ほかほかと湯気の立つ羮を膳に並べた手に目を留め、劉備は銜えていた箸から口を離した。
「子仲が給仕をしてくれているのか」
「は、妹は気分が悪いと申して、御前に出せない状態ですので……」
「なんだ、また小姐(おじょうちゃん)の癇癪かよ」
「は……」
車座になって夕餐をつつくその正面、湯気の向こうから張飛が野次を飛ばした。揶揄混じりの指摘に糜竺はおっとりとした顔に冷や汗をかいたが、口にした方にも悪気はない。狼狽する糜竺に好意的な笑顔を向けた。
「小姐は美人で気が強えところが可愛いんだろ、気にすんなって」
糜竺の妹は劉備の側室の一人であるが、時折子供のような我が儘を言って周囲を困らせる。同じように裕福に育った兄が穏やかな性格であるのに比べると対照的であった。兄妹なだけあって糜竺やその弟の糜芳と面立ちは似ているが、くるくると表情を変える若い妻の溌剌たる顔を思い浮かべ、劉備は苦笑を浮かべる。
許都の一等地に用意された劉備の館では慢性的に人手が不足している為、家人や臣下までもが端仕えのような雑務を行っていた。現在とて其処彼処に曹操の目は光っているだろうが、なるべく新しい使用人を雇い入れたくないが為の措置である。
糜氏だけでなく不満を感じている者も多いだろう。劉備軍は小規模なだけに家族的結束が強いが、全ての者が関羽や張飛のように気の置けない者達ばかりてはない。
常に、三人で苦楽を共にしてきた。むっつりと無言で酒を飲む関羽、先日の失敗が懲りたのか、ちびりちびりと盃を舐める張飛を横目で見、劉備は甲斐甲斐しく給仕をする糜竺の酌を受けた。
「しかしよ、美人って言えば、今朝のあれ!」
不意に思い付いたように、張飛が明るい声を上げる。饒舌なのは早速酔いが回ってきているからのようで、鬚さえなければ二枚目と言っても遜色ない顔がやや赤くなっている。
「荀…だっけ?なんつーか、男とか女とか、そんなの無視して問答無用で綺麗な人って居るんだよなあ。さすがに人種が違うっての?……いや、姐さんとか甘ちゃんとか小姐とか、大兄者の嫁さん達も充分美人だけどよっ」
じろりと睨み付ける関羽の視線に気付いて、慌てて付け足す。
「益徳」
それがますます癇に障ったか、盃を床に置くと関羽は今夕になって始めて声を発した。
「解っとるのか。あれは曹操の手の者。兄者の敵だぞ」
「わーってるよ。でも俺のこと褒めてくれたし」
「馬鹿者!荀文若と言えばことある毎に兄者の抹殺を企んでいるという噂の、特に危険な相手だ!兄者を真っ先に守るべき立場のお前が騙されていてどうする!?」
関羽はここ数ヶ月の鬱憤を晴らすが如く、怒声を上げる。
「そっ、そんなんじゃねえよ!!」
「兄者もこのお気楽者になにか言ってやってください!!」
不穏な空気を察して、糜竺は奥へ下がってしまった。
次兄の剣幕に涙目になる張飛をまだ怒鳴り足りないのか、関羽は同意を求めて義兄を振り返る。
「そうさなぁ……笑わない方が良いだろうな、あれは」
「は?」
この場の雰囲気とは無関係な、のほほんとした劉備の独白を聞いて、関羽は怒気を削がれたかのように憮然とする。そのまま義弟への説教を中断して、憤懣遣る方なさそうに手酌で盃を満たした。
あからさまに安堵の息を吐いた張飛は、豚の焼き物に興味を移す。
一時に白けた場を眺め、劉備は小さく鼻を鳴らした。別に脈絡のないことを言ったつもりではない。
荀のことである。
一概に、どんな見栄えのせぬ者でも、笑顔になれば美しさが増そうものだが、あれに関しては例外だろう。一分の隙もなく整ったあの顔は、それだけで完成されている。
あの顔に憂情などを見出すのは花に哀れを感じるのと同じ見る者の詩情で、荀自身は無表情の裡で生臭いことを考えているに違いない。
聖人君子の顔の裡で生き延びる為の謀を巡らせてきた男は、自分のことのようにそれが解る。
――笑えば、その完璧さが崩れて醜いものが外に出る。
最後に、仲間の参謀に見せた苦笑が眼前に浮かんだ。嫋やかな微笑の影で、敵意と自負とが燻っている獰猛で危険な笑み。その醜さが彼の真価であり魅力なのだと、一体何人が気付いているのだろう。
名士階級の荀と、劉姓だけを誇りに筵織りから出発した劉備。生まれは違っても、あの者と自分とは似ているのだ。同じく血統という見えないものを武器にして、世間の決めたあるべき姿を装い名を高める一方、その名を隠れ蓑に己の野望を叶えてきた。
(だから、あの者には私のことがよく見えるのだろう。)
劉備は、盃の影でうっすらと嗤った。穏やかな表情、口元だけが酷薄さを帯びる。
己を殺そうと考える意図は、よく理解出来る。
似ているが故に決して、互いに好感を持ちようがないのだ。
いつの間にか糜竺が戻ってきて、傍に控えていた。晩餐に、やっと和やかな空気が戻ってきている。
そう言えば、誰よりも信頼している筈の義弟達にすら素の表情を見せなくなって幾年が過ぎたのであったか。
己の分を弁えた地味な文官を一瞥した後、劉備はふと戻らぬ歳月を想った。
〈続〉
荀が劉備を語るのは結構あるかもしれませんが、劉備が荀を語る。
はっきり言ってライバルの部下程度がそこまで重要視されてるかは疑わしいですが(汗)、良いのです。荀が主役なんだもーん(笑)。
糜夫人は以前主役に書いたことがあるので、そのキャラを匂わせて。「月影〜」完結したら、例によって改作して出すつもりです。
あ、食事風景はわけわかんないので適当。
どーせ劉備軍の奴らが礼儀に則った食べ方なんてしてる訳ないし(笑)。