この、僕の心を甘く満たす甘露も、全ては脳の見せる無機的な幻。
ならば醒めない夢が見たい。
道理など必要ないんだ。どうにかして抜け道を探しだそう。それしかないと言うのなら。
この心を永遠にする為には。
方法は。
何か、方法は?
楊ゼンは、漆黒の夜空を見上げた。
頭上には黒々とした雲が渦巻いているだけ。それが全てを覆い尽くして、空を一色に染め上げている。
日の入りの頃からすることもなく空を見上げていたが、星も、月すら見えない。これだけ待っても出ないのだから、今夜はもう姿を見せないのだろう。
乾燥したこの地域では、昼夜の寒暖の差が激しい。目も眩むような日中の暑さと比べて、今は風もないのに随分と肌寒い気がする。
しかし命の匂いがしない、という点で昼夜は共通しているかもしれない。特に此処のような寂しげな場所ではその感覚が強かった。哮天犬を走らせ、此処を目指していた時の方が空気を切り裂く感覚による躍動感を感じられたかもしれない。
宝貝でもある愛犬が、甘えた声を出した。しゃがみ込み、長く柔らかい毛並みを撫でてやると、孤独感が多少癒される。
哮天犬は、いつも寂しい楊ゼンの友であった。師匠と、哮天犬だけが存在する小さな世界。他の存在なんてどうでも良かった。
そう、あの人と出会うまでは。
さくり、と土を踏む音。
「待たせちゃったかな?」
我に返った楊ゼンは、愛犬に合わせていた目線を元に戻した。腰を上げ、膝に付いた砂を払う。
待ち人は、柔和な表情を見せて、立っていた。寒さを一向に感じていないのか、肩を露わにした服装に上着も羽織らず、平然としている。
「果たし状ありがとう。楊ゼン君」
響きだけを聞けば、嬉しい出来事への感謝を述べているかのような甘い声。
「おや、先程は呼び捨てされた記憶があるのですが?大体、年下に『君』付けされるのは余り好みじゃありませんね」
「そういえばそうかな。果たし状なんて、前時代的なモノを貰っちゃった時は驚いたけど、……そうだよね、僕らの三倍くらいは年取ってるんだもんね」
表面上は穏やかさを崩さず、しかし挑戦的な応酬で挨拶。
普賢が『僕ら』と、一括りにしているのは。柔らかく包まれた棘を言葉の中に感じ、楊ゼンは眉を顰めた。
頭上の光輪、手にする球形の宝貝から淡い光が発せられ、夜を拒むかのように普賢真人の周囲を彩っている。それに対し、楊ゼンの持つ蒼い色彩はその深みを増し、濃紺の闇となって夜の大気に溶け込もうとしている。
まるで、昼と夜の対決。……この場合、有利なのはどちらなのか。
ふんふんと、哮天犬が地面を嗅ぐ音が聞こえる。一瞬の沈黙が、その場に降りる。
「………、師叔にお尋ねしたんです」
普賢からの無言の促しを感じ、楊ゼンは重い口を開いた。
「『一番好きなのは誰ですか』って」
「……それで?」
あくまでも穏やかに、普賢は問い返す。
「『桃だ』と、即答されました。あとは何度尋ねてもその一点張りで」
どのような感情を乗せれば良いものか、視線を地面に落としたまま、途方に暮れたように紡がれた言葉に、くすくすと鈴を転がすような声が被さった。視線を戻せば、口に手を当て普賢は忍び笑いを洩らしている。
「……っ、なんか、すごく望ちゃんらしいよね……、それ」
「普賢師弟」
しかし笑いは、咎めるような楊ゼンの呼び掛けでぴたりと止まる。
うって代わって現れたのは、冷え冷えとした声。
「……で?僕からは何を訊きたいの?」
唇には笑みを乗せたまま、しかしその視線は射るように鋭い。穏やかな表情の下からふい、と本性が覗いた感覚。気圧されないように、楊ゼンも顰めた眉根に更に力を込めた。一つ首を振り、吹っ切れたかのように傲然と顔を上げる。
「ええ、そうですね。あなたと師叔のご関係など」
先程までの自信ない様子と違い、声には高圧的な響きがある。応え如何では、と、言外の圧力。
その指が僅かにぴくりと動いたのを、普賢は見逃さなかった。
「………さあ?一応、親友ってことになってるけど」
