木漏れ日の向こうに覗く空は、限りなく蒼いように見えた。穏やかな日和である。
 梢の間からは、勢子の獲物を追う独特の声音が切れ切れに反響し、不思議な妖異が住まわっているかの如くであった。その感覚を、好ましいものとして荀は受け止める。
 ふと、こちらへ近付いてくる馬蹄の響きを聞き留めた荀は、のんびりと歩む馬の手綱を握り直し、改めて正面の狭き道を見据えた。小さい林を抜ければ、視界の開けた場所へと繋がっている筈である。敢えて薄暗い木立の狭間に舞い戻ろうとする、奇特な者は。
「ああ、居りましたな。先程から姿が見えないので心配していたんだが」
「元譲どの」
 息を切らした様子もなく器用に馬を操る隻眼の武人に向けて、荀は穏やかな笑みを浮かべる。
「ご心配有り難うございます。ですが、主公のお側にいらっしゃらずとも?」
「あっちは俺以外にも猛者が大勢控えているからな。一人くらい居なくても変わらんよ」
 荀の笑みに応えるように馬首を返して横に並んだ夏侯惇は、歴戦の将とも思えぬ驚く程人懐っこい笑顔を見せた。その『猛者』たる麾下の将軍達を曹操の周りに配置したところの荀は、その言い草に小さく吹き出す。
「それでも元譲どのお一人がおられるだけで主公も如何ほど心強いか。
 私はこのままゆっくり進まないと落馬してしまいますので、どうか気にせずお戻り下さい。後から必ず合流致します」
 その言葉が真実であることは、過去に馬術の師であった夏侯惇にはよく判ったのだろう。
「孟徳も気ぃ遣って馬走らせれば良いのになあ」
 納得しがてら悪態を吐いた。
「それでは狩りになりませんでしょうに」
「それはそうですな……と、奉孝の奴は?あいつでも居れば文若どのがお独りにならないだろうに」
 思い出したように夏侯惇は問うと、朝から姿の見えない男の姿を探すかのように、辺りをきょろきょろと見回す。
「例の如く仮病です」
「あぁ…」
 困ったものだと肩を竦めれば、全くだと大きな頷き。語調程に咎めているでない風はお互い様である。
「気を付けて下されよ」
 過保護な親の如き一言を残し、一度振り返った偉丈夫が再び馬足を速めるのを見送って、荀は何とはなく自分を乗せた鹿毛の首を撫でた。他の者より多く布地を使っていようとも普段とは比較にならない簡素な胡服が、腕に違和感を伝える。
 再び、独り。
 確かにこの場に郭嘉が居れば、騎乗が巧みでない者同士周りに気を遣うこともなかったであろうが、曹操に良からぬ考えを吹き込んだ当人が面倒臭いと欠席である。郭嘉が騎射どころか乗馬すら満足にこなせぬのは、教えてやれなかった荀の責任でもあろうが。
 士大夫階級の者とはいえ、上手く馬を乗りこなす者はそれなりに多い。しかし荀は曹操の幕下へ馳せ参じるまでは、一人で騎乗したことすら皆無であった。
 武器を持つ必要はなかったとはいえ、転戦を続ける軍の司馬として参軍するのである。馬車に揺られるだけでは困ると夏侯惇から武具の扱いや馬術を習ったが全くものにならず、馬と言っても並足で走らせるのが精々という段階で匙を投げられた。結局最後は輜重と一緒に荷車で揺られていたというのは恥ずかしい記憶である。
 郭嘉は独力で覚えたらしく形ばかりは乗れるようだが、大して馬が好きではないらしい。荀も上から見下ろす巨体は恐ろしいが、目ばかりは優しくて素敵だと思う。強くて優しい武人に似ている。
 鞍上の人の考えに応えたか、自慢気にひくひくと耳を動かす鹿毛の様子に笑みが零れた。
 
 
 
