まだ陽は昇っていなかった
「そ、それって、武吉くんがご主人の弟子じゃなくなるってことっスか!?」
……真っ先に我に返ったのは四不象だった。
寧ろ、瞬時に沸騰した怒りが驚愕を凌駕したと言うべきか。
「いや、体裁だけの問題なんだよ、生活は今までと何も変わらない、だけどね」
「そんなのボク認めないっス!!反対っス!!」
「だけど正式に修行もしないと彼は天然道士、いわば人間のままなんだよ?」
仙道が基本的に不老不死に近いのは、体内の気をコントロールする術を心得ているからで、修行のごく初期に学ばされるそれを若い道士は五年から遅くとも十年以内には習得する。ごく幼い時期に親元から引き離された弟子達の、筋力を重視する戦士系の育成に長けた道府を例外として大概が十代のうちに成長を止めることが多いのは、肉体年齢が若ければ若いほど長寿を得られるからである。
「もしこのまま気付かなければ、武吉くんは僕や君よりもずっと早く年老いて……死んでしまうところだったんだよ」
「でも、じゃあその術だけ教えてくれれば……!!」
当人の武吉は問題の大きさが身に迫って実感出来ないのか、取り立てて慌てた様子はない。その分を肩代わりしたような勢いで狼狽しつつも食い下がる友人の方が心配らしく、掴みかからんばかりの霊獣を必死で取り押さえていた。とはいえ消極的な態度は賛意の表れでなく、物言いた気な双眸はちらちらと楊ゼンへ向けられている。
霊獣に釣られて激昂しかけていた楊ゼンは、武吉の落ち着きに対する我が身を恥じて目を伏せ、自分と場の沈静化を図ろうとした。
血液のどくどくと流れる音。感情の変動を調節すべく、呼吸の調子を整える。
「……原則的に、師匠から弟子にしか伝授は認められていないんだよ。それに太公望師叔は道士身分しか持っていなかったから、弟子の籍を作れない」
「あの、お師匠さまもずっとそれを仰ってましたけど、だけど僕」
「あーーーーーーっっ!!ここは崑崙山じゃないっス!!アンタ教主さんなら前例なんて無視するっス!!悪法は改正すればいいじゃないっスか!?」
懇々と説得を続けようとした楊ゼンに、ほっと武吉が安堵の息を吐いた。言い出しかけた言葉は、苛立ちを深めただけの霊獣の絶叫で遮られる。
「四不象?」
窘めた楊ゼンの睨みは、盛大に首を振る霊獣に叩き落とされる。
「そんなの教主さんは口実にしてるだけっス!!……楊ゼンさんは、ボク達からご主人を奪うだけしゃなくて、ご主人からボク達を取り上げるつもりっス!!!」
「そんなにご主人が憎いっスか!?こんなに長い時間が経って、それでも許せないっスか!?」
考えなく吐き出された絶叫は、長い年月に霊獣が溜め込んできたものに違いなく。
確実に、楊ゼンの一部を深く抉った。
「僕は公人としての責務があるんだ」
「……そんなのは建前っス!!!」
「ねえ四不象、楊ゼンさんに失礼だよ?」
「武吉くんは腹が立たないっスか!?」
「四不象」
びくり、と。格段に低められた声に、我が身の非は知っている四不象の虚勢もそこまでで、怯えたように身を竦める。
「武吉くんも僕も君じゃないんだ、一方的な理想を押し付けるのは止めてくれないかな?」
「………………っっ」
押し黙って涙を零す霊獣に、言い過ぎを悟って後悔する。飲み下した苦みの中には未必の故意といったものが多分に含まれていて、爽快感は罪悪感と分ち難く混じり合っていた。
何時かは言わなければならなかったとも承知していたが、突き付ける弾劾の矛先を避け続けていたのは楊ゼンの方であり、拭えぬ後ろめたさがある限り何よりも自身に対して弁明の術が見付からぬとも承知している。
「スープーちゃんをいじめるのはメッ☆なんだから☆」
混同は楊ゼン側にすらあり、皮肉にも場を救ったのは声高な胡喜媚の非難だった。
びしぃ…!教主に対し一片の遠慮もなく指を突き付ける。
「悪いやつは喜媚とスープーちゃんの結婚式に呼んであげないりッ☆」
