柳春新「曹操政権中的沛集団与潁川集団」 『魏晋南北朝隋唐史資料』第18輯
武漢大学出版社、2001年
基本的にありがちなことだけ言ってた印象。軍閥と名士集団の相互利用的な関係とか。
見るべき論と言えば、官渡前の袁紹側工作による豫州政治不安を沈静化する為、陳羣を?令に派遣したり、趙儼を朗陵長に任じて李通の戸調政策をフォローさせて陽安郡を安定させたりとかの一連の動きに注目したり?
潁川閥の中心人物を荀・荀攸・鍾・陳羣と想定してるのは伝統的にも客観的にも妥当ですが、筆者の場合は杜襲・趙儼を重要視してたのが結構面白い。名士層を中心に団結していた潁川閥内部に、荀に代表して見られる漢室擁護傾向(他に鍾・陳羣)と、郭嘉に代表される自己の功名と曹操の覇道を推進する傾向(他に杜襲・趙儼)の両種が存在していると、そういう見方。
荀一族を中心とした潁川閥、中でも漢室擁護派は、袁家滅亡後に曹操が『覇府政治』を遂行し出した辺りから曹操との間の緊張を深め、荀悦の死と荀が自殺に追い込まれたことで潁川閥全体が曹操の覇道協力へと転向、荀攸・鍾・陳羣などはその後も大きな政治的権力を握った……という見方です。なんだか本当に普通で無難な見解ですが、実際そうなんだから仕方ないか。
が漢室擁護派だった傍証として、袁紹を棄てて曹操の元へ奔ったのは当時袁紹が劉虞擁立を目指してた(=献帝蔑ろ)から、とか『後漢書』の荀悦・荀・孔融が献帝のカテキョーだった記述を頼りに。いやまあ良いんですけどね、別に。袁紹が董卓擁立偽帝を認めないとか言ってるうちに引っ込み付かなくなって漢室からの独立要素高くなってたのは確かですし。……ねぇ?(¬_¬;)
 
てゆーか毒にも薬にもならない論文ですなあ。…と思っちゃうのは最近電波な本を読み過ぎてた所為?(苦笑)




胡宝国「漢晋之際的汝潁名士」 『歴史研究』1991.5
[要旨]

魏晋十六国にかけて多用される「汝潁には奇士が多い」慣用句。で、なんか凄い才能の名士と言われても何がどう凄いのよと尋ねられれば、後漢中期までは立派な学者を多数輩出した割に末期以降は家学がかなり廃れてたっぽいことから、魏晋以降のこれは政治的な才能を指しているんだろうという意見。
汝潁人は口先ばっか上手くて中身がないので、青州徐州人の儒家的教養には敵わないという見方が存在するという。じゃあそんな地域的性格は一体何時から…と言いつつ前漢以来の風俗を見る。と、汝南人は楚人らしい血の気の多さが徐々に政治向きの人材に矯正されていったらしいが、潁川人は前漢から終始一貫して出世大好きの法律オタクで訴訟ばっかしているらしい(梓も前から思ってたけどマジ最悪な奴ら・笑)。んでもって大族同士で婚姻を重ね、仲良しグループで徒党を組むこと他地域より甚だしい潁川人。汝南人はそんな潁川的気風が伝染して、両地域は似たような性格を有するに至ったのでした、と。
「汝潁巧弁」「汝潁多奇士」「青徐儒雅」みたいな、〜人はどうこう、という地区単位の論評が始まったのは、清流派の政治議論が太学を中心に活発化して、士人が全国的に情報交換ネットワークを形成していったから。そんでもってゴタゴタ状況の中で儒学が衰退し、みんなが価値を政治能力の方に置く、汝潁人に注目度アップの「(能)力こそ全て…」良い(?)世の中になったのだった。
党錮直前、やったら自信満々の李膺・陳蕃・范滂ら汝潁人は「俺が天下を救うんだ!」とえらく大層な志をゴウゴウ燃やしていた。そして声が大きかっただけに党錮では一番エライ目に遭う彼ら。一転凋落。ちょっぴり反省した生き残り組は事勿れモードに移行していく…。んで荀嫁事件。活動家は地下に潜伏する時代が始まる。
汝潁名士の復興は、朝廷内で権威を保っていた袁家を土台に。少帝即位により何進・袁隗による共同輔政。特に袁紹が何進と政治連盟を結成したことが汝潁名士の復権への足掛かりとなる。立場上は何進>袁紹だが、実質袁紹がリーダー格。袁紹の建義で「天下知謀の士」として荀攸・何・陳紀・伍瓊らを中央に呼び寄せる。とはいえ大々的な復権は董卓政権になってからで、妙に汝南人シカトな割に潁川人が多数抜擢・登用。だって有名どころは死んでるか、既に大官なんだもーん。
天下動乱になってからは汝南人に目立った組織的活動は見られない。袁紹政権にはあんまり汝南人が幕閣にいない。かなりが乱を避けて江東に逃亡していたからっぽい。そんでもって曹操による鎮圧。官渡敗戦による袁家没落、やがて滅亡。汝潁奇士を推挙しろと言われつつ、荀は潁川人しか推挙してないし、汝南人で曹操に仕官してる和洽・孟建・周斐らにしろ大した地位じゃない。汝南転落。
打って変わって曹操政権に与した潁川人は政治的に大繁栄。荀の推挙した人々は要職を占め、特に荀氏一族の繁栄たるや。
孔融と陳羣が建安年間に汝潁優劣論戦わせたけど、孔融ってば昔の人の事績ばっか引き合いに出すし。でも陳羣は現在売り出し中の荀・荀攸・荀悦らを挙げて優越を論じた。
が、晋に入って潁川人絶頂期にも翳りが。「鈍如槌」な河北人が「利如錐」の汝潁人を馬鹿にするような風潮に。玄学の流行に乗れなかったこと。九品中正制度が変化して中央集権的な性格になったこと。衰えたんではなく、荀氏とか陳氏自体は晋でも高い位を保っていたけど、地域的にどうこうという括りから家族単位、血統的に判断されるようになったということ。


[感想]
 
あんまり汝南の方には注目してなかったんで、興味深い論考でしたよ。江東に流出してるとか、袁術の辿った南陽→寿春ルートからも検証すれば面白いかもしれんと思った。
地縁から血縁への価値観変化は、清流名士から六朝貴族制社会への変化と対応してると見るべきか。筆者は少なくともそのつもりで書いてますわな。
にしても潁川人は相変わらず(というのも変化)人格的に最低な集団と思われまくってて愛しい(笑)。大家族制、維持しにくくて分家しまくるから、中小豪族が狭い地域に密集する結果になるのかしらん。
荀家も皆で一つ屋根の下に住んでたというより、高陽里に家族単位で屋敷建てて点在してたと考えるべきか。荀悦が父の死後貧乏してたとか、荀攸が叔父の家に引き取られてるとかを鑑みると。
 




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