都から吉野、熊野路を南下して漸く紀州へと入ったある夕刻、僧はある集落で足を止めました。
今夜の宿を探して僧は細い田舎道を辿りましたが、点在する農家はどれも豊かではない佇まいで、旅の僧に一夜の宿を与えてくれるか心許ない気配です。どうしようかと逡巡する間にも夕陽は釣瓶落としの速さで山並の間に消えゆき、次の集落を目指そうにも辺りはどんどんと薄暗くなっていきます。
夜露や野狼の恐怖、ようやく楽しいばかりでない旅の困難さを自覚しつつあった僧は、村外れの雑木林から立派な板葺の屋根が残照に照らされる様を目に留め、ようやく野宿の不安から解放された吐息を漏らしました。
崩れかけた築地塀に沿って小路をてくてく歩けば、やがて半分壊れかけた桧肌葺の棟門があります。
「ごめんくださーい」
僧は声を張り上げ、しばし待ちました。
しかし、僧に応える声も往来する家人の気配すらなく、周囲は静寂に包まれたままでした。構えの大きさから立派な屋敷と見えましたが、或いは空き家なのかもしれません。
いよいよ周囲は薄暗く、藍を帯びた空を一番星が輝き渡りました。屋敷の奥まで、僧の呼ばう声が聞こえていないのかもしれない、もし無人の家であれば申し訳ないが勝手に入って一夜の軒先を貸して貰おう。そう決心したところで、僧は術を使って閂を開けようと、門扉に符を貼り留めました。
バチッ…
雷のような光が走ったのと同時、
「うわっ」
門を挟んだ対面から小さな驚きの声が聞こえ、突然のことに僧は仰天しました。
「ごめんなさいっ、大丈夫ですか!?」
「……コソ泥にしてはやり口が派手だな」
僧の謝罪に苦笑混じりの返答を返して、相手は門扉を開けました。
僧は再び驚きました。口調からして男童、声変わりもまだの童子と予想していたのですが、僧を招き入れたのは案に相違して、こざっぱりとした装いのうら若き娘だったのです。
「旅の御坊か」
「はい、熊野参詣の途中なんですけど、宿が見つからず難儀して」
「そうだろうな、この辺なら」
男にしては高い声音は、女人としては低音にも感じられましたが、深い響きを隠す明朗さが、童女にも見紛う小柄な娘を逆に自信ある大人の女性と証しておりました。
「さ、入れよ。大したもてなしは出来ないけどな」
「ありがとう……」
娘の誘いに、僧は一礼して編笠を脱ぎました。簡素な門を潜り、庭を歩き娘の後を追いながら、僧は不思議と心が騒めくのを感じていました。
〈続〉
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既にハガレンでも安珍清姫でもないという。ついでに女体化ですか?不明。
実は平安から中世にかけての日本が、一番テキトーな資料揃ってて書きやすいです。
三国志よりも江戸時代よりも。あっちは全然わからん……。