夜半になって緩やかになった雨が、隙間無く闇を包み込んでいた。
月を隠す暗雲すら夜に混じり雨に混じり、一面をべったりと一色に塗り潰された中では一寸先の形も判然としない。
時折松明を持った巡回の兵が肩を竦めて庭を通りがかる他は変化もない。真っ暗な石畳の回廊は屋根に落ちる雨音の残響を響かせるばかりで、中に閉じ籠もる住人の寝息すら聞こえない。漫然と全てが解け合って夜の輪郭を構成していた。
おざなりのように左右を確認した後、郭嘉は平生よりも多少重たい扉を開けてその室への侵入を果たした。するりと男の残像を残し、無人の回廊は今の一幕を忘れた素振りで雨垂れだけを響かせている。
片手に荷物を抱えたまま、郭嘉は後ろ手に扉の閉まったことを確認した。
じんわりと温い夜気と相まって身動きする度に絡み付くような重さを覚える、逢瀬に向かない嫌な夜だ。折角屋根のある回廊を伝って来た甲斐もなく、衣や髪も水気を含んでしまっている。郭嘉は首筋に欝陶しく張り付いた遅れ毛を手櫛で払い除けた。
そのまま一瞥した室内は、一見して無人に見えた。
外から覗いた際は随分と明るく感じたものだが、慣れれば奥に燈火一つを灯しただけの室内はあからさまに薄暗い。明かりの届かない四隅からじわじわと闇が生じる中に、闖入者も紛れて存在出来る次第。
大して広くはない、やや殺風景にも思える空間に、数少ない調度が品良く配置されている。一番目立つ卓子の上には仕事場から持ち込んだらしき巻子が、これは少々雑然と広げられたままでいる。
床の一段高くなった奥の耳房は半ば壁で仕切られており、平生は開いたままである透かし彫りの扉が今夜は完全に房室の間を隔絶していた。蔓草を象った彫刻の隙間から、灯心を切って明度を落としているらしい燭台の密やかな灯りと、牀榻から垂れ下がる帳とがちらちらと垣間見えている。
闖入者を迎え入れて以来、室内からはことりという物音も聞こえていないが、郭嘉は意中の人の在室を確信していた。ふっと息を吐き、観客もいないのに作り物じみたにんまり笑いを口元に乗せる。
「……あれ、不貞寝ですか?」
当然相手の起床を疑わない口調で、誰もいない空間に呼び掛ける。
「いっそ豪胆というか。手土産持参で慰めに来たのに、肩透かしだなぁ」
常に彼の人の残り香漂う宿房であるが、郭嘉を相手に在室を誤魔化せる筈もない。典雅に焚きしめられた令君香を堪能しつつ無人の室の半ばまで足を進めた夜訪の闖入者は、木扉と布帳とを隔てた先で自分の一挙一動を窺っているであろう相手を思い益々笑みを深めた。
「お土産、置いときますね。梅の実蜜漬け。酒の肴にしようと思ったんですけど、まだ早いですかね。さっき貰ったばっかりだから、……司空府の奥向き女中のコなんですよ」
ねっとりと口調に蜜を滴らせ、言いつつ卓上に土産の小鉢を置いた。鉢には蓋の代わりに仕立ての残り布らしい絹布が被せられている。卓上を片付けるふりで、夜闇に殆ど塗り潰された書簡の中身を見える限りで郭嘉は確認する。
機嫌を伺うと見せ掛け、大いに罠へと絡め取る所存だ。
主君一途で他者など歯牙にも掛けぬ風のその人が、その実郭嘉の放埒な女性関係に心穏やかでいられないことを承知していて、相手方に傾きがちな均衡を保つ為に度々それを利用してきた。今は、無視を続けるこの人の喚起を促す為に。
