少しだけ身体を休めようとしたら、そのまま力が抜けてしまった。
 寝るのなら衣服を改めなくてはならない、この期に及んでも口喧しい己の良識に耳を傾けるか否かを軽く逡巡しながら、牀榻に横たわった荀は瞼を薄く開けた。
 膏の少なくなった燈火は広くない私室の隅々を照らすには至らず、ちりちりと呟きながら弱々しく瞬いている。その灯すら厭わしくて右手を顔の前に翳すようにすれば、影絵のように輪郭だけがうっすらと浮かび上がった。
 ふと、厭うたのではなく、この朧気な灯の存在こそを確認したかったような感覚に襲われた。思考が支離滅裂で、脈絡がない。
 事態が思わぬ方に転がることなど初めてではなく、自分はこんなにも弱い人間ではなかった筈なのに。


 
 昼間、孔融の嫌味を聞いて、その足で満寵の元へ向かった。
『私は許の令としての職務を果たしているだけです』
 楊彪を逮捕したのは、袁術の姻戚である彼がその没落によって、元々折り合いの悪かった袁紹寄りに転向することを恐れたからである。
 いくら寿春で勢力を伸ばしているように見えても、袁術如きは初平四(193)年に河南東部から追い出された時点で曹操の敵とはなり得なくなっていた。挙げ句の果て、天子の位を詐称するに及んで、多少楊彪が親袁術の素振りを宮中で見せようとも、高名な楊彪の見識が疑われるだけのことである。
 しかし余りにも弱くなりすぎた袁術は、不倶戴天の間柄であった異母兄との関係修復を図る動きを見せていた。かつては袁紹からの処刑要請が来るまでだった楊彪も、袁家の縁戚であるには違いないのだ。
 『二袁勢力が合流する前に、都から放逐する理由が欲しかっただけだと、説明致しましたでしょう?』
『令君にどのような意図がおありでも、楊元大尉が告訴された以上、真偽を糺すのが私の職務です。捜査に手心は加えられません』
 表情を変えず淡々と答える満寵は取り付く島もなく、正論なだけに荀も何も言えなくなった。
『冤罪なのです。証拠は出て来ませんよ』
『その際は釈放するまでです』
『……あなたのような方を配下に持って、主公は幸せ者ですね』
『融通が利かず、申し訳ございません』
 頭を下げる。本音か嫌味か判断の付かない声音に、がっくりと疲れが押し寄せた。
 

 互いに、個人的な意趣で対立した訳ではない。どちらが正しいという訳でもなく、満寵には満寵の、自分には自分の期待されている役割があって、今回は偶々それがぶつかってしまっただけなのは理解している。
 だとしても、微塵の迷いもない相手を前に、曹操の臣としての己にたいする不安が込み上げてくるのは抑えようもなかった。
「全く、だらしのない……」
 全てを手にしたと錯覚したのも束の間、ずっと他人を羨んでばかり。
 口中で呟き、手を敷布の上に投げ出した。
 




 
 
