額を流れる汗を拭い、陳羣は肩で息を吐いた。
 最近は紙も普及しつつあるとはいえ、文書の大半は今でも木簡である。積み重なる文書の山は、大層嵩張るし重い。
「長文どの?休憩致しましょうか?」
「いえ!」
 振り向いた先の荀は、書き物の手を止めていない。陳羣を気遣っての発言であることは明白である。
「あと少しですから、やっちゃいましょう」
 空元気であるが、断言した。思惑通り、顔を上げた荀は労るような笑みを向けてくれる。それだけで多少の疲れなど感じなくなるものだ。
 窓の外は爽やかな初夏ではあったが、彼の人からほのかに漂う薫りを楽しみたくて、陳羣は敢えて部屋を閉め切ったままにしている。先程から下官も遠慮して入って来ない書庫は、密談の場にも相応しかった。
「ですが…何のつもりでしょう、潁陰担当の典農官による脱税だなんて……」
「信憑性は薄いと思いますよ、投げ文の主は調査させていますけれど」
 現在二人が繙いている文書は、本来彼らの職務とは関係ないものである。ただ、兵糧確保の手段として屯田が設置された事情には、進言者の棗祗の相談を受けた荀も深く関わっていた。正体不明の密告者も、その点を踏まえた上で典農中郎将の任峻でなく、尚書令の荀の屋敷に文を投げ入れたのかもしれないと思う。
 探していた書簡は、随分高い位置にあった。陳羣の背では、手が届くか微妙なところだったが、踏み台を持ってくるのも面倒である。棚に手を掛け、爪先立ちになった。
「疑わしい点が見付かれば伯達どのに報告しますが……、真偽の解らない段階で、あまり大事にしたくありませんからね」
 荀が苦笑混じりに洩らすのが、陳羣の心を灼いた。大事ないと考えていても、同志を疑う作業はあまり気持ちの良いものではない。
「わっ、私の目から見ても、大丈夫なように見えます!根拠のない中傷じゃないでしょうか?」
 他の県からの収益と比べても、今のところ目立った不審は感じない。それは先刻からお互い了解していることで、この場に必要なものは安易な言い繕いでなく曇りのない明確な証拠なのであった。気の滅入る作業は早く終えてしまいたい。
 だというのに、そういう時に限ってなかなか書簡に手が届かないのだ。
 小さく飛び跳ねて……焦りが手元を狂わせた。
 
ガラガラガラガラ。
 
「っひゃあああっ!!?」
「長文どの!?」
 何かが降ってきた、と自覚したのは、崩れ落ちてきた大量の木簡で頭をぶつけた後である。
 角が、額に当たった。痛い。物凄く痛い。
 余りの痛撃に、陳羣は額を抑えて蹲った。と。
「大丈夫かい?」
 すうっと、目の前に影が落ちる。介抱しに来てくれた荀だと信じて疑わない陳羣は、そろそろと頭を上げた。その瞬間荀の物とは違う、癖の強い薫りが鼻を掠める。
「ええ、おかげさ……ぃて!」
 それを疑問に思う間もなく、陳羣は再び蹲った。
 ぶつけた箇所にデコピン。その傷口に塩を擦り込むに等しい真似をしてくれたのは。
「っ、くくくくくっっ」
「……文挙どのぉ」
 いつの間に入って来たのか。陳羣の苦しむ様を愉快そうに観察している孔融その人である。
「相変わらず面白いねえ、君は」
 助け起こすでもなく立ち上がった、その際にも麝香系の強い匂いが振りまかれる。
「余計なお世話です……」
 改めてまじまじと眺めた孔融は、陳羣には理解出来ない服の着こなしを除けば素直に感嘆してしまう、風流才子の名に相応しい佇まいである。広い袖を翻せばふわりと風が流れ、開け放された書庫の扉から去っていった。
 そう言えば荀は、と立ち上がりつつ目線を動かせば、何事もなかったかのように書簡を眺めている。陳羣は少し落胆した。
 その陳羣の視線を追った孔融は得心したように笑む。
「そう、荀令君が孤閨の寂しさを紛らわせる為に新しい燕を飼ったと聞いてたけど、君だったんだねえ」
「は?」
 突如声を張り上げた、孔融の言葉の意味不明さに、陳羣は額の痛さを忘れて眉を顰めた。
「燕なんて飼ってらっしゃいましたか?」
 荀の方を振り返っても、顔を上げるどころか、返事もしてくれない。悲しくなったが、その様子をくつくつと笑う孔融の所為だということは、朧気ながら理解出来た。
「なんなんですか、もうっ」
 孔融は父の友人で旧い付き合いである。ついぞんざいな口の利き方になった陳羣を咎めることなく、孔融は「やっぱりねえ」などと頷いた。
「噂、知らないか。曹公の寵愛が薄れた腹癒せに、恋敵の劉玄徳に嫌がらせしてる……」
「はぁ!!?」
 陳羣は耳を疑った。
「何ですかそれ、誰が言ってるんです!?汚らわしい!!」
 思わず、孔融の襟首を掴んでがくがくと揺さぶる。
「結構みんな言ってるし、ねえ令君?」
 陳羣の激昂は予想の内だったか、気にした素振りもなく孔融は、喧騒を無視し続ける荀に水を向けた。
「……………」
「でもねえ、そんな理由でもないと納得出来ないんだな。劉備は義に厚いなかなかの男だし、それは一度援軍に来て貰った私も知ってるけど」
「……その助けにも関わらず、あなたは領地を保てなかった訳ですが」
 ようやく荀が重い口を開いたが、今度は孔融の方が聞こえないふりをする。
「漢室への忠義にせよ、少なくとも曹公よりはマシじゃないかなあ。この間の……」
「文挙どの!!」
 沈黙を続ける荀より、陳羣の方が先に限界が来た。悲鳴に近い叫びに、流石に言い過ぎたと悟ったのか、孔融も口を閉じる。
 
