扉を開け、郭嘉はそのまま肩を落とした。
「酒の匂いに釣られてきたか、小僧」
 常と変わらず顰め顔のまま、本気とも冗談とも取れぬ口振りで程は郭嘉を迎える。
 官吏が出仕する間は、四日間役所に泊まり込むのが慣例である。幹部ともなれば、それなりの誂えの私室を府内に用意されているのが常である。
 目当ての人の不在に幾つかの場所を探し歩いた郭嘉は、居場所候補の一つである程の私室で荀を発見した。とは言っても嬉しくない。
「文若どのぉ〜…、なんでこんなオヤジのとこで寝てるんですかぁ〜〜」
 宴席でも付き合い程度にしか酒を嗜まない人が、小さな酒宴の痕跡そのままに丸くなって眠り込んでいる。うっすらと部屋全体に彼の人の薫りが漂っている気がした。
 席の上に横になっている荀の元に駆け寄り、肩から下に掛けられている上着――おそらく程のもの――を払い除けると、郭嘉はわざとらしく号泣する。
「うえ〜ん、なんて危険な真似を……」
「つくづく失礼な奴だな、おぬしと一緒にするな」
 見た目程には機嫌が悪くないらしい程は、相手をしていた荀が寝入った後、一人手酌で呑んでいたらしい。酒瓶を振り、仕草で促すのに悪童めいた笑みで返答すると、郭嘉は荀の使っていたらしい玻璃の盃を手に取った。
「じゃ、一杯だけ」
「なんじゃ、今日に限って遠慮か?」
「ご機嫌取りの主命が残ってるんですよ」
 寝入る人を起こさないようそろりと傍らに座り、躊躇した後一度剥がした上着を再び着せ掛ける。その様子を観察していた程は、ふんと鼻で嗤った。
「探したのに居ないから、慌てちゃいましたよ」
 誰をかは言わずとも解るので、程は無言で頷く。差し出された盃に、白い酒を注いでやった。
「偶には憂さを晴らしたい日もあるだろうよ」
 一息で呷った郭嘉は、眉を顰める。
「文若どのは、何と?」
「儂に仕事の話はせんよ」
 横目で寝顔を見れば起きている時のように気を張っていない分、疲労の影が顕わな程に瞼の上で蟠っているように見える。
 劉備という獅子身中の虫の存在に気の休まる暇もない上、元大尉楊彪の逮捕を巡って廷臣や名士層との折衝に走り回っているらしい。加えて今日の騒動である。
 建前上は帝の側近として、実質上は曹操の部下として、荀は両者の確執において矢面に立ちやすい。曹操軍の中に独自の論理で動く宮廷を丸々抱え込んでいるのだ。『漢室の為』との建前を振り翳して蠕動し、気を抜くと何時腹を食い破って吹き出してくるのか解らない。獅子身中とすれば、余程其方の方が根が深かった。
 帝の権威は利用価値が高いが、その周りに巣食う穀潰しどもは荀の苦労を無くす為にも皆殺しにしてやりたいと思う時がある。
 自身も憂鬱な表情で、郭嘉は溜息を吐いた。中身の残り少ない酒瓶を手に取り、行儀悪くそのまま口を付ける。
「そう言えば」
 そんな郭嘉を慰めるつもりか、程は重い口を開いた。
「……陳公台は、一度も振り返らんかったと、言っておった」
「へぇ」
 郭嘉が敵としてしか意識したことのない男の名を、ほろ苦い口調で語る。
 彼の最期に立ち会ったのは郭嘉も同じだが、大した感慨とてない。だが一時期同輩として接触していた彼らにとっては、また別の思惑があるのだろう。尤も、どんなことが彼らの間にあったのか知らないし、知ろうとも思わないが。
「愚痴るなら、俺が相手でもいいじゃん」
「儂は劉備は前々から殺すべし、と説いておるがな」
 揶揄うように荀との意見の対立を指摘されて、珍しく眉間に皺が寄る。それだけが原因ではないだろうことは、余計に腹が立つので考えたくなかった。
「送ってく」
「風邪を引かさんようにな」
 瓶を放り出すように置いて、腰を上げた。意識のない荀を負うのに郭嘉が手間取っていても手伝おうという素振りも見せず、程は対岸の火事と言わんばかりに郭嘉が悪戦苦闘するのを黙って眺めている。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
 何故荀が彼の元を訪ねたのか、その沈黙に答えを見付けたような気がした。
 
 
 
