「んもうっ、お姉様も何とか言ってくださいな!」
 糜氏の甲高い声に促されても糟糠の妻は微苦笑を浮かべるだけで、夫の肩を揉みほぐす手を休めない。
 一日の終わりを目前に、劉備は己の寝所で妻達に囲まれていた。
「天下の左将軍ともあろう方が、農民の真似事をしたいだなんて!」
「土いじりも楽しいぞ、健康にも良いし。お前はそう思わないか?」
「え、ええ……」
 同意を求めれば、伏し目がちの甘氏はこくこくと頷いた。
「あんたは何を言われたって『はい』しか言わないんでしょ!?」
「まあまあ」
 癇癪を起こした糜氏を、柔らかな声で蘇氏が宥めた。
「殿には何かお考えがあるのですよ、本当に為にならないと思えば家臣の方々が止めてくださいます」
「はぁい…」
 己には知らされぬ考えに振り回され、何度も命の危機に晒された女の言葉は深い。妻達の小さな言い争いには素知らぬ風を決め込みつつ、劉備としては居心地悪さを感じていた。


 その意味では劉備にとって、この時間が壊れることは天祐であったかもしれない。
「親分、ちょっと」
 名乗りもせず、こんな呼びかけをしてくるのは今では一人である。
「ちょっと憲和、何こんなトコまで来てんのよ」
「いいじゃんこんくらい。小姐も気が小せえなあ」
 案の定、悪びれもせず主君の寝所にずかずか入って来たのは、一の古参である簡雍。
「どうした」
「お客さん」
 簡潔だが今ひとつ状況の掴めない一言に反応して、妻が着替えを用意し始める。一泊遅れて、側室達も着替えを手伝い出した。
「丁重にお迎えしたか」
 誰にしろ、約束もなくこんな夜更けに訪れるとは、尋常な用事ではないだろう。
「子仲と公祐が相手してる。その辺は如才ない奴らだから大丈夫だろ」
 一人のんびりとした簡雍は、欠伸混じりに答えた。
 
 
 






 
 着替えを終えて、急いで向かったその先。
「夜分申し訳ない、劉皇叔」
 一人の初老の男が待っていた。
「あなたは、……ええと…」
 思い出した。董承。確か帝と縁続きにある……。
「皇叔、どうか、陛下を、あの曹賊からお助け下さい……!」
 車騎将軍の肩書きに似つかわしくない緩慢な動きで、董承は劉備を伏し拝んだ。
 己の意志とは無関係に、得体の知れないモノに絡み付かれる不快感。とはいえ、扱いさえ誤らねば、この駒は計り知れない利益を生むだろう。
 地に額を擦り付ける董承の後頭部を半眼で見下ろしつつ、劉備は素早く思考を巡らせていた。
 
 
 
 
 
 



 
〈続〉
 
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劉備のお百姓さんごっこと献帝密勅事件の因果関係を外しましたが、まあ勘弁してくんなまし(言い訳ばっかだな…)。
つーか短。
このシーン書く必要があったのか疑わしいですな。……かなり最近になるまで、書くつもりありませんでしたし(汗)。