――古来、馬鹿に付ける薬はないと申しますが、同じく厄介なのが恋の病というもの。
どのような名医とて、この病ばかりは如何とも出来ませなんだ。
 
 
さてはて、此処に一人の愚か者が不慮の恋をしたという事にございます。
 
 
 
 
 
 
 
お医者様でも草津のでも。
 
 
 
 
 
楊ゼンはあからさまに機嫌が良さそうだった。足取りが軽い。
更に、先程から回廊を往き来する官吏や女官に拝礼される度、笑顔で応対していた。日頃のスカした(姫発談)態度が嘘の様な愛想の良さである。
このままでは鼻歌でも歌い出しかねない。
 
……それも、彼にしてはやむを得ぬ事ではあっただろう。
何と言っても、愛しい人との三ヶ月ぶりの逢瀬であったのだから。
 
 
 
 
国境へと要塞建設に赴いている楊ゼンが豊邑に滞在している期間は、意外に少ない。
人間界へと下山した後、初めは太公望の後をヒヨコの如く付いてまわっていた楊ゼンも、あっけない程短期間に人間界での勝手を掴んでしまった。そうなれば元来の有能さもあり、周の軍師たる太公望の補佐役として彼の代理のような仕事を回される事も多くなる。
今となっては、一時的に太公望の管理下に入っている一道士に過ぎない楊ゼンが、周の高官クラスの人間と肩を並べてかなりの采配を振るえるような身分になってしまっていた。楊ゼンにしてみれば、いつの間にか、としか言い様がないのだが。
現在『要塞建設の責任者』という事にされている楊ゼンは、それなりの特別待遇を受けながら、建設現場近くに展開している工兵の宿舎に寝泊まりしていた。
 
その、工事の定期報告へと赴いたのである。
書簡や口頭によって、伝令兵やおつかいの四不象を通した報告はまめに行っている。しかしそれだけでは要領を得ない部分もあり、定期的に上司たる太公望まで報告する事になっていた。その際の利便を考えての楊ゼンへの拝命ではないかと、太公望の考えを推測したりもするが。
と、そのような事務的な事はさておいて、久方ぶりに太公望に逢える楊ゼンとしては、思わず頬が弛むのも不可抗力というものであろう。
この日の来るのを一日千秋の思いで待っていたのである。
あまりにも長い間顔を見ていない所為で、ここ数日などは妄想過剰気味の太公望の夢を見てしまうぐらいだった。
……早い話が欲求不満。
共に人間界に暮らす事になるのだから、楊ゼンが仙人界に居た頃より状況はずっと恵まれている筈なのだが、少しの望みが叶うとまた少し、と願望は際限なく増長するもので。
実のところ西岐の空気には未だに馴染めないのだが、折角報告にやって来たのだから数日は滞在したいと考えていた。その間ずっと太公望と一緒に居られるし。
 
 
 
 
 
真っ先に向かった執務室では、生憎と太公望は不在だった。
「ご苦労様です」
ひとまず先に報告書を提出し、茶を饗されて。
国境から豊邑までの道程を哮天犬で突っ切ってきた楊ゼンを労った後、周公旦は平常より一段と渋い顔つきで、
「太公望は居ませんよ」
言い捨てた。
 