 
 ついでに月見でもして行こうかとわざわざ庭に面した回廊を選んで通れば、生憎と雲に隠れて見えやしない。とんだ手間を掛けたと苦笑を漏らせば、漆黒の闇夜から不意に浮き上がるかの如く、梅花が回廊に向かって枝を伸ばしているのを見付ける。
 匂いで解ろう筈だがと首を傾げ、背負っている人から漂う芳香に鼻が慣れきっている自分に気付いた。
 梅は好きな花である。香りも良いし、果実も美味しい。
「……あれ? 奉孝……」
「起きちゃいました?」
 僅かな身じろぎと共に目を覚ました人に、声をひそめて確認する。まだ完全には覚醒していないのか、荀は小さく唸ると、引き寄せるような仕草でしがみつく手に力を込めた。
「なんで奉孝がいるの?」
「ご機嫌取りの任務があったんですよ。なのに当人が居ないし」
「ふぅん」
 言葉の意味を理解しているのかいないのか、寝起きの荀の口調はどこか舌っ足らずで夢見心地である。
「もう、自室以外で前後不覚に眠っちゃうなんて、危ないじゃないですか。ご自分の身がどれだけ重要か解ってます?」
 つい数日前に、とうとう公孫が滅びたという情報が入った。易京の防御は袁紹軍の掘った地下道によって切り崩され、抵抗を諦めた公孫は妻子を殺害した後自らも命を絶ったということである。
 後顧の憂いを取り除いた袁紹は、本格的に曹操との対決を考え始めているだろう。きな臭くなる一方の情勢、各陣営に多数の間諜が潜んでいて当然という時世である。曹操の片腕ともされ、非力な文官でもある荀が暗殺の格好の対象となる可能性は考えられた。
「ふふ、普段とは逆ですねぇ、奉孝が説教するなんて嵐の前触れか……」
 小さい子供の説く道理を微笑ましいと、本気で可笑しがっている時の声だ。
「これでも心配してるんですからねっ」
 ぷうと頬を膨らませば、気配で解ったのか忍び笑いが聞こえた。
「私とて自身の利用価値くらい承知していますよ」
 昼間は眦を吊り上げていた人とは思えない柔らかな声で、荀は言い切った。芯にある冷えた響きに、郭嘉は耳を澄ます。
「本初どのが私を殺そうと考える筈がない。私が許にいると考えれば、別働隊を組織して一気に本拠を衝くような策も採らないでしょう」
 自明の理として言い切る。根拠もない慢心に見えて、所詮はその通りだった。
「兄上からの書信には、いつも一言ありますよ。自分が見放されていると、まだ本当の意味では気付いていない……」
 声には、哀れみと慈愛すら混じっていた。袁紹は名家の貴公子らしく、元来優柔不断で甘いところのある男である。しかし自分に対する情誼を風化させない為に、荀は計算ずくでかつて見捨てた男へのありもしない未練を仄めかしている。
「槍の穂先を鈍らせた相手を屠るのは、暗殺より卑劣じゃないですか?」
「さあ、そうかもしれませんね」
 袁紹に仕えている兄の荀に対するものに見せかけた遣り取りを、郭嘉は間諜の調査で入手している。大々的に暴露すれば内応罪で処刑されかねない程の証拠だが、多かれ少なかれ名士層の人間は他陣営の者とも交友があり、戦時下においても行われる書信の往来が彼らの情報源になっていることは暗黙の事実とされている。誰もが近いことを行っているのが現状で、郭嘉も子飼いの間諜を多数送り込んでいる他に、やはり同郷の辛評との書簡の遣り取りを情報源にしていた。
 曹操はその点に関しては度量のある主君なのである。問題とすべきは行為ではなく、もたらされる効果。曹操の利益に繋がる限り、彼が臣下達を罰することは有り得ない。
 ……それは同時に、利益になると判断すれば冤罪であろうとも罰しかねないという意味でもあったが。
「酷い人だなあ」
 郭嘉は、ふと、ちりちりと内奥で疼くものを感じる。間違っても青臭い正義感などではない。
 騙され、破滅へと引き立てられるばかりの屠所の羊であろうとも、敵は今の瞬間も泡沫の栄華の中で信じたい言葉だけを信じている。
 羨望、に似ているかもしれない。
「主公の御為ですから」
 ほら、酷い人だ。ちりり。
 曹操の為だけに動くと言いながら、政敵になりかねない郭嘉が自分に不利な証拠を握っていようと気にも留めない。無意識下の全幅の信頼が、郭嘉の呼吸を雁字搦めに縛る。
 最初にそう在るべく決めたのは、自分自身なのだが。
「まあ、もうすぐ終わりますよ」
 なるべく明るい声を意識して、背負う人に笑いかけた。小さい子供をあやすように、年上の人を揺すり上げる。
 悩むのは自分の役目ではない。
「……奉孝」
「はい?」
「ありがとう」
「……なんですかぁ?」
 照れ隠しもあって発された問いには、返答がない。
 首筋の産毛を撫でていく微かな寝息に、郭嘉は痛くなる程の安堵を感じる。
 
 この人の眠りを妨げないのであれば、月など見えない方が良い。
 




 
 
 
 
 
〈続〉
 
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この辺りは書きたかった部分なんですが。挿入というか余話というか、何事も起きてませんのう。
自分では無闇にホモ度を上げただけの回とも見えますが、「どこが?」かもしれない……。ウチのホモは精々この程度っス。
次回で曹阿瞞が許田に打囲します。一応タイトルだし(笑)。
動きのあるシーンをちゃんと書けるものやら、大いに不安ですわ……。