四海一幸せである筈の花嫁はこの時、四海一の涙雨に沈んでいた。
 
 長窓の外を気にしながら微睡んでいる内に、何時の間にやら眠り込んでいたらしい。見かけによらず剛胆だとの姉の軽口を思い出し、小喬は一人赤面した。
 今までは否定していたが、新婚初夜に一人惰眠を貪る妻ともなれば、確かに剛胆と言われても仕方ないかもしれない。
 ……まして、夫を寝所から追い出した妻ともなれば。
 どこもかしこも真新しい寝具から這い出て、薄い帳に手を掛ける。それらは全て婚儀を示す青で統一されていて、小喬は海の底に居るような心持ちとなった。それは恐ろしい想像であると共に、陶然としてしまうような夢想でもある。
 寝台から出ると、それまでは気付かなかった雨音が外を満たしているのが聞こえた。頭頂で小さな髷を結わえている以外は下ろしている黒髪を、軽く耳の後ろに挟んだ。決して激しくない雨は、昨夜の涙に似ている。花のようなと詠われる容に相応しくない泣き腫らした眼を手で押さえ、些かの不安と共に部屋と回廊を隔てる長窓に意識を向けた。
 
 小喬。姉の大喬と共にその美貌で近隣の州県に名を響かせている、らしい。
 断定形でないのは、自分自身の噂など侍女や伯母達から伝わってくる以外に聞こえてくることもないからだ。しかし姉は妹の自分から見ても可愛らしく、護ってあげたいような可憐さを持っていたし、その姉に似ている自分もそれなりに美しいのだろうと思っている。東呉の二喬の名に、多少は誇りを持っていた。
 小喬というのは本名ではない。橋家の妹娘ということで世間から呼び表されている内に家内の者もそう呼ぶようになり、いつしか自分達にも定着した。この時代、身分ある者は滅多なことでは本名を明かさない。男でも本名を呼ぶのは非礼とされ、親や主君以外は呼んではならないとされている。女ともなれば本名を知られること自体が稀で、親の他には夫にしか告げることがないのが普通である。
 しかし、小喬は昨夜夫となった筈の人間にその名を告げなかった。それどころか、彼女の為に用意された部屋を訪れた夫を、泣きながら部屋から追い出したのである。向こうに非は一切ないにも関わらず。
「非がないとは言い切れないわ」
 自分自身を納得させるように、小喬は小さく呟いた。
 
 
 
 
 
 事の発端は前年の建安四年(西暦199年)、袁術が病死したことにある。
 袁氏は三公を数多く輩出した後漢の名門であり、袁術は司空袁逢の嫡子としての名声を背景に、一時は後漢末の群雄割拠状態の中で大きな勢力を誇っていた。
 しかし元々君主としての能力に乏しかった上に、建安二年(197年)に袁術自らが帝位を詐称するに及んで人望は一気に地に落ち、勢力は没落していった。それまで麾下にあるも同然であった孫策が絶縁状を叩き付け江南の地で独立した上に、曹操相手の敗戦で多くの配下を失ったのである。その中には亡父橋玄の死後、二喬を引き取り養ってくれた従父(一族の叔父)の橋も含まれている。
 その後同盟相手の公孫が敵対していた袁術の異母兄袁紹に滅ぼされるに及んで、曹操の圧迫によって自力で勢力を維持出来なくなった袁術は恥を捨てて袁紹の保護を求めようとした。その矢先の死であった。
 袁術の甥の袁胤は曹操軍を恐れ、遺された袁術の遺族や配下、その家族を連れて同じく袁術配下であった廬江郡太守劉勲を頼った。劉勲のところでは食料が不足していたので海昏に兵を進め略奪を働こうとした、それを知った孫策によって劉勲は撃ち破られたということになっている。
 