 しばらく薄暗い木々の間を歩けば、不意に周囲の光量が増して目を細めることになった。
 少々の潅木の他は丈の短い草ばかりが一面を覆う空間が、果てのないように続いている。見晴らしの良さそうな小高い丘に集まった馬上の一群と、兎などを逐っているらしき幾つかの騎影、林から獲物を追い出そうとしている勢子の姿が疎らに見えた。猟犬の頻りに吠えるのが、大層かしましい。
 ひっそりと林から現れた自分の存在は、気付かれていないようだった。それを察知した荀はあくまで自己主張することなく、各人の表情の読み取れる位置を求めるべく手綱を動かした。
 集団の中心には守られるようにして帝が在る。お召し馬である逍遙と馬首を並べるようにして曹操愛馬の爪黄飛電が遙かを見据え、二騎を囲むようにして曹操麾下の諸将が並んでおり、遠目からでも壮々たる陣容が伝わってくるようであった。普段帝の側近くに仕えておる廷臣達は、弓矢を手にしつつも荀に似た覚束無さで馬上にあり、かなりの後方から恐る恐る彼らの様子を窺っている。
 巻狩の話に当初は難色を示していた帝が意外に楽しそうなのは、居並ぶ諸将の中に劉備主従が含まれているからのようである。血縁だからと言って何を期待しているのか現金なものだが、それだけではないかもしれない。昂然と顔を上げて景色を楽しんでいる青年は、二百里に限られた空間とは思えない見渡す限りの草原に、開放感を掻き立てられているようにも見えた。確かに蒼穹は天に突き抜けるかの如く、穏やかな天気と相俟って気持ちの浮き足立つような日である。
 狩猟は、しかし単なる遊戯ではない。古の聖王の御代には諸侯の集う大蒐礼として、軍の編成や将帥・執政の任命をはじめとした政事軍事の一切を取り仕切る為の重要な行事であった。現在でも狩りは模擬的な軍事訓練であり、帝は与り知らぬ事とはいえ、今回の狩りには袁紹に対する威圧と挑発の意が含まれている。勢子に駆り出された兵士達を含めて、許都に待機している全軍の殆どが今回の巻狩りに参加していた。諸将の顔触れを見ていれば、それにも納得がいく。先程別れた夏侯惇が荀の姿を認めて小さく手を振るのに、思わず顔が綻んだ。
 曹操は、と見れば相変わらずの上機嫌である。何やら企んでいるとすれば弾む気持ちも尚更であろう。
 帝が何かを指差し、促されるようにして一団は丘を駆け下りていく。廷臣達も遅れじと馬を走らせた。それに交じるようにして荀も騎馬を進め、漸うと一群の後方に陣取る。周囲の者達には彼が合流したことも気付かれたであろうが、荀としては劉備の見えぬ所で目立たず注視を続けられれば構わないのである。
 おそらく郭嘉は、敢えて帝と同じ場で不敬とも取れる行為を働き、その際の反応から劉備の向背を試そうとでも曹操に嗾けたのであろう。一度命の危険を感じてから、曹操は帝へ伺候していない。帝の領域である内殿では滅多な事は出来ないが、自軍に守られた巻狩りの場では見晴らしが良いこともあり、危険はないと踏んだに違いない。
 それが判るから、荀はなるべく曹操の側から離れないよう諸将一人一人に頼んで、不心得者が激昂した挙げ句曹操の身を害すことのないよう、警戒しているのである。確かに帝の少数の衛士はこの場では役に立たない。事前に釘を刺しておいた、満足な動きの出来ないお飾りの類に至っては論外である。
 しかし、この場には劉備が居た。
 滅多なことはしないと思う。あのしたたかな男が何を起こすか、だが荀には心配で堪らない。
 ……郭嘉には主の安全を思い遣るような心はないのだろうか。
 居ない人間に心の中だけで不平を漏らせば、現実への対処が遅くなる。己を見据えている内に、おお、と湧く歓声の原因を見逃した。
 慌てて草を食んでいた馬を促し近付けば、勢子の一人が高だかと一羽の兎を掲げている。その胴を矢が貫通しており、兎はぐったりと四肢を垂らしていた。
「叔父上、見事でございました。……」
 帝のやや高い声が風に流されて切れ切れに聞こえる。劉備が帝の指命で兎を射たらしい。
 賞賛を得た劉備は、恐縮したように愛想笑いを浮かべている。曹操も呵々大笑すると、労うように劉備の肩を叩いた。
 すうっと、思案するように荀の眼が細められる。
 と、今度は一頭の大ぶりな鹿が、林から逐われて走り寄ってきたのが荀にも見えた。数頭の猟犬を従えるようにして、王者の風格すらある大鹿は草原を横断し、追跡者から逃れようと試みている。
 帝は、劉備の手柄が大層興に乗ったのか、今度は手ずから仕留めようと馬を走らせた。その後を追うように、一群もゆるゆると移動する。
 しかし、速度を増した馬にしがみつくので精一杯にも見える帝が上手く狙いをつける事が出来よう筈がない。それでも必死で三度矢を放ったが、全て見当違いの方向に飛んでいった。そうする間にもみるみる鹿との距離は開き、帝では射止めるのが難しくなっていく。
「曹操!そちが射てみよ!!」
 とうとう自分では諦めた帝が、後方で待機している筈の臣下を呼ぶ。
「御意」
 と応えたのか、後方にいた荀からは聞こえなかったが、曹操は帝が思っていたであろう以上に近くを駆けていた。今までの走りがお遊びであった事を誇示するかのようにお召し馬を追い越すと、すれ違いざまに帝の手から弓矢を奪い取った。そして疾駆する馬の速度を弛めることなく、ひょう、と射る。
 帝専用の金象眼の鏃は走る鹿の後首に吸い込まれた。それでも死を振り切るように数歩駆け、獣は一瞬の後にどう、と倒れた。
 荀は、はじめは何も考えられず見惚れていた。
 しかし、事実の重大さを認識するに至っては感心などしていられない。悪戯を企む悪童の如く、曹操はこの機会を狙っていたのだ。
 自身が憎まれ役を演じる必要などないのに!!
 勢子達が、突き立てられた黄金の矢を見て勘違いを起こしたらしい。やがて獲物を回収しに来た者から伝染するように万歳の声が響いた。
 誰かが止めさせようと口を開きかけたかもしれない。近くにいれば、荀自身が止めていただろう。
 しかしその前に曹操は悠然と帝の前に立ち、あろう事か笑顔で手を挙げ、人々の歓呼の声に応えた。
 