「一応、ですか?」
にっこりと、満面の笑みを浮かべながら。普賢は、太極符印を握る手に密かに力を込めた。
「そう。やっぱり愛があるし」
一瞬後。
楊ゼンの手が鋭い動きを見せたのと、普賢の手首が撓ったのは、ほぼ同時だった。
「取ってこ―――――いっv」
「ばうわう!!」
「…………はい?」
風を切る音。突風に乱れた髪を押さえつつ、楊ゼンは間の抜けた声をあげた。
普賢の投げた太極符印、そして攻撃目標を変更したらしい哮天犬の姿は、すぐに豆粒大の大きさとなり、彼方へと消えていった。
「犬って動く物を追いかけたくなるらしいよね」
同じく遠い眼差しでそれらの消えていった方向を眺めつつ、普賢は爽やかに言ってのけたが、……どちらかと言えばタイミングの問題であったかもしれない。
しばしの放心から復活し、しかし困惑した視線を楊ゼンは向ける。
「宝貝を手放すなんて……。哮天犬の攻撃を相殺しても、まだ僕には三尖刀があるのに」
「大丈夫。いざという時は、僕にも呉鉤剣があるし」
剣など持ったこともないような細腕をひらりと挙げて。余裕を崩さないまま、普賢は続ける。
「僕は争いごとを望まないから。キミと戦うつもりもないよ」
果たし状を送った相手に、悠々とした発言。
「では何故……来たのですか」
馬鹿にされたと感じた楊ゼンの怒気を、さらりと受け流している。それが、彼にとっても馴染み深い別の人間を彷彿とさせて、やるせない怒りに火を注いだ。
「あなたは……師叔は、本当のところ、何を考えて……!!」
「知らない」
水を浴びせるような一言。
やや気勢を殺がれ、しかし楊ゼンは相手を睨み付ける。
「僕だってキミが何をそんなに怯えてるのか解らないし。他人のことなんて解る訳ないでしょ?」
ふう、と一拍置いて。
「……っ、僕だって!もう望ちゃんの考えてることなんかわかんないっっ!!!」
自分のペースを崩さない、へらへらとしていたはずの敵がいきなり爆発した。
今までの穏やかさをかなぐり捨てて、握った拳を震わせて。噛み付くような剣幕に、楊ゼンは、内心かなり狼狽えた。表情のみ、怒りのポーズを消さないのは、最早意地である。
「なんでキミなんかが良いの?趣味悪くなったんじゃない!?……約束したのに……!!」
殺気も露わに、険しい眼差しが楊ゼンにぶつけられる。
「その約束とは……」
「僕が知ってたのとは変わっちゃったみたいだから、僕からは望ちゃんのことを教えられないな。自分で努力して見付けるんだね」
楊ゼンが口を挟む間もなく、言葉は続けられた。落ち着いてきたのか、かなりトーンダウンして締め括られ。
反射のように普賢はにこりと笑った。少し失敗した笑顔は、泣き笑いの表情になっていたが。
楊ゼンは、それには気付かない振りをする。
「僕なんか……って、失礼な。それこそあなたなんかに言われたくないですよ」
「だったら望ちゃんを泣かせない?」
「当然です」
「……永遠に?」
「勿論です」
断言する。しかし普賢は、自分で訊いておきながら特に興味も見せず。
「……ホントに、宗旨替えしちゃったのかな、望ちゃん……」
額に手を当て、呆れたように肩を落とす普賢に、理由は判らないにせよ怒鳴られた時以上の不快感を感じた楊ゼンは、何か言ってやろうと口を開きかけた。……その時。
「楊ゼン!!!!」
夜を切り裂いてやや高く響くのは、此処に居るはずのない人の声。
「…………え?」
さっと、光が。雲が割れて。
ようやく顔を出した月の光に照らされて、走ってくるのは。
「すー……す?」
「楊ゼン!!!この馬鹿者が!!?」
ぶつかるようにして胸元に飛び込んできた太公望は、楊ゼンの体をぺたぺたと触りまくる。腕、肩、胸。顔。何度も確かめるようにしてなぞる。
「ちょっ、なんなんですか!?」
いきなりの行動に、羞恥を感じた楊ゼンは思わず小柄な体を引き剥がそうとして。
「あいたっ」
最後に、ぐいっと髪を引っ張られる。
「……良かった。無事だ………」