 二喬は、橋の遺族らと共に劉勲が引き連れた一行の中にいた。劉勲の本拠地である皖城に留められていて……劉勲の留守の皖を孫策と配下の周瑜に攻められ、その捕虜となったのである。彼女達は袁術の遺族らと共に孫策の本拠である呉郡まで連行された。
 劉勲は荊州の劉表と手を結んで孫策に対抗したが散々に撃たれ、結局は主君の仇ともいうべき曹操の元へ身を寄せた。劉表の援軍とも言うべき黄祖も夏口で孫策軍と交戦、破れたのである。
 年が明けて建安五年(200年)、呉に帰還した孫策と周瑜は二喬に求婚した。婚姻の申し込みといっても捕虜相手のことであり、話を受けた従兄は一も二もなく頷いた。こうして、彼女達は見ず知らずの男達に嫁ぐことになったのである。
 姉の大喬は泣いた。
 孫策と周瑜は同年の生まれであるらしかったが、28歳の大喬より2歳下、27歳の小喬から見ても1つ年下である。当時の女性の婚期は十代半ばである。そんな年齢まで彼女達が結婚していなかったのは、幼少時に父を亡くしている彼女達は政略結婚の相手には不向きであり、引き取った親戚も自分達の娘を嫁がせる方が先決とばかりに放置していたことから、そして軽々と恋愛結婚に至るには元の大尉橋玄を父に持つ彼女達の身分が高過ぎたからである。
 袁術の生前は、後宮入りを打診されたこともあった。二喬の美貌の噂を聞いて悋気を起こした袁術の正妻の妨害によってその話は流れたのだが、三公輩出の袁家の家長にすら望まれたその矜持が、年下の成り上がりである孫策を認めなかったのである。
 孫家は、呉郡出身の小豪族である。孫策の父の孫堅が海賊を退治したことで名を挙げたのが立身の始まりらしいが、海賊とそう変わらないことを行って生計を立てていたのであろうという見方が、袁術配下の面々では主なものであった。
「お父さまが生きていらっしゃればこんな目に遭うこともなかったのに」
 輿入れを目前にしたある夕べ、大喬はよく似た妹の手を握りながら、潤んだ目を瞬かせた。小柄でやや童顔のきらいのある大喬は、間近で見ても実年齢よりずっと幼く見える。
「わたしも……、この結婚は厭だわ」
 姉の手を握り返しながら、考え考え小喬も言った。天真爛漫で思ったことを何でも口に出す大喬と違って、小喬がここまではっきりと断言することは珍しい。常ならぬ妹の様子に勇気づけられたのか、大喬は繋いだ手を大きく振り回した。
「そうよね!周瑜というのは橋家に負けない名門の出身らしいけど、海賊の手下をやっているんだからやっぱり悪い奴なのよ!!」
 それには苦笑する。彼女の結婚を厭う理由は、姉とは少し異なっていた。
「ねえ、わたし、善いことを思い付いたのだけれど」
 そして、大喬は目尻に残っていた涙を拭くと妹に顔を近付けた。内緒話をするように、耳元に口を寄せる。
「なあに?」
「あのね、部屋から締め出しちゃうの。どう?」
「ええと、それは……しょ、初夜に?」
 未婚の女性としては口にしにくい単語を使って、赤面しながら小喬は尋ねた。
「ええ、どうしてもイヤなんですもの。若き英雄だかなんなんだか知らないけれど、世の中には自分達の思い通りにならないことがあるって、一度くらい知らしめるべきだわ」
 自信満々で断言する。その言葉が、小喬の気に入った。
「いいかもね」
「でしょ!?」
 自重を呼びかける代わりに差し出された同意が嬉しくて、大喬は笑顔を見せた。
「約束よ?わたし達は従兄さま達と違って、横暴な権力者の言いなりにはならないんだから!」
 小喬は頷いた。
 賢い方法だとは思っていなかったが、はっきり言えば、自害する程厭だという訳でもない。小喬が感じているのは、図らずも姉が言った通り『自分達の思い通りにならないことがあると知らしめたい』という欲求である。
 劉勲の敗戦には、裏があると思っている。
 袁術死後、配下であった楊弘や張勲は袁胤とは違い、孫策の元に身を寄せようとしたところを劉勲に撃ち破られた。その時の騒ぎは、小喬も噂の形で聞いている。孫策はその恨みを隠し、同盟関係を結んでいたのである。
 同盟相手を攻撃すること自体信義に反している。そして、劉勲が皖を留守にする前、何らかの書信が届いていたと従兄が言っていた。
 全て孫策や、その部下の周瑜の思う通りに事が進んだのかもしれない。
 自分達が感じた恐怖や心細さ、口惜しさなど彼らにとってはどうでも良い些事なのであろう。それが許し難い。
 彼らの一連の行動の仕上げに自分達との結婚があるのなら、最後の最後に一矢報いるのも良いだろう。
 袁術や劉勲を慕っていた訳ではない。恨み……ではなく、これは口惜しさだろうか。乱世とはいえ、何一つ自分達の思い通りにならない女の人生と比較して。
 美貌や家柄が何になるのだろう。
 