 ……………。
 歓声は、不自然に途切れた。何とも言えない沈黙がその場を支配する。
 慣れない馬を走らせて駆け寄りたい衝動が荀の内に湧き上がった。しかし、意に反して視線はこの機会を逃さず、左手に居る劉備主従に向けられる。
 張飛は何が起きたか咄嗟に理解出来ずに呆然としているようであったが、劉備の傍に控える関羽は、ただならぬ渋面をしていた。劉備は振り返り、義弟に何事か一言二言囁いているように見える。表情が見えないことに、荀は苛立った。
 と、劉備は首を戻した。茫洋とした、いつもの表情の見えない貌である。しかしその劉備の影で、関羽が腰の佩剣から手を放したのを見て取った。という事は先まで剣に手を伸ばしていたということである。
 止めた劉備の魂胆は知れなかったが、彼らは帝、ひいては曹操にかなり近い場所に居る。もし関羽が剣を抜き、曹操に斬りかかっていたとしたら。
 血が凍るかと思った。
 一時的に聴覚が用を果たしていなかったらしい。決定的な瞬間が終わりを告げ、ゆるゆると緊張が解けるにつれて世界は音を取り戻す。勢子達は、先程の場面を取り繕うかのように司空たる曹操への歓声を上げていた。肝を冷やしたであろう騎乗の面々も、強張った笑みを浮かべ、顔を見合わせて安堵の吐息を吐いている。
 帝だけが、屈辱に耐えるかのように顔を俯けていた。
 
 
 
「………主公」
 場がなんとか平常の空気を取り戻した頃、荀はようやっと対話の機会を見付け、部下の手並みを観察する側に回った曹操へと馬を歩ませた。
 帝はその場にはいない。疲れたと言い、数人の供回りを連れて天幕へ引き籠もっている。精神的な衝撃が原因であろう、顔色の悪かった帝は心配であるが、荀にとっては己が主以上に優先すべき事項など存在しなかった。
 深刻な顔で近付く主の懐刀に遠慮して、諸将が器用に手綱を操り道を空ける。
「ん、文若。今まで何処に行ってたんだ? はぐれていただろう、心配したぞ」
先程の一幕を気にも留めていないのか、曹操は気さくな笑顔で部下を迎えた。そうしていても、小柄な体からは見る者を威圧しかねない覇気が溢れている。
 その笑顔から眼を背けるように、荀は目を伏せた。声が震えるのを抑える為に、自然と苦言は弱々しくなる。
「………主公。今後はこのようなことは………」
「ああ、見てたのか?
……すまんなあ。お前には悪いと思ったが、どうせならこれくらい派手にした方が効果的だろうとな。決して朝廷を愚弄した訳ではないのだ、な?」
 慌てたように、遮る。曹操は本心ではない、荀からすれば見当違いの謝罪をして笑った。
 その、不安と確信に満ちた笑顔に、荀の胸は矢に射抜かれたように苦しくなる。
 せめて夏侯惇のような武人であれば、自ら剣を振るいこの人の盾になれるのであれば、ここまで痛みを感じずに済んだのかもしれない。あるいは主の一切に疑問を不安を抱かず、寄り添っていられれば。
 ……嗚呼、でも、そんな役割を期待されて此処に居る訳ではないのだ。馬にも満足に操れぬ自分は。
 泣き叫びたいような、目の前の人に縋り付きたいような、嵐のような衝動が荀の身を震わせる。己の厚い防波堤を前に打ち砕かれた波濤は、絶望に似た苦い余韻の通り過ぎる後には、……何一つ残さなかった。
 この人は、自分が荀の全てである事など、何も解っていないのだ。


