使者が来たと聞いた時も、小喬は何も思わなかった。
あの奇跡のような赤壁での勝利から既に二年。あの後も何度も呉に帰還し、書信もこまめに書いてくるが、夫は殆ど家に居着くことがない。
宙に浮いた荊州を巡り、曹操によって行征南将軍に任じられた曹仁を江陵から追い出した後は、自らが長江を押さえるようにそこに駐屯していた。
寂しくないと言えば嘘になるが、あの時のように無事を願って気を揉むこともなくなったし、ますます孫家において重きをなしている周瑜のことが単純に誇らしい。
だから、その知らせは寝耳に水だった。
帳越し、巴丘から来たというその使者は、何かを堪えるように頭を血に擦り付け、呻いた。
「奥方様には、一刻も早くお出ましあるように。
…………………………周将軍は、もう永くは………」
感極まって泣き出した使者を呆然と眺めても、何の感慨も起こらなかった。
ただ、納得した。すっかり忘れていた。
――運命とは、こちらの油断を見透かして手を伸ばす、悪意の化身なのだった。
到着の旨伝える家僕の報告に、小喬は僅かな微睡みから覚醒した。肩に寄りかかる長男を揺さぶり起こす。
水路を行くとはいえ、幼き童に急ぐ旅は難しかろうと次男と末娘は置いてきた。十にもならぬとはいえ、周瑜亡き後一家を背負って立つ筈の循には、父の臨終に立ち会う義務もあるだろう。船室の中は暗く、母子身を寄せ合っていても互いの顔すら見えなかった。今に限れば幸いなことかもしれない。
外に出ると、途端に強い川風に煽られる。ばたばたと音を立てる袖、髪を撫で付ける指にまで冷たさが滲みる。目を遣れば報告が行っていたのか、接舷された岸に迎えが到着していた。暗闇の中そこだけ明るく、松明がちらちらと水面に反射して揺れる。
陸に乗り移ろうとした小喬の手を取って支えたのは周家の家僕ではなく、しかし親しい者である。
「あなたが連絡を下さったのね?」
「……来るのが遅過ぎます……」
自分がぎりぎりまで隠していた癖に、道理の通らないことを口走って呂蒙は鼻を啜った。
「あの人はまだ生きてる?」
問えば、ぎょっとしたように目を見開いて、慌てて首を縦に振った。やはり目が大きいと、場違いな感想をぼんやり持つ。
手遅れのようなことを言って紛らわしいと、詰ってみようか。
一応城まで問い合わせてみたら、とうにご主君は承知のことだったらしい。周瑜から直筆の遺書が届いていたらしく、夫の後任まで決まっているというのだから馬鹿らしい。
しかし手遅れには違いないのだ。もう回復の見込がないだろうことは眼前の憔悴した顔を見れば察しも付く。
「早く公瑾どのにお会いになって下さい……」
大の男が情けなく悄然としている。真っ赤に充血した眼で見詰められ、小喬は苦笑した。
「わたしが来ることを知ってる?」
「いえ、俺……じゃなくて私の一存ですけど、公瑾どのは奥方に一目でもお逢いしたい筈です……!」
ならば、再び驚かせることになりそうだ。
「ははうえ」
小喬の傍らで大人しくしていた息子が、不意に彼女の袖を引いた。
「……なあに?循」
「お月さまがふたつあるみたいです」
指差すのを辿れば、水面にゆらゆらと揺れる月影。松明の灯影など、この圧倒的な光輝の前ではあまりにもささやかとしか思えない。そんな天の皓々たる光を弾いて、確かに水中にもう一つの月が沈んでいる。波と共に刻々と形を変化させる水の月は、しかし本物よりずっと弱々しく見えた。
「……そうね……」
幼子の指摘が、何故か胸に重い痼りを抱かせる。
幻影のような、美しい光景が、強く脳裏に焼き付いた。
巴丘は江の本流からさほど遠からぬ場所にある。周瑜の本営たる江陵とは大分離れた小さな街の県城で、周瑜は最期の時間を過ごしていた。
……過ごしていた、というのは正しくないかもしれない。
その部屋に入ると、まず薬草の強い匂いが鼻についた。
荒い呼吸を小さく繰り返す他は、枕席に横たわる周瑜は眠っているように見える。僅かに乱れた髪、闘病生活で窶れたが故の陰影が妙に婀娜っぽく映り、小喬は軽く狼狽した。
窓からは先程と同じ月光が、この愁嘆場から現実感を毟り取りつつある。