 
 
 
 
「姉さまはどうしているかしら」
 侍女を呼んで騒ぎになっても困る。皺になってしまった青い婚礼衣装を一人で着替えながら、小喬はふと姉のことを思った。 
 婚礼の直前も、大喬は「約束を忘れないでね」と小声で繰り返していた。
 酷く泣いただろう。ちゃんと実行に移せただろうか。
 大喬は今頃どんな気持でいるのだろうか。底抜けに明るいくせに人見知りしやすい、芯の定まらない処のある人だから、よっぽど辛い気持でいるに違いない。考えると、胸が痛んだ。
 帯を結ぶのに手間取ったが、なんとか見られる形には身支度を整える。後回しにしていたが、長窓を開けてみなくてはならない。
 足が震えた。
 あの外へ押し出した男が、今も窓の外に居る筈はないと思う。大喬だけでなく小喬もこの城で婚礼を挙げたということは、周瑜もほぼここで暮らしているのだろう。この部屋に居なくとも、自分の為に用意された部屋に帰れば良いだけのことである。そう解っていても、周瑜が憤怒の顔をして立っているような錯覚に囚われ、小喬は外を確認するのに勇気を必要とした。
 昨夜初めて見た周瑜は、主君の孫策と比べれば優男とも見える、文人風の男であった。しかし勢いのまま押した背は細く見えても男のものであったし、孫策の片腕の周瑜はどちらかと言えば武人として名を馳せている。打ち据えられでもしたら、小喬はただでは済まないだろう。
 恐れを振り切るように、勢い良く観音開きの窓を開けた。
 
「…痛」
 ごつ、という鈍い音と共に、板戸が何かに当たったような手応えを感じた。何より、人の声がしたような気がする。
「え……?」
 小喬は、心臓が早鐘を打つのを感じた。これは、もしかして。
 そおっと、半開きの窓の向こう側を覗き見た。
 若い青年が、やや傾いだ姿勢のまま座り込んでいる。
「あ、あのっ、大丈夫ですか?」
 尋ねてから、なんて間抜けな質問だろうと思った。第一、この状況からして何と言うべきだろうか。
 青年――周瑜は、どこかぼんやりとした表情で宙を見据えていたが、ふと眼の焦点を合わすと、小喬を振り返って微笑んだ。
「お早うございます」
「お……おはようございます」
 反射的に挨拶を返す。こちらを向いて笑いかけた周瑜は、昨夜における怜悧な文人の印象とは違い、穏やかな青年そのものであった。
 まじまじと見れば、思っていたよりも整った顔立ちをしていた。切れ長の眼に、細く通った鼻筋、感情の薄そうな細い唇。男女の差か、同じ美しさでも姉のような甘やかさはない。完璧に近い造形はすっきりと無駄がなく、それ故冷たくも見えるが、今はどこかぼんやりとした風情が印象を和らげているものらしい。
 胸の方まで垂れている長めの鬢が水気を含んでいるのを目で追って、初めて小喬は我に返った。
「あのっ、昨夜は……」
 自分もしゃがみ込み、恐る恐る周瑜の袖の端に触れれば、それもじっとりと重い。部屋と庭園とは細い回廊で隔てられているが、庇があるとはいえ吹き込む雨もあったのだろう。何を思って周瑜がここに留まっていたのかは知らないが、自分は意地で一月の雨の中この人を野晒しにした挙げ句、一人のうのうと惰眠を貪っていたのだ。
 不意に込み上げた申し訳なさに、小喬は再び泣きそうになった。
「昨夜はよく眠れましたか?私も何やら、熟睡してたみたいですけど」
 その気持ちを掬い上げたのは、穏やかな響きの声音。
「伯……主公が朝食を皆で摂りたいと言ってたんですが、構いませんか?」
 謝ろうとした出鼻を挫かれた形だが、不快感はなかった。周瑜からは怒りが感じられないが、しかし彼がどう思っているのかは解らない。
「はい。……ええと、お食事はどちらで?」
「義姉上の居室と続きの間になっている部屋で、だそうですよ。気を悪くされないといいのですが……」
 切り出しにくくて、ついどうでも良いことを口走る。それにも丁寧に答えられて、緊張が随分とほぐれた。何故か、逆に周瑜の方が遠慮がちですらある。
 ふと思い出したように、彼は続けた。
「――ところで、そこに着替えがあったと思うのですが。取りに入ってもよろしいでしょうか?」
 言葉を失う小喬を後目に、周瑜は着ている袍の先をつまみ上げると、水分を含んで重くなったそれを冗談のように絞ってみせる。
「……あ、あの、乾いた布で頭も拭かれた方が……」
 小喬の言葉に微笑んでお礼を言っている姿を眺めても、やっぱり何を考えているのだか解らなかった。
 