「……わかりました。ただ、御身を的にするような事は、二度となさらないで下さい……」
 沢山言いたいことはあった筈だったが、それだけを口にすれば、
「うむ。心配するな」
 曹操は満足そうに頷く。
 機械的に刷かれた微笑の影で、荀はこの場から逃げ出す算段を練っていたが、どうやって下馬すれば良いのかすら解らない。
 そもそも、尚書令たる自分が曹操との不仲を匂わせる言動を行ってはならないのだ。
「此処からだと良く見えるぞ。うむ、流石に文遠は馬の扱いが上手いと思わんか?」
「ええ、まことに……」
 指差す方など、実は見ていないのだけれど。
 馬上から見る地表は高くて遠い。自分が身を預ける茶褐色の大きな生き物が恐ろしくて、荀は耐えるように手綱を強く握り締めた。
 
 
 
 
 
 
 
〈続〉
 
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はい。巻狩りしてみました。惇兄出すつもりはこれっぽっちもなかった筈なんですが、気付けば……(笑)。
他の面々が『諸将』と一括りなのは、下手に個人名出して、誰かが北とか南とか国境守備に派遣されてたりしたら拙いからです(苦笑)。惇兄は大丈夫なのか……。この人本拠地近くの防備担当ってイメージがあるから、「ま、いっか」とか言ってますが。←アバウト…
張遼は名前だけ出てますね。令君にシカトされてますけど(死)。

そして、初稿では荀泣いてたんです。ですが、泣かないな、と。
曹操の前で外聞なく泣ける人だったら、多分後年の擦れ違いとか仲違いは起こらなかったと思います……。



この演義のシーン。曹操の悪の魅力炸裂で、私は結構好きなんですが。(^^;) 普通曹操ファンはどう思ってるんですかね。
タイトルにもした『中原逐鹿』。天下を争ってる事態を表す慣用句ですが、天下=鹿、と表現した最初は楚漢時代の韓信の部下だった通なんだとの話も。
韓信は劉邦の部下でしたが、謀叛を企んだとの罪状で処刑(冤罪だと思いますけどね…涙…)。で、昔通が韓信に謀叛を勧めてたからと劉邦に釜茹でにされかけて、口八丁で切り抜けた時に「実力抜きんでた者が秦の逃がした鹿を射止めたんだけど、私は猟犬だから韓信の利益を考えるしかなかったんだしー?」みたいなことを言ってた、と。そして許される。
今の形の成語になったのは、唐の魏徴が詩の中で使ってから、らしいですが。
……って、魏徴って、長安異神伝レギュラーの、あのジイサン……??(汗)

羅貫中は結構考えてますよね。
天下の覇権という名の鹿を群雄達が追いかけている中、曹操は帝(の矢)という武器を私物化することによって鹿を手に入れようとしてるんですよね。威光を借りてるとも、利用しているとも、言えますが。
実際、献帝を奉戴した後の曹操の最大の強味は、自分の敵を『帝への反逆者』という形で屈服させられる、その建前ですから。
例の不敬シーンは、ダブルミーニング入ってるんでしょうねえ。

そして、献帝が矢を放っても鹿には届かない。主人公たる劉備の正義を漢室復興に求める以上、献帝には同情的でなければならない筈の演義ですが。
……結構醒めてます、羅貫中。