メッシーナ海峡を渡り、ローマまでICの夜行便を使って約11時間。テルミニ駅からはフィウミチーノ空港行きの路線に乗り換え、着いた空港で一番早い日本行きの直航便を探す。
自室にも寄らず屋敷を飛び出してきたリボーンは着のみ着のままで、所持品といえば六発の弾丸が詰まった愛銃と、左胸の内ポケットに忍ばせた二枚のカルタ札くらいのものだ。
幸いにリボーン個人の銀行口座は凍結されていなかった。ボンゴレ九代目はリボーンの出奔と離脱宣言をなかったことにするつもりか、暫らく内外に秘すつもりかでいるらしい。
恩を着せられるようで不快だが、都合が良いのも確かだ。銃を所持したまま出国審査を潜り抜ける際にも、ボンゴレの名前は有用だった。
まんまと東京行きの座席を確保して、リボーンは空上の人となる。リクライニングを倒して目を瞑る。
余計な視覚情報を遮断しようとも感情の昂ぶりの所為か、眠気は一向に訪れない。
 
 
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手術後の経過は順調で、その日の晩には沢田家に移された。
家光に連れられて里帰りしたツナを、奈々はにこにこと満面の笑みで出迎えた。お互い十年ぶりの再会になる。
「母さん慌てて掃除したのよー」
ツナの部屋は手付かずの状態で残されていた。とはいえ、部屋の隅に段ボール箱が数個積み上げられているのは、物置代わりにもなりつつあった証左だろう。
生まれ育った我が家の記憶は薄れていない。殆ど変わりない家や母親の様子は、夢の中で見た家が実在していたと知った時のような違和感と切なさを、ツナの胸に呼び起こす。
家光は詳しい事情を何も奈々に話していないらしい。ツナのイタリア暮らしも、留学するのに家光と付き合いのある家に世話になっていると説明している筈だし、今度その家の息子と結婚することになったので報告を兼ねて帰国したのだと思っている。
一人娘とその友人達によって俄かに人口密度を増した我が家の様子を、奈々は無邪気に歓迎している。
「父さんと二人なのも新婚みたいでいいけど、やっぱり賑やかな方が楽しいわねぇ」
「……うん、だね」
わいわいと、ホテルを取るか実家に帰るか、下の居間で寝泊りするか、議論する友人達の喧しい声が階上にまで聞こえてくる。ツナの部屋までついて来ないのは、一人で休んで貰おうと気を遣っているのだろう。彼ら自身ツナと顔を合わせ辛いのかもしれない。
この十年、彼らが居てくれたからこそ、あの国でツナは笑顔を無くさず生きてこれた。
「ビアンキちゃんも元気?」
「うん、母さんに会いたがってると思う。今回は一緒に来れなかったけど」
彼女は九代目と家光の手配で、今はイタリアを離れマルタ島に蟄居している。長期休暇という名目だが、結婚式までツナやリボーンから引き離しておこうとする意図以外の何物でもない。
ビアンキは本当にツナのことを気遣ってくれた。懐かしそうに度々「ママン」のことを話していたから、奈々からツナを預かっているという責任感も強くあったのだろう。
「ねえ、母さん」
母は何も知らない。けれど母にしか弱音は話せないと思った。友人達は優しすぎるし――リボーンにも理解して貰うつもりはない。
「俺、好きな人と一緒にいたいって、ただそれだけだったんだ……」
ほろりと零れた涙を拭って、ベッドに腰掛けた娘の顔を奈々は下から覗き込んだ。
「馬鹿だね。とっくに、俺はあいつ以外を選んでた筈なのに。覚悟してなかったんだ」
十年前、リボーンに問われたツナは誰も死なせたくないと言った。
自分の為に命を賭けようとする仲間達や、リボーンが傷付くかもしれないことが怖かった。
今なら解るが、ツナは責任から逃げただけだ。そしてリボーンの隣に居る資格を失った。
「あいつはそれでも俺ごと約束守ってくれてたのに、考えなしに我儘言って縋り付いて、……全部ダメにしちゃった」
何も理解していない筈の奈々は、全て解っていると言うように娘の背中をゆっくり擦る。幼い子供のように母にしがみ付いて、ツナは震える声をギリギリまで抑える。なるべく冷静に聞こえるように。
「もう少しで、あいつの将来とか立場とか……」
命すら危うかったかもしれない。ボスの側近としての栄誉を与えてやれない自分に、ここまで付き従ってくれた友人達すら巻き込んで。
自分はダメツナだから学習しないのだ。実際に何よりも大切だった命を失って、痛みによって初めてその尊さを理解するのだ。
「……今度はちゃんと選ぼうと思うんだ」
「リボーンちゃんに二度と会えなくなっても?」
ツナは瞠目した。告白の間も、名前だけは最後まで口にしなかったにも関わらず、正確にツナの心を突いてくる。
母は何をどこまで把握しているのだろうか?――疑問を呑み込んで、ツナは代わりに腕を使って目元を擦った。幼い仕草に奈々は「あらあら」と苦笑する。母親は強くて偉大な生き物なのだ。
「もう充分あいつの時間を貰ったから。来世があるなら、その時にまた逢おうと思うよ。そしたら絶対離れない」
 