「彼女が言うには、昼の曇ってた間に、女衆で庭園の梅を収穫してたんですって。……で、」
相変わらず云とも寸とも反応しない相手の虚勢を楽しみ、郭嘉は舌なめずりしたいような心地で更に一歩を踏み出した。
「ちらりと見かけたそうですよ、主公と劉備」
今最も聞きたくないであろう名前を口にする。彼の人の傷を抉ることには昏い愉悦が伴った。
「差向いで杯を酌み交わしていたそうです、二人きりで。当然ですよね、態々人払いしてたみたいだし?」
相手の心をずたずたに引っ掻き回し、絡め取る。手繰り寄せ、ぎりぎりで突き放す。疲弊する荀を守りたいのも本音だが、傷付けたいのも事実である。郭嘉はこの機に、主導権を完全に己が手中にしようと考えている。
「主公もいよいよ勝負に出たっぽいですよね。まあ董承の件知らないんだろーし、篭落する自信あったんでしょうねえ。過信というか」
荀が一筋縄でいく相手でないことは、誰よりも自分がよく知っている。対象が手強いからこそ、闘志も弥増すのだ。ここまで事態は郭嘉にとって都合良く動いている。
「遠目からの目撃情報しかないんですけど、主公が何事か耳元で囁いて、それ聞いた劉備が手に持ってた箸取り落としたんだとか?」
随分と喜劇じみたその様を想像して、つい郭嘉は声を出して笑ってしまった。
新たな恋敵の出現、内外の難敵、蓄積する欝憤を一気呵成に払うのは今まで敵視していた郭嘉の策動で、自身は完全に身動きが取れない状況。追い詰められた荀はそろそろ郭嘉を唯一の味方と認識し始めている頃だろう。
企みの成功を確信して、第二の砦である間仕切りの扉を大きく開け放った。光源に近付き、牀榻の上の人影が朧気ながら視認出来るようになる。彼我を隔てる砦は、最早薄絹の帳が一枚のみ。
「そういや、火中に焼べようとした夏虫に逃げられたんですってー?人タラシの文若どのらしくない失態だなぁ」
ついでに水を向けたが、余程の自制心を働かせているのか、未だ荀は何の応答も返さない。緊張に息を詰める気配すらないのに、限りなく接近した今になって気付き、
「………文若どの?」
漸く、郭嘉は相手が本当に寝入ってしまっている可能性を考慮し始めた。
「え、うそマジで?」
郭嘉の予想では荀は一睡も出来ない程に憔悴していて、そこに「未だに人払い解かれてないらしーですよ、一晩ナニやってんでしょうねえ?」とかトドメを刺し、且つ嫉妬に悶える佳人を懇ろにお慰めする予定だったのだが。
「全部俺の独り言とか超イタいんですけど、あの、文若どのー……?」
今更ながら声を潜め、慌てて郭嘉は天蓋から垂れ下がる帳を捲った。
荀は夜着姿で仰臥しており、覗き込んだ郭嘉は一瞬矢張り相手が寝入っているのだと思い込んだ。
いつかのように顔を覗き込むような体勢で牀榻に乗り上げ、やがて眼が暗所に慣れると、それは直ぐに誤解だと知れたが。
荀は打ち棄てられた屍のように四肢を投げ出し、微動だにしない。その眼は郭嘉を見ていない。
「――…ッ」
ひゅっと、郭嘉の喉は奇妙な音を洩らした。
実際、虚ろな瞳を見開いたまま涙を流し続ける荀の様は随分と異様だった。……もしや郭嘉の訪う前からこうだったのか?