安心したように呟いて、膝から力が抜ける。
「えっ」
咄嗟に腕が伸びて。その場に崩れ落ちようとする太公望の細い体を、混乱しつつも、掬い上げるようにして楊ゼンは抱き留めた。
密着する体。何とはなく、二人抱き合うような体勢になる。
「……なんだ、望ちゃんにバレてたんだ」
楊ゼンは、気の抜けたような声にぎょっとして我に返った。振り返れば、特に不機嫌にもなっていないような普賢の平静な顔がこちらを眺めている。哮天犬から口にくわえた太極符印を返して貰いつつ、その毛並みを撫でてやっていた。
「僕が悪いムシを払ってたこと」
「……まあな、わしに訴えてくる者は流石におらんかったが……」
楊ゼンに抱きかかえられるように凭れたままの太公望も、体を捻って向きを変えると、そのまま平然と会話する。
「噂も侮れないってことかなぁ」
はにかんだように、小さく普賢は微笑んだ。それに同じような笑みを返して。
「……すまんな、普賢」
もう一度、蒼い髪に指を絡める。
「宗旨替えした訳ではないのだが……。
約束を破ってしまったようだ」
「うん、だろうね」
「あの、師叔……?」
半ば、されるがまま状態でいた楊ゼンが困惑したまま声を掛けようとして。
「――じゃ、ばいばい」
「うむ」
訳の解らないまま転換された話題についていきそびれる。
「また遊びに来るからね」
「夜道には気を付けるのだぞ。今度来る時は弟子達を泣かせずにせいよ」
「ふふっ、何でもバレちゃってるねー」
くすくすと笑い混じりに『親友』同士の和やかな会話が交わされ、普賢は一歩を踏み出した。楊ゼン達の背後で黒々と蹲っている宝貝ロボに視線を合わせ、二人が立ち尽くす傍らを擦り抜けて進もうとする。
「あ、楊ゼン」
「はい?」
すれ違いざま、小声で掛けられた言葉。
「望ちゃんを泣かせたら……今度こそ殺すから」
言われて、楊ゼンは自分が殺されそうになっていたという事実に初めて気付いた。太公望の過剰とも思える取り乱し具合の理由を得心するが、しかし、『戦うつもりがない』のではなかったか。
「秒殺って言葉、知ってる?」
図らずも答えは返され。
「……天才が、そうやすやすと倒されたりするもんですか」
「ふふふっ」
背中に向けて吐き捨てた言葉は届いたらしく、如何にも可笑しそうに笑われる。
こうして。
地を揺るがす振動。黄巾力士はゆっくりと浮上し、勢いをつけて宙に舞い上がる。
頂上の運転席から、光輪に照らされた空色の髪が覗いた。ひらひらと手を振って。
「じゃあねーv」
気の抜けるような声を残して、稀代のトラブルメーカーは周軍から去っていった。
「あの、師叔……」
月光に照らされて、二人の影が長く伸びる。
半歩先、太公望の頭巾の耳が、一歩を踏み出す度にぴょこぴょこと揺れていた。
太極符印をキャッチした後、あの場所まで太公望を案内してきたという哮天犬を労うと袖の中に仕舞い込んで。宿営地までの道を、そぞろ歩きと洒落込んでいた。
「ん?」
足を止めずに振り返った太公望は、普段の余裕たっぷりの表情を取り戻している。先刻の取り乱した様子は夢か幻かとも思えるが。
でも事実だよね、あんなに心配してくれるなんて……。
慌ただしさの去った今、遅まきながらしみじみと幸福を噛み締めている楊ゼンである。
「はい、……あの、普賢師弟との約束ってなんなんですか?」
言ってすぐ後悔。
本心をなかなか見せようとしないこの恋人が簡単に口を割る訳がないから、わざわざ敵に直談判に行ったようなものだったのに。しかし敵も、この策士に負けないくらいの曲者であった。つくづく甘い考えは持たないようにしなければいけない。
「ああ、あれか」
しかし。
「――――ええっっ!?教えてくれるんですかっ!?」
「は!?何故わしが教えないと思っておるのだおぬしは!?」
楊ゼンは思わず太公望の手を掴んで、前行くその人を自分の傍に引き寄せた。
至近距離、正面から睨み合った結果、その真摯な瞳に先に白旗を揚げたのはいつもの如く楊ゼンの方だった。