壁際には数人の側近らしき男が佇み、細大漏らさず焼き付けようというのか、彼らの上官が死に逝く様を凝視している。小喬達が入室した時もさして関心を示さず、背の丸い軍医が患者の額に浮かんだ汗を拭うのを睨むように見据えていた。ただ一人、周瑜の甥である周峻が目礼するのに頷きながら、異様な空間に気圧されて息子の手を強く握る。
呂蒙に勧められ、枕席の夫の傍らに腰を下ろした。帳の向こうに入れるのは、医人以外は小喬と周循だけである。
昏睡している周瑜は、ひどく小さく見える。二年の間に随分痩せた。こうなった原因は何だろうか。病としか聞いていない。
夫の額に手を遣ると、そのまま撫でるように髪を梳いた。酷く居心地が悪い。違う舞台に、自分一人が紛れ込んでしまったような――。
「…………」
「郎君?」
周瑜が小さく口を動かす。……何かを呟いたように見えた。
「郎君?何か、仰りたいことが?」
小喬が夫の肩を掴むと、周りにも騒めきが漣のように広がった。意識がお戻りになられたのか、誰かが小さく呟いたのが耳に入る。
「奥方様、……」
軍医が途方に暮れたような声を出したが、無視する。今夜始めて周瑜から返る反応に、小喬は挫けた気を取り直そうとした。
もう夫は死ぬ。それは認めている。
ただ、何か。
公人としての夫は遺言も伝え、未練などない筈。わたしに、妻としてのわたしに伝えたいことが何か。
最期に。
そっと、周瑜の口元に耳を近付ける。僅かに異臭がした。
「………く、ふ………」
小さな、小さな声。小喬以外には聞こえない。
薄く眼を開けた周瑜は、覗き込む妻に視点の定まらない眼差しを向け、微かに笑んだ。
そのまま、目を閉じる。
「……ちちうえ!!」
最初に鋭い叫びを挙げたのは周循だった。
「父上、ちちうえ………」
「叔父上……?」
恐る恐る周峻が問うのに、軍医が首を振ることで応える。
そのまま室内は、慟哭と嗚咽に包まれた。
「公瑾どの……っ!!」
一際大きい声で、子供のように号泣しているのは呂蒙だ。全く仕方ない。
唯一涙を見せていない、昏い眼の文官の存在に気付く。と、醜い己を小喬の視線から隠すように、ぷいと横を向かれた。
再び、動かない周瑜を眺める。
涙は出ない。
『伯符』
そう言った。確かに。
……多分この瞬間、悟った。
周瑜が、誰を見詰め続けていたのか。誰に微笑んでいたのか。
わたしではなく。
十年前に感じた孤独感が、再び押し寄せてくるような感覚に、小喬は耳を塞ぐ。足元が無くなる感覚。このまま波に呑まれて消えてしまえばいいのに。
こんな愁嘆場に居合わせたくはなかった。
小喬の細い喉から、乾いた嗤いが零れた。
周囲で気付いた者がいたとしても、嗚咽と思ったことだろう。
ああなんて馬鹿らしい。
寂しい筈がないだろう。そう自分の声で囁く女は誰なのか。
一度も喧嘩などしたことはない。互いに気遣い合う、ままごとのような夫婦生活だった。
ただ申し訳なくて。
もっと早くにそうと知っていれば、お互楽になっていただろうに――。
誰かが――小喬自身かもしれない――窓に近寄り簾を下ろした。
そして、何も見えなくなった。
〈続〉
話数を追う毎に、どんどん短くなりつつあるミステリー。
死にました。
……だけで説明終わっていいですか?(苦笑)
本当は12月中に上げたかったんですけど。描写力の無さに泣いたのは今も昔も変わりませんねえ。
あと周瑜の呼称は「都督」で良かったのかもしれない。都督って戦争時の一時的な職だし、偏将軍・南郡太守だから「周将軍」としましたが。……なんか収まりが悪いです。(^^;)
次回オチです。色々意図はスケスケかとは思いますが(笑)、最後までお付き合い頂ければ幸いです。
改変前をご覧になった方(先輩しかいないって;)なら気付かれるのでしょうが、以前はべらべら喋ってから死んでました。今回は意識取り戻さずに死んでます。
死因の設定が変わったからですが、この話では明かしません。
匂わせました。
ドンピシャで当てられた方には管理人からの握手プレゼント(要らない…)。
また違う話で明かしたいと思いつつ。