩前に踏み出す張飛の肩を押さえ、関羽は申し出を吟味する。
 この者が、自分達に好意的であろう筈がない。何かを企んでいる。
「…………荀文若どの、でしたかな」
「はい?」
 欠片も動揺の気配はない。張飛でなくても騙されるだろう。
 遠雷。今は雨音の方が大きい。
「人払いと言われたが、貴公の出入りは許されておるのか?」
「あ?」
 何を問題にしているのか解らないのだろう、張飛が首を傾げる。


 荀は。
「いいえ」
 明瞭と応えを返し、唇の端を吊り上げた。
「午後より私も、我が主公の姿を拝見しておりません」
 その表情が、関羽の推察を肯定している。
「ならば我らも遠慮致そう」
「な、なんでだよ小兄者!大兄者がどうなってもいいのかよ!?」
 踵を返そうとする関羽を引き留めようと、今度は張飛がその肩を掴んだ。
「ここで我らが邪魔をするのを、兄者は喜ぶまい」
 恐らく、張飛に負けぬ程に悔しい。しかし。
「噂以上に賢明なお方ですね」
 笑いを含んだ声音に憎しみを掻き立てられ、挑むように荀の姿を見据えた。
 さぞ嘲りに満ちた表情をしているだろうと思った、その笑顔は。
 ――それか。
 笑わぬ方が良いと義兄が語ったのを、思い出す。
 
 嘲りの色は見えた。誘いに乗れば主君の意向に反し、気付けば踵を返すしかない、負け犬に対して。気付かぬ振りをして操られることは、荀に見透かされている以上、関羽の矜持が許さない。
 荀の嘲笑の中には、憐憫と羨望が入り交じっている。初めて顕わにした敵愾心は、何故か見覚えがあるような気がした。
「つくづく良い部下をお持ちですね、豫州どのは」
 一見愉悦にも見える笑顔で、荀は憎々しげに吐き捨てる。
「兄者を信じる以外、何も出来ない身」
 普段は大きな顔をして、肝心な場面では護られるしかないのだ、結局は。
「だからこそ、ですよ」
 何が羨ましいのだろう。関羽の無能さに傷付いているのは、寧ろ荀の側に見えた。
 知識人の仮面の下は、こんなものか。不意に剥がれたその素顔は劉備に似ていて、どこか関羽自身にも似ている。禍々しい敵意は偽善的な微笑みより、余程人間らしくて安心出来る。
「ではご免」
「小兄者!?」
「……ご機嫌よう」
 今度は振り返らず、関羽は元来た道を引き返した。水音を立てて、張飛も後へ続く。
 巫山戯た挨拶を残して荀も立ち去ったのだろう、集まった衛士達が二手に分かれ、一方は慌てて奥へと向かう。残った方の監視の視線に見守られ、今度は簡単に門を潜った。
「なあ、どういうことなんだよ」
「荀文若は、今日兄者が呼ばれた件に関与していない」
「それが?」
 衛士の目を気にして我慢していたのだろう。背後で門扉が閉じられ、初めて張飛は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「曹操の意図は知らんが、あれが関わっていない以上、兄者の身に危険はない」
 言を左右にして相手を言い包めるのは、我が主君が最も得意とすること。元々劉備に悪意を持っていない曹操なら、どうとでもなるだろう。
「だからこそ我々を乱入させ、兄者への心証を悪くさせようとしたのだ」
「そっか……」
 張飛は荀の外見に誤魔化されているところがある。種を明かされてがっくりと肩を落とす濡れ鼠の姿は、図体が大きいだけに哀れもひとしおで、励ましたくなった関羽は思いきり背中を叩いた。
「ぃて、……でも俺、やっぱり悪い奴に見えないんだけどなぁ」
 いつもなら叱りつけていたところだが、この時ばかりは違った気分である。
「そうかもな」
 屋敷に帰ったら、孫乾に謝ろうか。
「早く帰って衣を乾かさんとな」
「このままだと風邪を引いちまうもんな!」
「お前だけは大丈夫だろうが……っと」
 足を速めれば、思い切り水溜に足を突っ込んだ。義弟ばかりを嗤えない。
 ……他に術はなく。
 信じるのも、一つの忠義だと思い込む。
 
 
 
 
 
 



 
〈続〉
 
 駄文の間に戻る →先

……今度は無闇に長くなってしまいましたのう。
孫乾八つ当たり編と令君対決編で前後に分けようかとも思ったのですが、同一視点が連続するのを忌避したい個人的お約束で、このままダラダラと繋げました。荀視点にしようかと考えてたのも、同理由によりヒゲ視点に変更。
親玉同士が「酒を煮て英雄を論じ」てる間の裏場面。当初はこのシーンも書かないつもりでしたが……さぞ意味不明になっていたでしょう(汗)。

演義他諸々のメディアでは関張はしっかりと乱入しているのが名シーンなので、すごすご退散させた結果後味悪くなってます。やったー(何)。
しかし宮城とか官庁の造りが全然解らないので、かなり嘘っぱち連発。
民間伝承的には、曹操は景福殿に住んでいるのでしょうか。ってゆーか其処が司空府?広い意味での宮城内クサイので、関張はもっと手前で足止めされてること請け合い。
とはいえ、後漢洛陽では三公府、宮城(南宮)の外にあるので、別に大丈夫かもしれませんが……。
許昌に関する論文読んでも外城・内城の存在くらいしか分かんないし、実のところ居住区と軍事施設と政庁がごっちゃになったアバウトな空間なのかも、当時の許昌。もう匙投げました(苦笑)。
都合良く、好き勝手に空間捏造致しますよ!(今までだって…)イメージとしては上下反転の城で(これは見当つく)。
ぺろっと簡単に調べた城郭史とゆーか図とゆーか、譫言で纏めてみたい気もするのですけど。自分でも全然体系化出来てないし(どこからが外朝で内朝なのかすら理解してないアホ)、本に載ってた図を無断転載するのも問題ですし、参考文献だけ挙げて誤魔化してしまう可能性大(死)。
ってゆーか、いつも本筋と関係ない箇所で詰まってますのう……。