☆無駄に細かく書き込んだ、ピンスポット年表189〜192年版
AD189〜190年表 AD191〜192年表 荀疎開と対袁紹関係妄想創作
都(董卓)の動き | 曹操・張の動き (州) |
他の群雄の動き (豫州・南陽郡・荊州等) |
袁紹・韓馥の動き (冀州) |
荀一族の動き (豫州潁川郡) |
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189年 | 4月 | 劉虞が大尉に。 霊帝死去・少帝即位。 |
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夏 | 何進、蹇碩を誅殺、董太后を強要自殺。 | 荀攸、何進により辟召。 | |||||
8月 | 宦官による何進謀殺。袁紹、宦官を皆殺しに。 董卓来襲。少帝と陳留王、董卓の手中に。 董卓司空に。 |
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9月 | 少帝を廃し、献帝(陳留王)を立てる。 何太后謀殺。 董卓、大尉に。楊彪司空、黄司徒。 周は吏部尚書に、許靖と共に名士登用にあたる(ひっそり反董卓の種子バラ撒き?)。 |
劉岱、州刺史として赴任。 張は陳留太守に。 |
張咨、南陽太守に。 孔、豫州刺史に。許(陳国)と共に、この頃から反董卓の密謀?(こっそり許靖も荷担) |
袁紹、少帝廃位を諮問されて洛陽出奔。 (何・伍瓊らのおかげで?)不問に処され、勃海太守拝命。 お目付役として韓馥が冀州牧として派遣(周・伍瓊の進言)。 |
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10月 | 9〜10月、曹操、驍騎校尉任命を拒んで洛陽出奔。親友張を頼って州に。陳留で張配下の衛茲と語らい、挙兵決意。 | この辺の時期、袁紹と王匡(河内)の間に連絡? 袁遺辺りのツテで州グループとも共謀? |
10〜12月の間に荀、孝廉に推挙されて洛陽へ。守宮令に。 この時期ら辺から、何・荀攸・鄭泰・輯・伍瓊らによる董卓排除の密謀? |
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11月 | 董卓、相国に。 | この辺の時期に張・鮑信(済北国)・劉岱・橋瑁(東郡)・袁遺(山陽郡)等と密謀。 張の弟張超が藏洪の進言を受けて挙兵の相談に。 |
孔(豫州刺史)、藏洪のツテで州グループと共謀することに。 | ||||
12月 | 黄大尉、楊彪司徒、荀爽司空に。 | 曹操・鮑信の挙兵(陳留郡己吾) | 11〜12月、袁術、洛陽出奔。汝南方面へ? 王匡、董卓からの使者胡母班を殺害。 |
韓馥、橋瑁の偽檄文によって説得される。袁紹への監視を解き、両者手を組む。 | 荀爽司空へ。 |
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190年 | 1月 | 弘農王(少帝)、李儒により毒殺。 袁紹・韓馥の挙兵への責任追及し、周・伍瓊を処刑。許靖、身の危険を感じ孔の元へ逃亡。 劉表、王叡の後任太守として荊州へ。 |
反董卓連合結成。本拠は酸棗(劉岱・孔・張・橋瑁・張超が中心)。 | 王匡、董卓軍に早々敗北。 孫堅、荊州刺史王叡、南陽太守張咨を個人的に殺害、南陽を袁術に献上。 袁術もやや遅れて連合参加。 他、焦和(青州)、公孫(幽州)なども便乗挙兵。 孫策一家、この時期に周瑜宅に居候? |
袁紹・韓馥も挙兵。袁紹は河内、韓馥はに駐屯。 | 周・伍瓊の処刑を受け、密謀が暗殺計画に変化? 荀、この時期に亢父令への転任をダシに帰郷。 |
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2月 | 長安遷都。 大尉黄・司徒楊彪を免職。新大尉は趙謙、司徒は王允に。 袁紹・袁術の叔父袁隗ら、袁一族が皆長安で処刑される。 鍾、三公(荀爽か王允?)による辟召。 |
卞水の戦。曹操、徐栄に敗北。 衛茲・鮑韜(鮑信の弟)戦死。 鮑信負傷。 曹操、反董卓連合内での発言権喪失。連合かなり瓦解。 |
劉表、王叡後任の荊州刺史として赴任。 | ||||
6月 | 払が司空に。 悪貨鋳造でインフレ。 |
【曹操】 曹洪のツテで揚州へ募兵に。でも多数の兵卒に反乱起こされる。 + 胡母班の遺族の依頼で、泰山で募兵してきた王匡を殺害。 河内の袁紹の元へ。 |