 
 
 
 
「おい、あんまり遅かったんで先に食ってたからな」
 昨夜の様子を見ていたのかいないのか、どことなく怪訝な顔をした侍女の案内で部屋に入った二人を最初に迎えた言葉がそれだった。
 滅多なことでは男女は同席しないのが普通だ。それを四人で向かい合うように朝食の膳が整えられ、孫策も小喬に平然と歯を見せて笑い、周瑜相手に膨れてみせる。周瑜がどこか気の毒そうにしていた訳が解った。
 小喬も驚いたが、不快感はない。孫策に全く悪気が感じられないからだろう。
 婚礼の席ではろくに見ようともしなかったが、朝の光の元で見る孫策は思ったよりくだけた人物だ。周瑜の女性的ともいえる美貌とは違うが、男らしい容姿はやはり良い部類に入るだろう。特に、その強い双眸が印象的といえた。
 全く、わたし達は何を見ていたのだろうか。
 姉の方を眺め遣れば、部屋の中央、孫策と自然な感じで寄り添っている。
「それはすいませんでした。――が、そのせっかちな性分は直した方がいいんじゃないか?」
 箸をぷらぷらさせながら文句を言う孫策に、周瑜が恐縮していたのは数瞬だった。仮にも主君に対して、随分と伝法な言葉遣いである。
 そんな話し方をすること自体意外であったが、自分に対する時と妙に空気が違うことに、小喬は気付いた。どこか皮肉めいた、それでいて気の置けないといった感じがする。
 そんなやりとりを、大喬は微笑まし気に見ていた。……納得がいかない。
 小喬は、一人疎外感を感じる。
 今回の婚儀、嫌がっていたのはむしろ姉の方である。あんな奴に嫁ぐくらいなら死んだ方がましだと泣いていたのは何処の誰なのか。人見知りしやすい質どころか、今も孫策や周瑜に対しても色々喋り、笑い転げてさえいる。
 そんな様子に、食事中も小喬はただ一人馴染めずにいた。当然食事もおいしくない。   ……結局一人でつっぱっていたわたしって、馬鹿?
 押し寄せてくる孤独感に苛まれ、小喬は溜め息を付いた。
 庭の話に戦の事、昨夜の婚礼の席でのこと。落ち込む小喬を置いて、食卓では話に花が咲いている。時折、周瑜がちらりと窺うような素振りを見せたが、小喬は気付かない。
「それにしても、なんてわたし達は幸せなんでしょう」
 不意に、陶然とした表情の大喬が声を弾ませた。小喬は驚いて顔を上げる。
「わたし達みたいな行き遅れの姉妹と結婚してくださるのが、こんな素敵な人達だったなんて」
 恥ずかしそうに顔を赤くする。大喬は、本当に孫策のことが好きになってしまったのだろう。小喬は薄々察していたことを改めて確信する。
「こうなればお父さまがいなくて良かったわ。さっさと詰まらない男に嫁がされていたかもしれない。いいえ、わたしが橋玄の娘じゃなかったらもっと早く出会えたかもしれないのに」
「んー、まあなー」
 小さい唇を尖らせる。孫策もまんざらではなさそうに、照れて頬を掻いた。
 