「……またサボリですか?」
筋金入りのサボリ魔を上司に据えて、最早それくらいの事では楊ゼンも一々たじろがない。
報告ついでに連れ戻しに行かなくてはならないのかと、逸る気持ちのまま豊邑に居る際の日課を慣行しようと席を立ちかけたが。
「それが今日は言い訳を用意していて」
手持ち無沙汰に、ハリセンを弄びながら周公旦は首を振った。
肩に掛かった黒髪がさらりと音を立てるが、そんなものに注意を向ける者は皆無である。
「風邪気味だから、今日一日静養するってよ。どー見てもサボリだな、ありゃ。俺が見た時はぴんぴんしてたぜー?」
太公望が居ない代わりに、珍しく姫発が執務室に居る。
黒檀の立派な椅子にロープで雁字搦めに縛られているのを見ると、脱走しようとしたところを人手不足に悩む弟に捕獲された模様である。太公望に比べれば、姫発の仕事の処理能力などは微々たるものに過ぎないのだが、今は猫の手でも借りたいのであろう、楊ゼンは周公旦に同情の眼差しを向けた。……少し窶れている。
次いで姫発に視線を戻し、確かにあの重そうな椅子を担いで逃げるのは難しそうだとどうでも良い事を考えながら、
「うん、でも病気だと言われちゃ無理矢理連れ戻せないよね」
適当に相槌を打つ。
尤もだと言うように、周公旦は重々しく頷いた。どうして帽子が落ちないのだろう。
「ええ、医者だと言って、仙人界から人まで呼びつけているのを嘘だと言い張る訳にもいかなくて……」
不満気に、眉を顰める。ハリセンを持つ手に力が籠もった。
とばっちりを怖れた姫発は首を竦める。何と言っても縛られたままでは逃げられないのだ。
「医者……」
咄嗟に楊ゼンの頭に浮かんだのは『変人』雲中子である。
しかし、弟子に羽を生やしたり、謎の生物兵器を崑崙に撒き散らしたり、意味不明の人体実験を繰り返したりするあの危険な仙人の魔手に、太公望がわざわざ好き好んで身を任せるとも思えない。
一般の洞府では、師匠が弟子の病気や怪我を看る事が殆どだが、まさか仮病の言い訳に元始天尊を呼んで来るとも思えないが……。
「うーん…、じゃあ、報告がてらに僕が様子を見に行ってくるよ」
推測を放棄して、額に当てていた手を離すと楊ゼンは立ち上がった。久方ぶりに座った、執務室の自分の席に別れを告げる。
「よろしくお願いします」
生真面目に頭を下げながら、言外に太公望を連れ戻して来いとの意を含ませた周公旦に見送られ。
「あーっ!俺もサボりてぇっ!!」
頭を掻き毟りつつ机に突っ伏した姫発を、他人事とあっさりと見捨て。
楊ゼンは太公望の私室へと向かう事にした。
 
 
 
 
 
……そういう訳で、回廊を歩いているのである。
一応太公望が病気であるとの建前を利用して、お見舞いという名目で城下で桃を買ってきた。マメである。
一歩足を踏み出す度に、自分の帰りを待っている(と彼の中では決定されている)恋人に近付いて行く、この快感。
周公旦には悪いが、しばし再会の感動に浸っていても許されるだろう。
『楊ゼン!待ちかねたぞ…っ』『師叔…!』ひしいっ…といったドラマが楊ゼンの脳内では展開されている。都合良く私室だしもうそのまま……などと妄想し始めている時点で、既に要塞の事は忘却の彼方。
いわんや『医者』の存在をば。
 
 
 
執務室からはかなり離れた場所に位置する、昼間の喧噪からは無縁な一角。
太公望の寝所の扉を前に、楊ゼンは深呼吸した。
……実は、昼に訪れたのは初めてだったりする。
緊張を抑える為、一旦桃の入った籠を床に降ろすと手に三度『人』の字を書いて飲み込んで。
 
コンコン。
扉を数度叩いた。
 
 
 
「師叔?楊ゼン、ただ今国境から戻りました」
 
反応を待つ。
 
「おお、楊ゼン。早かったのう。まあ入れ」
扉の向こうからは、普段と変わらない太公望の声。厚い戸板に遮られて小さくしか聞こえないが、元気そうである。
仮病だと信じつつも一抹の不安を抱いていた楊ゼンは安堵の息を吐いて。
 
「では失礼します」
 
扉を開けた。
 
 













 
「……………」
 
「ん、どうした?」
 
「……………」
 
「やっほー、楊ゼン君」
 
「……………」
 
 
……室内に太公望は居た。
寝台に腰掛けている、のに向かい合うようにして屈んでいるのは。
 
楊ゼンに向かってへらへらと手を振っているのは、黒の装束に身を包んだ、肩までの黒髪の仙人。その(自分には負けるが)端正な顔には見覚えがある。いや、むしろうんざり気味の。
 
「……太乙、真人様?」
「ひっさしぶりー、かれこれ3000年ぶりくらい?」
 
太乙はもう片方の手で、太公望の手首を握っている。
 
「?どうした?」
扉の前で固まっている楊ゼンの様子に、不審な顔をしてみせる彼の上司。
 
 
太公望は上半身が裸だった。
 
 
 
 
 
「〜〜〜―――――――――――――っっっっ!!!!!!!!!?」
 
 
 