追い詰め過ぎた。悟って郭嘉が最初に感じたのは、よりによって今すぐこの場から逃げ出したいという衝動である。その怯懦な感情に自分でも驚きつつ、郭嘉はくたりと力ない荀の肢体を抱き起こそうとした。
「ちょっと、しっかりして下さい、文若どの?」
「………?」
ぼやけた眼差しが初めて焦点を結び、至近の距離で二対の視線が重なる。何の感情も浮かんでいなかった虚ろな表情が、劇的に変化した。
「奉孝……」
初めて目の前の人物を認識し、眼を潤ませた荀は、
「行かないで」
突き飛ばして逃げれば良かったと、後々後悔することになるだろう。
屍が突如蘇生したように、白い頬には血色が戻りつつあった。ゆっくりと伸ばされた二本の腕が首の後ろに絡み付き、引き寄せられるままに郭嘉は倒れ込んだ。
背筋を騒々と駆け上る、この感情の正体は恐怖だ。
逃げたい、と思ったのは逃げられないことを知っていたからだ。
「行かないでください……」
懇願する声音、溺れる者の切実さを込めた手。か弱い生き物のように震え、しかし潤んだ双眸は憤怒すら孕んだ鋭さで己の定めた救助者を見据えている。
この人が何かの決断をしようとしていることは、簡単に窺い知ることが出来た。何かを捨てようとする痛みと、喪失を埋めようとする渇仰が、無防備な程に剥き出しにされていた。
同時に郭嘉も決断を迫られていて、最初から一つしか持たない選択肢は、確実に何かの終焉を導くものでもある。
気が付けば追い詰められていたのは郭嘉も同じで、息苦しくなる程に絡め取られたのは郭嘉の方だった。
首に絡んだ糸を思わせる繊手、縋り付くような、或いは絞め殺すような。郭嘉は自分の手でゆっくりとそれを外し、掌同士を合わせ、強く指を絡めた。
繋ぎ合わせたまま、横たわる人の頭の両脇に押し付けた。数多の女に、そしてこの相手にも同じ所作を繰り返し、しかし今は初めての時よりも強く緊張した。内心自嘲して、あとは決まった手順、唇同士を触れ合わせる。
「――んっ、ぅ……」
こんな粗暴で欲望に塗れた、みっともない接吻などしたことがないと思った。
既に自嘲は浮かばなかった。唇を抉じ開ければ、荀の方からも積極的に舌を絡めてきた。主導権を巡る攻防。
均衡は崩れてしまった。伸ばされた手を掴むことは、共に溺死することと同義だった。
何度目かの息継ぎがてら唇を離し、荀の口の端から垂れる唾液を舌先で舐め取った。充足に細められた眼差しが見つめ返してくる。ぞくりと背が粟立った。全く、熱の籠もった息を吐き、欲望と期待に肌を上気させる姿さえ、嘘みたいに美しい人だった。
「――ええ、決して何処にも行ったりしませんよ。約束します……」
そうして郭嘉は深く柔らかな何かを手中にして、代わりに酷く重い荷を一身に背負うことを受け入れた。
何時の間にか灯火が消えていたことに、郭嘉は全く気付いていなかった。
「あっ……ッあ、あ」
郭嘉の頭上では過ぎる快楽を散らす為か、馬乗りになった荀が頭を左右に振る度に、解けかけた黒髪が夜を舞うのが見える。
「文若…どのッ」
「ん…、あーーッ」
郭嘉が一際強く腰を突き上げると、荀は白い喉を反らせて悲鳴を上げた。
「奉孝……奉孝ッ」
貪れば貪る程に、素直に荀は応えてくる。律動に合わせて甘い嬌声がひっきりなしに上がり、細い腰がより繋がりを欲して浅ましく揺らめいた。
「文若…ッ」
頭がくらくらする。肌を重ねたことは初めてではないが、荀がこんな風にはしたなく乱れる様など想像したことすらない。引き摺られるように余裕を無くした郭嘉も正気を手放していく。薫香と混じり合い、官能的に匂い立つのは荀の体臭だった。仕切られた牀榻の中は二人分の汗と芳香とが噎せ返る程に充満して、酩酊と狂乱の度合いを深めていた。
契機が何かだったのかすら、今は思い出せないし思い出したくもない。この人が自分を求めているという事実以外この場には必要ない。律動に合わせ、浅い息を忙しなく吐き出す。その呼気すら重なることに熱狂した。
「―――ッッ」
「ンああああァッ」
一際大きな嬌声を上げて、男の放った熱を受け止めたと同時に限界を迎える。荀は、糸が切れたようにくたりと、郭嘉の上体に被さるように崩れ落ちた。頭が焼き切れるような遂精感の後に訪れた放心状態に身を委ねた郭嘉は、想い人の髪一筋までの全きを手中とした目も眩むような実感に気が狂いそうだった。
「あっ……」
上体に身を寄せてくる肩を力任せに掴み、熾火の弱まる一寸の間も惜しいと態勢を入れ替えて覆い被さる。力加減を忘れた乱暴な扱いに、喉を震わせた荀はうっとりとした恍惚の表情を浮かべた。
〈続〉