 頭に血が上るのを、小喬は感じた。
 姉の恋はともかく、父のことを疎ましく言うなんて許せなかった。
 父の橋玄は小喬が10歳の時に死んだ。もう記憶は鮮明ではないが、優しい人であったように思う。それから父のない娘として辛い思いを色々したが、橋玄の娘だということが彼女達姉妹の誇りになっていた筈だ。それを、姉は自分達の今まですら貶めようというのか。
 つい立ち上がろうとしたところで、くいと軽く、袖を引っ張られた。
「お言葉ですが義姉上?」
 小喬の代わりのように、口を開いたのは周瑜であった。大喬としっかりと眼を合わせる様は、睨んでいるようにも見えた。
「まがりなりにもご自分の父上を侮辱するような発言はやめていただけませんか。話に聞く橋公を私達は尊敬しておりますし、私達にとってもこれからは義父にあたる方です。
 それに、こうして私達が向き合っているのは色々な偶然が重なって。どの要素も欠けてはならないのですよ」
 笑みを消した周瑜は、彼に慣れ始めた小喬すら身震いする程冷たく、恐ろしい。厳しい声音でぴしゃりと言い切られ、大喬はしゅんと項垂れた。
「そんな……わたしはそういうつもりでは……」
「おいおい、言い過ぎだろう公瑾。なぁ?」
 涙ぐむ大喬の背中を擦って、孫策か慰める。
「確かに。そこまで強く言う気はなかったん……っしゅ」
 不意に、周瑜は小さくくしゃみをした。
「おいおい風邪か?今が一番寒い時期なんだから気を付けろよ」
 呆れたように肩を竦める孫策を見ていられなくて、小喬は今度こそ立ち上がった。些かの緊張と共に周瑜の肩に手を置く。
「あ、あのっ。上着を持って参りますっ」
 周瑜は驚いたように眼を見開いたが。小喬を見て、理解に溢れた微笑みを向ける。
「私の上着がどこにあるのか知ってるのですか?……伯符さま、私達は先に失礼させて頂くことにしますから」
 周瑜も同じように立ち上がって、美しい拱手をした。その優雅な動きに見惚れたのは小喬だけではないらしく、大喬も泣きやんでいる。
「おう。お熱いなあ」
 孫策の揶揄い混じりの声を背に、二人は部屋に戻ることにした。
 
 
 
 
 