 
声の形を成していない悲痛な叫びが西岐城に木霊したというが、それに気を留める者は皆無であった。
慣れっこになっていた、らしい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……っ、ぶっくくくくくくく……」
扉を閉めるのも忘れて、楊ゼンが全力疾走で逃げていった後。
口を押さえ、身体をくの字に折り曲げて爆笑している太公望に、太乙真人は盛大なニヤニヤ嗤いを向けた。
「うーん、若いっていいねー」
青年にしか見えない外見の、長い歳月を渡ってきた仙人が、感極まったようにしみじみと述懐する。勿論揶揄っているだけであるが。
「な、なんなのだあやつは……っ」
ゴホゴホ。
咳き込んで窒息しそうになっても、いつまでも笑い止まない太公望に、
「それはいいけど、とっとと服着なよ」
肩を竦めると、代わりに部屋の扉を閉めに行く。
「う…うむ」
ようよう頷くと、太公望は肩で息をしながら脇に丸めて置いていた衣服に手を掛けた。
ゲホゲホッ。
「だっ、大丈夫かい?」
一際苦しそうに咳き込み始めたのを、慌てて駆け寄った太乙が背を擦って宥める。
「……かたじけない」
ふうっと、太公望は大きく息を吐いた。
そのまま、ごそごそと黒い襦袢に袖を通し始める。
それを見た太乙も太公望の傍から離れると、室内に一つしかない椅子を引き寄せて腰掛けた。足を組んで、カルテ状の用紙に数語を書き入れる。
「うん、やっぱり風邪で間違いないね」
「んなもんわかっとるわい」
襯衣を頭から被りながら、可愛くない答えを返す。
「ただ過労?基礎体力が落ちてるから絶対安静のこと!元々キミは丈夫な方じゃないんだから。
一応薬渡しとくけど、一番の薬はゆっくり養生する事だからねっ」
「わーっとるわーっとる」
襦袢の裾を袴褶の内に仕舞いながら生返事をするのを、太乙は睨め付けた。
「解ってないでしょ?扱い難い患者だねぇ、全く。私の手に余ったら雲中子に回すよ?」
脅しは効いたらしく、ぴたりと動きを止めた太公望は顔を蒼ざめさせる。
「うそうそ。楊ゼン君とおんなじよーな顔しなくても大丈夫だから」
失笑する太乙に、ひとまず胸を撫で下ろした太公望はきょとんとした表情を向けた。
「で、なんだってあやつはああも愉快な反応を?」
言いつつ、今度は道服に手を伸ばす。
「……あれ?慧眼の君が解らなかったんだ?」
頷くのも面倒だったのか、太公望は袖も通さずに道服を被った。手で引っ張って、もごもごと衣服をずり降ろすが、どうにも手間取っている。
「あれね、嫉妬したんだよ。可愛いねえ」
「………は?」
見るに見かねて道服を着るのを手伝ってやりながら、太乙はさらりと白状した。
 
「わしとおぬし?」
「うん、キミと私」
 
唖然と聞き返す。
太乙はくしゃみを堪えるような顔をして肯った。
 
「………よりによっておぬしとか?」
うげ。
太公望は、心底厭そうに顔を顰めた。
苦情を言う気も無くして、太乙としては苦笑いするしかない。
「何で、脈取ってただけで誤解されにゃあならんのだ……」
がっくりと呟くのを。
「ま、恋する一念ってやつでしょ?」
ますます気の抜けるような事を言って、太乙は太公望を脱力させた。
「でもまあ、天才君とは長い付き合いだけどさ。意外な一面発見!って感じではあるけど」
「あやつはいつも面白いがのう……」
「へえ」
野次馬根性剥き出しで、太乙は相槌を打つ。
「つつくと楽しいっちゅーか、気真面目なんだかアホなんだか、判断に苦しむな」
「太公望も、よくあそこまでメロメロに誑し込んだよね」
「人聞きが悪い」
「またまたぁ」
井戸端会議の主婦の如き太乙に呆れた顔をしつつ、太公望も強いては反論しない。
「――楊ゼンの置いていった桃でも食おうか?」
二人は、にやりと共犯者の笑みを浮かべた。
 
 
 





 
 
 
「楊ゼンさ〜〜〜ん」
四不象と武吉は、楊ゼンの私室へと向かっていた。
桃のお礼を言いにである。
既に豊邑へ帰還したという情報を聞いて、太公望の私室まで確かめに行ったところ。