態度は駄々を捏ねる幼女のそれだが、実際には怒りを抱いていない。揉め事の内容は彼女にとって無関心の対象であり、表層のみを論った文句に便乗して、頭に血を上らせていた楊ゼンもおろおろと間で途方に暮れていた武吉も、ほっと胸を撫で下ろす。
「スープーちゃん?痛くない痛くない」
「喜媚さぁん……ボクは情けないっス……」
嗚咽を洩らす霊獣を宥める女の声は、舌足らずな発音に反して母親染みた穏やかな強制力を有していて、それに何かを触発されたか涙声の四不象は泣きながら甘えるように少女へと鼻面を寄せた。それを撫でる胡喜媚の表情に上っているのは同情ではなく獲物を手に入れ舌なめずりする妖怪の本性で、眉を顰めそうになった楊ゼンは緩やかに首を振って笑顔を作り直した。
「四不象は落ち着いて話せる状態じゃなさそうだね。僕からの話はもういから、彼のことは喜媚君に任せても構わないかい?」
この分では、彼女の獲物はそう遠くない未来に手中へと転がり込んでくるに違いない。
妖怪仙人はおしなべて奔放で自身の欲求に忠実だが、貪欲なまでに獲物を絡め取る手管は実に、女という種の予め持っている本能かもしれなかった。
霊獣の涙にも構わず、その主人の肉体を滅ぼした時と同じ、女の迷い無さが少々羨ましくもある。彼女に憎しみを抱けない自分や四不象は、結局中途半端さを余儀なくされている限り、どうあっても太刀打ち出来よう筈もない。
足取り軽い少女に付き添われ、嗚咽を止められないままに霊獣は執務室からつまみ出された。
「有難うございます。楊ゼンさんは僕に協力してくれるつもりだったんですよね」
善意に溢れた謝罪に対し、楊ゼンは唇だけで苦笑するに留めた。冷静さを失った四不象の暴言こそがより真実に近い部分を突いているなど、この疑いを知らない少年を前にしては最も知られたくない。
「でも僕は誰の弟子にもなりません!」
落胆と安堵の両者を、咄嗟に楊ゼンは表情から隠した。気付かず、武吉はただ真直ぐに、誇らかに佇んでいる。
「このまま年を取って、お師匠さまに逢えずに死んじゃったとしても構わないんです。一生ずっと、太公望の弟子としてお師匠さまを待っていたと、それが僕にとって大切だから」
そこまで言って、ふと不安げに首を傾げてくる様は仔犬のそれに似ている。
「……僕の言ってることは変でしょうか?」
「いいや……武吉くん。君の気持ちも知らず、一方的に悪かったね」
ふるふると、水気を払う仔犬のように武吉は首を振った。
「君の為にも、太公望師叔が見付かることを祈っているよ」
「楊ゼンさんは?」
「…………」
返す言葉に詰まったことを隠して、楊ゼンは曖昧に微笑んだ。その感情をどう解釈したか、少年はそれに温かな笑みを返し、バネのような敏捷さで腰を折ると一礼した動作の続きで早速に駆け出していく。
慌てたその忙しない動きは、席を外した四不象を心配してのことだろうと思われた。
不老不死の仙人界に人の身ながら溶け込んでいる程に、外見的には然程変わっていない。しかし少年の精神は着実に青年へと変化を遂げ、純真さを留めたまま徐々に思慮深さすら帯び始めている。
迷いない一途さ、仙界に欠ける瑞々しい若さが眩しく目に映った。
「……綺麗事はいいとして、それでどうするの?」
武吉を見送っていた視線を苦さを含んだ色そのままで、楊ゼンは柱に背を預けた黒髪の美女に向けた。
姉がいそいそと退出した後も、用も無さそうな場に彼女が未だ残っていた不審をつい隠しそびれ、まじまじと観察してしまう。
自分から声を掛けたにも関わらず、不躾な視線すら一切を無視する孤高さの王貴人は腕を組んだ姿勢のまま顔すら動かさない。凛とした横顔の輪郭を視線のみで辿りながら、楊ゼンは彼女の深い色の瞳が自分とも似た、紫紺の色であることに気が付いた。
「このままというのも、個人的には寝覚めが悪いからね」
いっそ今の質疑は空耳かとも思ったが、楊ゼンの存在に関心を払っていない彼女が留まる状況自体が逆説的に関心の所在を証明していて、至高の座を占める仙界教主は相手の出方を窺う細心さで言葉を発する。