二人で歩く。周瑜が気を遣って歩調を落としているのが解った。
「あ……あのっ」
 意を決してその背中に呼びかけた小喬を、回廊を曲がろうとしていた周瑜が驚いたように振り返る。
「上手く退出出来て良かったですね。私の所為で雰囲気が悪くなって、どうしようかと思っていたんですよ」
「そうではなくて。どうして、公瑾さまはわたしを怒らないのですか!?」
 今朝からずっと気になっていたことをとうとう訊いた。今も、周瑜は小喬を庇って大喬に注意していたのだ。自惚れる気はないが、どうしてここまでしてくれるのか。
「……先に怒っていたのはあなたでしょう」
 笑い混じりに返され、小喬は頬が熱くなった。
「すみません、それは……」
「いえ、怒られるのも当然ですから。一晩あそこで反省していたんです」
 謝りかける小喬を制して、周瑜は笑ったまま続けた。
「こちらが強引に決めましたら。厭だったのでしょう?自分達を捕虜にして苦しめた敵と結婚するのは。……寧ろ、喝を入れて貰った気分ですよ」
 最後は、笑顔は苦笑に変わった。
 そんな表情が見たくなくて、小喬は必死でその腕にしがみついた。姉と違って人に触れるのは苦手だったが、人間切羽詰まれば何事も出来るものだと、他人事のように頭の隅で考える。
「確かに、腹が立っていました。けど……思い違いでした。厭ではありません」
 言って、これでは自分から告白しているようではないかと赤面する。そうではなくて、周瑜が彼女のことを考えてくれているのが解って嬉しかったのだと、それを伝えたいのに。
 今なら周瑜が、そして孫策も傲慢な心で自分達との結婚を決めたのではないと信じられる。姉はすぐ気付いたであろうことが自分には解らなくて、この人を苦しめた。
「それで当然ですよ。今まで侮蔑の心を隠して主公に取り入るような輩を多く見てきましたし。優しい態度を取られても本心かどうか、すぐには解らなくて混乱します」
 少し上体を屈めて、内緒話のように囁く。その仕草が妙に大喬に似ていて、小喬は笑ってしまった。意外と可愛い。
「うわーーーっ、す、すみません!!!」
 不意に第三者の素っ頓狂な声が回廊に響いて、小喬は目を見張った。慌てて周瑜から体を離す。
 そうであった。ここは孫策の居城であるのだから府の機能も果たしている。ましてや周瑜や小喬は後宮に部屋を貰っている訳ではないだろうから、ふらふら歩いていたら他人と出会さない方が怪訝しい。
「子明。騒がれる方が恥ずかしい」
「あっ、そ、そうですよね!でも回廊を曲がったら泣く子も黙る中護軍どのがいちゃいちゃしてらっしゃるんですから、そりゃびっくりします!」 
「私をなんだと思ってるんだ……」
「すいませ〜ん……」
 溜息を吐かれているのは、若い武官である。孫策や周瑜よりもまだ若いように見える。庶民の出らしく立ち居振る舞いに品はないが、粗暴さはない。
 嘘のない素直な雰囲気は孫策にも共通していたが、これが孫軍の雰囲気なのだろうか。その中では、周瑜はやや異色にも見える。
「あのっ、奥様ですよね、公瑾どののっ!!」
「………はい」
 そう言って良いのか未だ疑問は残っていたが、取り敢えず頷く。
「うわー、やっぱり綺麗ですねー!公瑾どのと釣り合う女の人、初めて見ました!!
 あ、俺呂蒙っていいます」
 小喬が反応を返してくれたのか嬉しいのか、呂蒙……というらしい将校は満面の笑みで自己紹介をしてきた。
「……慣れてくださいね。こちらでは礼儀がなっていないのが親愛の表現ですので」
 困ったように周瑜が耳打ちする。
「あっ、身分のある女の人って、直接お話しちゃいけないんですよね、すみません」
 謝ってばかりの呂蒙が可笑しくて、小喬は吹き出してしまう。謝るといえば、自分達夫婦も謝ってばかりだったが。
「平気ですよ。ここの流儀は面白いですね」
 表情が明るくなるのが丸分かりで、本当に面白い。
「これからもよろしくお願いします」
 礼を取ると、相手も慌てたように拱手を返してきた。
「こっ、こちらこそ公瑾どのにはお世話になってますし!奥様にもええと、あの……
 って、笑わないでくださいよ公瑾どの」
 小さく吹き出した周瑜を恨めし気に見遣る。しかしその眼は尊敬の色に溢れていて、小喬は微笑ましくなった。
「それで、どうして主公の後宮の前にいたんだ?」
「ああ、そうですよ、主公に呼ばれてまして。遅れたら叱られますよう」
「臣下を易々と入れて……まあ私もだが」
「主公と公瑾どのは義兄弟で特別じゃないですか」
「うん……まあね……」
 曖昧に微笑むその表情が苦みを帯びている気がして、小喬は首を傾げる。
「では、俺行って来ます。また後ほど!」
 本当に孫策の怒りが怖いのだろう。慌てて呂蒙は駆け去っていった。
「全く、せっかちな……」
 朝食の席と同じことを言っているのに、小喬はつい笑ってしまった。
「あなたは笑っている方が良いですよ。口説いてるのではないですけど」
 妻を口説かない方が問題であろうに、真面目に付け足すのが可笑しくて再び笑う。
 
 すっかり周瑜に好感を持った小喬は、小さく呟かれた言葉を、もう少しで聞き逃す所だった。
「劉勲に略奪をけしかける手紙を出すよう献策したのが、……私です」
 昨夜の行動は、やはり彼なりの罪悪感だったのたろう。小喬や、捕虜となった人々や、戦死した将兵への。
 公瑾さまは勝者でありながら、敗者の痛みを解ってらっしゃるのだ。
 小喬は胸が熱くなったが、一度好意を抱けば現金なもので。
 武人らしくないその心の動きに、一抹の不安を持ったりもするのだった。
 
 
 
 
〈続〉
 
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……今回は正史とオリジナル設定書いて、人物が登場しただけで終わってしまいました。
一見、ものすごいノーマルカップリングのようです。ふふふ(怪)。
この後「哀」歌になっていく予定です。予定っていうか昔の作品の焼き直しなんですけどね(苦笑)。
設定が大分変わったので書き直していたら、分量が爆発的に増えるやら、人々の性格まで変わりそうになるやらで、意外と苦難でした……。

二喬は「喬」ではなく「橋」が正しいのですが、ウチでは敢えてこっちの字を使います。これも伏線(?)。
橋玄やら橋やらに関しては、また譫言の方でフォロー致しましょう。

しかし、孫策と大喬の結婚生活は2年に満たないとはよく聞きますが、199年、皖を陥として劉勲と交戦し、その後黄祖と戦ったのが12月。
ウチでは結婚を200年1月ということにしましたが、とすれば結婚生活って4ヶ月しかなかったんですね……。
うーん、実際はどうなんでしょ。