 気まずい沈黙を破ったのは、意外なことに荀である。
「何か御用があったのでしょう?」
 気を取り直した面持ちで、孔融は頷いた。
「そう、楊文先どののことだけど」
 先程投獄された楊彪の名に、二人は眉を顰めた。
「もしかして、冤罪が明らかになったとか?」
 期待の籠もった陳羣の眼差しを、孔融は首を振ることで払い落とした。
「あの満寵とかいう官吏、話にならない。私と令君が手荒な尋問をしないよう頼みに行ったというのに、あのご老体に拷問を加えているという話さ」
「………!!」
 陳羣の声にならない叫びを合図としたように、荀は筆を置いた。激情の余韻の残る部屋に、かたり、という硬質の音が意外に大きく響く。
 二対の眼差しから注目を浴びた荀は、平生の穏やかな仕草を崩さずに腰を上げた。
「……少し席を外します。長文どの、後はお願い出来ますか」
「は、はいっ!」
 事情が解らぬまま頷いた陳羣に微笑みかけると、故意に孔融を無視したまま傍らを擦り抜け、荀は書庫を後にした。
「後、というと……」
 調べ物はともかく、床に散乱した木簡を片付けるのは手間が掛かりそうである。下官を呼んでやらせるのも、気が引けてしまう。
 孔融が手伝ってくれる筈もないし……、儚い期待を抱きつつ長身を見上げれば、視線に気付いた孔融はにっこりと笑いかけた。手伝ってくれるかは解らないが。
「……可哀相にねえ」
「はぁ?」
 自分のことかと思ったが、少々ニュアンスが違う。
 孔融は馬鹿にしたような、それでいて愛おしむような声音で、それを呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
〈続〉
 
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お久しぶり鹿更新。やっと孔融が出せたのでやれやれ。若いツバメって、明治以降の国産語(平塚雷鳥と奥村博史恋愛事件)ですが、その辺は気にしない(笑)。
陳羣のデコに木簡ぶつける為だけに脱税事件でっち上げましたけど(だからガセだったということで)、この辺の事情をどう説明するかで、本筋とは関係ない部分で悩んでました……(アホ)。任峻(字は伯達)は官渡で兵器と食糧輸送を司ってたので、前年から忙しくしてた……かもしれない(言い訳)。典農中郎将は建安18年に大司農府の下に入るまでは曹操に直属してたと思うので、屯田設置関係者の荀もある程度関わってても怪訝しくはない気がします。許都周辺から潁川郡一帯がそもそもの屯田の発祥地なのも、あの辺りの地主である荀(や後には陳羣)のバックアップあってこそ。……ただ、屯田による官田の割合が増える程、彼ら地元名士の権力基盤は劣化していく訳ですが。