 ゆらりと空気が揺れ、灯が消えた。
「董承が、劉備に接触しましたよ」
 沈殿した夜の大気を掻き回し、訪れた暗闇の中を危なげない足取りで忍び寄る。郭嘉は牀榻によじ登ると、荀の耳元でそれを囁いた。
「……何故、そなたがそれを謂いに来るのです」
 起き上がろうとして、覆い被さる男の手に肩を押し留められる。眉を顰めたのを視認出来たのか、郭嘉は小さく吹き出した。こちらからは相手の表情までは読み取れないというのに。
「車騎将軍の邸に、人を配していた筈ですが。彼らは止めなかったのですか」
「董承が気付く前に、俺の一存で制しました。尾行は続行させていますけど」
 悪びれた風もない。
「そなたが夜に暇を持て余すとは、珍しいこと」
「勿論、この後も逢瀬の約束がありますが」
 含まれた棘を軽くいなし、郭嘉は堂々と嘯いた。
 ……軽く痙攣した肩の動きは、伝わってしまったろうか。せめて表情は見られていませんようにと願うも、自身がどんな顔をしているか想像もつかない。
「なら、早く行っておあげなさい」
「一応報告を、と思いまして。伯寧どのに泣かされたと聞いて心配でしたし」
「誰も泣いてなどいません!」
 かっと、頭に血が上る。振り払おうとした拘束は逆に力を増し、郭嘉は荀の上体を敷布の上に縫い止めた。初めて、身動きの出来ない今の体勢に恐怖を感じる。
「……何故、そんな勝手をしたのです」
 身を固くした荀は、しかし抵抗を早々に放棄して投げ遣りに問い掛けた。小さな苦笑を荀の首筋に落とし、郭嘉は敷布に額を擦り付ける。
「端午の儀式で、董承に下賜された玉帯。ええと……輯、呉子蘭……」
「王子服」
「ああそうでした。奴ら、結構マジっぽいっスよ?」
「実行力のない者達のままごと遊びは初めてではありません。しかし劉備が名分を手に入れれば……奉孝?」
 首を動かせば、くつくつ笑う郭嘉の項がぼんやりと見えた。漸く闇に慣れ始めた目に、解れ毛が二筋、首元に落ちかかっているのが映る。
「脅しつけて無かったことにさせるには、今回連中の気が立ち過ぎてません?巻狩りの事といい、楊彪の事といい」
「そなたの所為でしょう」
 恨めしく呟けば、「責任転嫁は良くないですよ」との言い草。
「考え方を変えてみましょう。今まで通り奴らの可愛い暗殺計画を潰して回るのはイイですが、溜まった不満が大爆発しても困るでしょ?適度に発散させてやらなくちゃ」
「……効果は?」
「袁家との決戦を前に、獅子身中の虫の焙り出しと、劉備排除の正当な理由」
 上体を起こした郭嘉は、至近距離で荀の顔を覗き込んだ。やや色素の薄い瞳を見返せば、目を見開いた白い顔が反射する。
「理由作っちゃえば、主公も反論出来ないデショ?」
「奉孝……」
 唇を歪めて悪童の笑みを見せる男の顔に手を伸ばし、荀はその頬を包み込んだ。
「掌の上で踊らせておいて、折を見て一網打尽に。今収束出来たとしても、不安材料の残るまま許都を空にするのも難ありですし」
 個人的な好悪の情を別にしても、悪くない策。そう思うのも私情か。
 主をなるべく危険から遠ざけるのが役目と心得つつも、曹操の命を握る自覚は愉悦ですらあった。
 国事に礼を述べるのも奇妙。元よりそのつもりで動いていたのか、今後の方策をあっさりと提示した郭嘉の頭脳に空恐ろしさと……妬心を覚える。
 そして、疲れを拒んでいた気負いが解けていくにつれ、睡魔をはね除ける最後の気力を失った。
 諸々の感情の綯い交ぜになった戦慄をどう言葉にすれば良いのか解らず、
「この件はそなたに一任します。……頼みましたよ」
辛うじて取り繕った先輩参謀の声音で、それだけを告げた。
「了解。必ず吉報をお耳に入れましょう」
 全てを心得た笑みで応え、手を翳した郭嘉は荀の瞼を閉じさせる。
 
 




 
 急速に訪れる眠りの霧に、荀は身を浸す。
「だから、しばらくは大人しくしといて下さいね?」
 離れていく温もりに手を伸ばそうとして、適わず意識を攫われた。
   
 




 
 
 
 
 
〈続〉
 
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章分けを、思い切って変更しました。
その所為でやたら短い章やらクソ長い章やら出てきて、バランス悪いことこの上ないんですが。
視点の移動や時間の変化を解りやすくするため、こんなかんじに。
不評芬々なら戻します〜(^^;)

よく考えたら、私、幕間部分だけを書きたいのかもしれない……(そんな!?)。
ウチのサイトの最強キャラは基本的には荀さんですが、そんな令君も満寵のことは苦手(笑)。
実は強弱関係は、荀攸>満寵>荀>曹洪>曹操くらいで(大笑)。その下に程とか楽進が来てみたり……。