「当初の元始天尊さまの言では、封神計画は太公望師叔の仙人資格試験だった。両者にとってそれが口実でしかなかったとしても、使命を果たしたことであの人が現在洞府を開く資格を有していると解釈することも出来る。
書類上で『太公望』の身分を仙人に昇格させて、武吉くんを弟子として仙籍に登録しようと思ってるよ。名目的な問題はそれで解決される」
「ふん、最初から考えていたんでしょう」
説明が耳に届いているかすら疑わしいと思った刹那、話に一区切りつくのを待っていたタイミングで王貴人は目線だけを寄越してきた。
「結局試したんでしょ、酷い男ね」
「軽蔑するかい」
「どうでもいいわ」
口調ばかりは苛々と、しかしすぐに楊ゼンから視線を外す。彼方を射竦める剣呑な眼差しが何を――誰を見据えてのものか、楊ゼンには解る気がした。
あの多くの運命が変転した日、王貴人は敬愛すべき長姉と不倶戴天の仇敵を、一時に失った。
苛立ちと同時の困惑は、年月の漂白と共に緩やかな焦燥へと取って替わりつつある。ピリピリした雰囲気が無くなったと評される彼女が甞てはかなりの激情家であったことを記憶している者は既に少ない。
楊ゼンが燻る炎の残滓を硬質の白磁に垣間見ているのは、彼女が今となっては数少ない、『太公望』と呼ばれた存在に対する憎悪や怒りの感情を抱く一人と認識しているからだった。
その感情が彼女の何に根差しているか、その深奥までは余人の窺い知れるところではないが。
「そうよどうでもいい。酷い男だわ」
馴れ合いを好まぬ王貴人の方でも、楊ゼンのみには気安さに近い感情を抱いているらしい。その馴れが往々にして無関心という形態を取るのは、自身の魅力に自信を持っている男としては苦笑を禁じえないとはいえ。
「どうせ私のことなんて忘れてるんだわ。最初から目にも留まってなかったんだから」
虚空に目を向け、寧ろ自身に言い聞かせる調子で小さく呟く。
「……あの人をまだ許せない?」
「わからない」
返答は間髪入れず。黙考するように俯き、しかし彼女は顔を上げる。眉根をきゅっと寄せて。
「ただ、許容と共に朝が来るなら、……このままずっと夜が明けなきゃいいと思うだけ、よっ!」
最後の言葉は慄く唇の所為で上手く発音出来ていなかった。指摘などしないのに、恥じるように隠すように紅の引かれた口元を手で押さえ、王貴人は初めて首を曲げて楊ゼンを真直ぐに睨み付けた。
涙を溜めた四不象の瞳とも、きらきらと澄んだ武吉の瞳とも違う、鋭く乾いた瞳は、しかし吐き捨てた内容に反して夜明けの天の彩をしている。光の差し込む、その直前の闇を内包した西の空。
「……僕は恨めばいいのかな?それとも愛すれば?」
「勝手にしなさい卑怯者!」
本心からの問いだったが馴れ合いなど御免と斬って捨てる勢い、震える唇を血が滲む程に噛み締め、殺意すら籠もった一瞥を最後に。柱から身を起こした女は、靴音高く部屋を横切った。
教主の広漠とした部屋には、去就の定まらぬ楊ゼン独りが残される。
――全ての愛が見返りを必要としないものであれば、ヒトはどれほど救われるか。形のない記憶のかぎろいを握り締める難しさは、人間も妖怪にも違いは存在しない。一途さとは貪欲さの別名なのだ。
愛も憎しみも白く塗り潰される、暁を告げる鳥になりたいとは思うのだが、その方法は杳として知れないのだった。
途方に暮れて、溜息を一つ。忘却したいのか、忘却を恐れるのか、それすらも理解出来ぬままに。
ひとまず〈完〉
これ書いてる間、一度も封神単行本読み返さなかったので、口調とか描写とか間違ってそうな気が……(じゃあ確認しろよ)。
当初は武吉メインだった筈が、つい貴人ちゃんに目が行ってしまったのが何ともいやはや。この数年で視点が変わったところ。単純に武吉っちゃん書くの難しいだけかもしれませんが(死)。
楊太人ながら今になって思うのは、師叔が最も愛してたのは姫昌さまと妲己の二人で、師叔を最も愛してたのがビーナス嬢と王貴人ちゃんの二人なのかなぁ、と。
王貴人ほど太公望師叔に惚れてたキャラも少ないと思います。
ビーナスとは正反対の愛し方かもしれませんけど。……あの人って女にもモテてたんだなぁ(苦笑)。