【酸棗】 劉岱が橋瑁を殺害。王肱を東郡太守に。 孔年内に死亡。 (その後、付近の略奪後済し崩し解散) |
【袁術】 孔死後、孫堅を豫州刺史に(勝手に任命)。孫堅の本拠は陽城。 |
【袁紹】 袁紹・韓馥、幽州牧劉虞の擁立を計画。 曹操・袁術に相談するが反対される。 劉虞に打診するも、拒絶される。 劉虞への接近により、劉虞と揉めていた公孫との関係悪化。 |
5月、荀爽死亡。 | |
以降 | この辺りで荀疎開が行われてるんでは、説。 客分として河内に保護される。 |
都(董卓)の動き | 曹操の動き | 袁紹(・劉表)の動き | 袁術・公孫の 動き |
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191年 | 2月 | 董卓、太師に。 陽人の戦。胡軫軍敗退。 董卓は李を使者に孫堅籠絡を図るが失敗。 |
無理矢理劉虞を登極させようとするも、塞外に逃げられる。 | 陽人の戦。孫堅、華雄を敗死させる。 袁術と公孫同盟。 |
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4月 | 董卓軍、全軍で洛陽撤退。 孫堅、洛陽占拠。 |
袁術に対抗、周を豫州刺史に任命。兄の周昂を派遣して陽城占拠。 袁術側と交戦の末勝利。 劉表と同盟。 |
周昂vs孫堅・公孫越。 公孫越敗死。 |
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夏 | 淳于嘉が司空、馬日が大尉に。 張楊を河内太守に任命(袁紹対策)。 |
勃海太守の印綬を公孫範に贈る。 | ||||
7月 | 韓馥(安平駐屯)、袁紹(延津ら辺)に冀州牧を強奪される (後に自殺)。 |
孫堅の豫州領有確定か? | ||||
秋 | 魏郡に侵入した黒山賊を討伐。 袁紹の上表で東郡太守に。 荀仕官。以後、司馬として随従。 |
公孫、劉虞から幽州奪う。 劉備に平原郡任せる。 |
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12月 | 劉表vs孫堅。孫堅陣没。 | 朱儁造反、袁術側へ。 孫堅、荊州攻め。劉表配下の黄祖と交戦中に陣没。 孫堅軍解体。孫策、袁術の庇護下へ。 |
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朱儁に洛陽再占拠命令。しかし朱儁は袁術へ寝返り。 | ||||||
192年?禹 | 1月 | 朱儁の造反に対し、李らを派遣、朱儁を破り、陳留・潁川で略奪。 | ||||
春 | 冀州牧に壷寿を任命、黒山賊を使って冀州魏郡に侵攻。 | 再び黒山賊討伐。 | 界橋の戦。袁紹、公孫に勝利。 黒山賊により陥落。 |
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4月 | 董卓、王允・呂布・李粛らにより暗殺。 王允、蔡を殺害。 |
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5月 | 曹操、青州黄巾軍と交戦、劉岱は戦死。 陳宮の工作で州牧を号すのに成功。 |
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6月 | 李・郭、王允殺害。呂布放浪。 趙謙が司徒に。 |
青州黄巾軍と戦闘続行。 程この辺りで出仕。 |
袁術、呂布受け容れきれず、追い出し。 | |||
8月 | 皇甫嵩が大尉に。 | 呂布転がり込み。黒山賊討伐させるが、後に追い出す。 九江太守に周昂派遣。 |
袁術、陳温の後任として陳派遣。 金尚受け容れ。 公孫、平原に単経、高唐に劉備、発干に陶謙派遣。 袁紹と交戦、敗退。 |
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鮑信戦死。 青州黄巾軍に勝利、青州兵組織。 袁紹に協力して公孫一党と交戦。 金尚追い出し。 |
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9月 | 淳于嘉が司徒、楊彪が司空に。 この頃揚州刺史陳温死亡。 劉岱の後任に金尚派遣。 |
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10月 | 劉表、正式に陳南将軍・荊州牧に。 | |||||
12月 | 周忠が大尉に。 | 公孫一党と交戦、撃退。 |