「奴の土産だよ」

と、診察が終わってお茶を飲んでいる太公望と太乙が桃を数個くれたのだ。

「こんなことなら、茶を入れさせてから追い出せば良かったのう」

などと太公望が愚痴っているのは聞かなかった事にして、二人は喜んでそれを貰ったのだ。そもそも太公望が好物の桃を人に分け与えるなど滅多にない事である。

蝉玉や天祥にもお裾分けすると、早速自室でくつろいでいるに違いない楊ゼンの元へ、お礼を述べに行ったのだ。

「楊ゼンさんっ!さっきは桃をどうもっス……?」

私室に楊ゼンは居た。

居たが。

「…………え?」

どこか呆然として楊ゼンは呟く。

天井からぶら下がっているのはロープだった。先が輪になっている。

椅子の上に登って、楊ゼンは今にも輪の中に頭を突っ込もうとしていた。

「ギャ――――っ!?楊ゼンさん、早まらないで欲しいっス!!!」

「死んじゃ駄目ですっっ!!!」

仰天した二人は思わず楊ゼンに体当たりする。

「痛っ!」

椅子から転げ落ちた楊ゼンは床に腰をぶつけた。しかもその上に必死の武吉と四不象が乗りかかってくる。武吉は兎も角重量級の四不象は、はっきり言って重い。

「離してくれっ!!僕は、僕はっ……!」

しかし果敢にも楊ゼンは二人を押し退けようとする。

「駄目ですっ!離しません!!」

「楊ゼンさ〜〜〜〜〜ん
!!」

しかし二人はますます力を込める。

「僕を死なせてくれぇ〜〜〜……」



呻き声のような楊ゼンの号泣が、騒がしい昼下がりを彩った。






 


「じゃあ渡しとくよ」
太乙は、小ぶりの瓶をポケットから取り出した。
「……糖衣だろうな?」
警戒心剥き出しで、太公望は尋ねる。
「あはは、相変わらず苦い薬飲めないんだ」
「患者のニーズに応えるのも主治医の務めだろうが」
悪びれることなく言い放つ太公望に、『主治医』は肩を竦める。
そもそもが可愛がっている弟弟子を色々と構っているうちに、主治医と呼ばれても仕方ない程に彼の体調には精通してしまったのだし。
呼び付けたりと我が儘放題なのも、太公望としては甘えている様なものなのだから一向に構わないのだが。
「でもちょっと気を付けてね。ご要望の通り強い薬だから風邪の症状は殆ど抑えられると思うけど、その代わり身体に掛かる負担も強いから。
怠くて立ってられなくなるから、無理して仕事とかしないように」
語尾を強調して言い聞かせれば、
「……わざとか?」
胡乱な眼差しを送られる。
「患者のニーズに応えるのも主治医の務めなんだろう?」
内心の読めない笑みを見せて、太乙はそれをはぐらかした。
太公望は唇を尖らせてそれを見遣った後、数秒間視線を遠くに彷徨わせ。
「………ふん、まあ何とかなるか」
納得した様に呟く。
「って、やっぱり無理する気じゃないだろうね」
慌てて太乙が口を挟むのに対し、
「ダアホ」
言い捨てて。
「これ以上遅らせて堪るか」
険しい顔で断言する。小言を言おうと口を開きかける太乙を手で制すると、
「………だがのう」
不意に破顔した。
「大事ない。タイミング良く使える駒が帰って来たからのう」
よっこらしょ、と掛け声付きで立ち上がる。
椅子に腰掛ける太乙よりも高い目線から見下ろして、不敵な笑みを浮かべたまま口を開く。
 
「協力せいよ」
「了解」
有無を言わさぬ口調で『おねだり』され、太乙は降参を示す様に諸手を上げた。
 
 
「楊ゼン君も騙されてるねー」
しみじみと呟けば。
 



ニヤリ。




返されたのは、意味深な笑みである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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♪お医者様でも 草津の湯でも (ア ドッコイショ) 惚れた病は (コーリャ) 治りゃせぬ (ヨチョイナ チョイナ)

ということで、ようやっと取り掛かったのは(私も草津行きたい…)。

9000ヒットされた、 ねこ様のリクエスト作品でございます、多分。
何故そんなあやふやな物言いなのかと申しますと、はっきりとは解らないからなのでございますねぇ……(最低)。
以前頂いた、リク内容の書かれたメール。
先日の再セットアップ騒動の中、不幸な事故によって消えてしまったのです……(死)。
ねこ様に謝れー!(投石) ≡∵(/>o<)/
……いやはや、ショックでした。 (-_-;)ゞ
リク発表は完結後がお約束ですが、敢えて今、覚えている限りを書かせて頂きたいと思います。

楊ゼンをからかって遊ぶ太公望と太乙。
それにも関わらず、太公望に尽くす楊ゼン。
楊太(?)。

みたいな感じで宜しかったでしょうか?ねこ様……。
此処をご覧になっていて、「間違ってる!」と吃驚されたのでしたら、是非ご連絡下さい……。
正しいリク内容如何によっては、後編の内容が変わるかもしれません(苦笑)。

って、自分でも、前後編になるとは思ってませんでしたが。
導入部までしか書けなかった…。
イジメが炸裂するのは後編、だと思います(^-^)♪ ←内容が合ってたらね…。
ふふふふふ……。

あ、後編をアップするにあたって、前編ちょっと加筆してます。
ってかワンシーン。
太太のやりとりだけで終わるのは、話のリズム的にダラダラしてたので。
ご了承下さいませ。