「だって、あなた……」
しばし言い淀んで、視線を逸らしつつ楊ゼンは口にした。
「……じゃあ普賢師弟との関係を教えてください」
「うむ、親友……とかいうやつだが」
改めて言うとこそばゆいのう……などと言いつつ肩を竦める太公望を、楊ゼンは真偽を見分けるように、じっと凝視する。
「……………本当ですか?」
「ぬう……やはり誤解されてたか……」
不信感ありありの態度で尋ねてくる楊ゼンに、太公望も苦虫を噛み潰したような表情になった。繋いだ方の手をぶんぶんと振り回し、楊ゼンが力を緩める気配がないのに溜息を一つ吐く。空いている方の手でぱしりと掴んだ手を叩いて。
「ホントもホント。なにせ、約束の内容というのがそれだからのう」
暗に手を離せと迫られ、渋々楊ゼンは太公望の拘束を外す。
「………………いつまでも良いお友達でいましょう?」
口の中で小さく呟いて。
……納得がいかない。
やはり騙されているのではないか。煙に巻かれ続けの楊ゼンは、疑心暗鬼に偏った方に思考が展開されていく。紫紺の瞳は、沈鬱な憂いを帯びて目の前の人を凝視し。
視線を感じたか、見上げるようにしてこちらに向けられた笑顔は、彼の曰く『親友』に面影が似ていた。全ての言葉を含んだ笑顔一つだけで、全ての感情を語ろうとしている。
二人が過ごした時間は、楊ゼンには割って入ることの出来ない聖域。
孤独感。それを癒したのは、同じ人の温かい手。
「何を惚けておる。早く帰ろう?」
一度離された太公望の手が、今度は自分から柔らかく楊ゼンの手を握り締めた。促すように、軽い力で手を引かれる。
「…………っ」
「お、おい」
楊ゼンは声を詰まらせると、小柄な想い人の体を抱き締めた。優しい手が、愛しい体が、一時すら手放し難い。地面に映る影のように、この体も一つに溶け合ってしまえばいいのに。
狼狽していた太公望も、おずおずと広い背中に手を回した。寒さからお互いを護るように、身を寄せ合う。
「……ま、なんだ。そうしないと、ずっとは一緒に居られないと思っとったんだな。子供だったから」
ぽつりと呟かれた言葉は、先程の意味不明発言の補足かと思われたが。結局楊ゼンにはその言葉は理解出来ない。
そのことが寂しく、だがその温もりだけで楊ゼンの孤独は満たされるのである。
――仲良くおてて繋いで夜道を帰った、果報者は知らない。
翌朝、彼を襲う衝撃を。
今現在も水面下で進行しつつある、悲劇を。
「『僕がそう言うと、太公望師叔はこう言った。“それは褒めすぎだ楊ゼン”』……ぶっ」
「わ、笑っちゃ悪いさ蝉玉……」
「ねぇねぇ兄様。普賢さんってどこでこれを見付けてきたのー?」
……………
天幕へ戻った楊ゼンが紛失物と侵入者の存在を知って秀麗な顔を蒼白にし。
やがて、彼の『師叔ラブラブ日記』が全軍の間で回し読みされたという恥ずかしい事実を知って卒倒するのは、まだ先のことである。
この事件が契機となって軍師と副官の恋愛が半公認化されたというプラス面もあったにせよ。
普賢、そして太乙の復讐は、憎き天才道士を死ぬより怖ろしい目に遭わせることによって真の成就を果たしたのだった。
やっとここまで……(/_<。) くくうっ、長い道のりでした……(ホントにな)。
今回に詰め込むだけ詰め込んだ挙げ句、あと一話です。今回の分、二つに分けてもいいような分量でしたが……公約破りをどうしても避けたかったので……。
本当はここまででオチつけても良いのですが、っていうか最初に考えた時はここで終わる気でしたが。
折角なので、別口に考えていた普賢話とくっつけちゃうことにしました。(^-^)
最後は、普賢ちゃん視点で語って貰う予定です。……いや、書けるかどうかは非常に不安なのですが。(-_-;
それでは、ここまで匙を投げ捨てずに我慢してくださった皆様(…いらっしゃれば)。もうちょっとの辛抱ですので、最後までお付き合い頂ければ幸いです……。