 
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ツナはボンゴレに敵対することでリボーンが命を落とす可能性に耐えられなかったし、友人達を危険に巻き込みたくはなかった。
この期に及んで、出した結論は彼らを死なせたくないというそのままだった。
その為なら自身の命や、………生まれなかった我が子のことを本当に愛していたのだけれど。
ツナにはリボーンの命以上に大切なものは存在しなかったのだ。
 
 
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イタリアとの時差は8時間。日本への到着を告げる機内アナウンスに従い、腕時計の時刻を合わせ直す。
飛行機を降りた後も国内を移動するのに更に数時間を要し、リボーンが並盛町へと辿り着いた時には昼前になっていた。ボンゴレを出奔して既に一日半が経過している。
こじんまりとした駅前の商店街は、記憶にある頃よりも随分と閑散としている。閉まったままのシャッターを横目に街並みを潜り抜ければ、閑静な住宅街に入る。この辺りまで来ると、全く何も変わっていない。
狭い敷地に同じような造りの一戸建が密集している風景は日本では一般的なものだ。この町で過ごした年数は長くないが、それでもアスファルトで舗装された道を歩いていると懐かしさが湧き上がる。
場所柄もあってこの時間帯の人通りは少ない。時折付近の住人らしき中年女性が通りがかり、漆黒のスーツを着込んだ長身の外国人に驚いてはそのまま見なかったことにして目を逸らす。部外者や厄介事を避ける小市民ならではの知恵だ。
ここの住人だったツナも、リボーンや仲間達が物騒な騒ぎを繰り広げる度に「ご近所の目が!」頭を抱えていた。
全ての景色が優しく映るのは、記憶の中に常にツナの姿があるからだ。
風景は全く同じなのに、あの頃よりリボーンの身長が伸びた所為で、コンクリートの壁が妙に低く感じられるのが奇妙で可笑しかった。まるで時を止めた世界でリボーンだけが変わってしまったようだ。
冬の木枯らしはシチリアのそれよりも肌寒い。その風に乗って、昼食の準備中なのか何処かの家から香ばしい匂いが漂ってきた。人を安心させる日常の匂いだ。
 
 
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十年前の記憶と寸分違わない場所に、沢田家も変わらぬ佇まいを見せていた。
日本を離れて大分経つツナが頼る場所といえば、実家くらいしか思い付かない。塀の外から見上げるツナの部屋は、窓にカーテンが掛かっていた。住人の不在を示すものか、俄かに判断は付けられない。
別の場所に居るとしても奈々か家光から話を聞こうとの段取りは、すぐに無駄なものと化す。リボーンが門扉を開く前に玄関の扉から出てきたのは、銜え煙草の獄寺隼人だった。
即ち、間違いなくツナもこの家に居る。
「……、よぉ」
「…………………」
無言で一瞥しただけで、獄寺はリボーンの挨拶を黙殺した。地面に落とした煙草を足で揉み消すと、がしゃりと、その足を掲げて靴底で門扉を押さえる。
凄むようなやや前屈みの体勢で、この先へは一歩も通さぬといった気迫。
睨み付けるその目線にリボーンは忽ち不快となった。格下が自分の行く手を塞ぐとは不遜に過ぎる行為だ。
「どういうつもりだ、獄寺」
「見たまんまです。ここから先へは通せません」
「冗談じゃねーぞ。ツナがいるんだろ?」
その名前がリボーンの口から出たことは、獄寺にとって逆鱗に触れる事態だったらしい。眉間に深く皺を作り、思わずといった風に門扉を蹴り付けた。がしゃんと、耳障りな金属音。
「十代目……綱吉さんのご命令です。そうでなくとも俺が通したくありません」
「犬コロ風情が俺に逆らおうってか。――そこを退け」
一向に埒が開かない押し問答に苛付いて、リボーンは獄寺の額に銃を突き付ける。しかし相手は一歩も怯まず真直ぐに敵を見据えてきた。平静な様子に見えて、色素の薄い緑灰色の瞳には隠しきれない怒りと憎しみ、微量の嫉妬心とが燃え盛っている。
「ここで撃ち殺されても俺は本望ですよ。骸の野郎がベランダからライフル構えてやがるし、雲雀も階段の前で座り込んでる。連絡を受けたら山本も笹川も実家からすっ飛んで来るし、どうせアンタはあの方の元まで辿り着けやしない」
ニィと唇を歪めた獄寺は、自分に向けられた銃身を手で掴むことすらしてみせた。
「こんなちっぽけな俺の命なんかでも、失われればあの方は悲しんでくださる。決してアンタを許しませんよ、リボーンさん」
それを望んですらいるように、獄寺は自分の得物を出す素振りを一切見せない。リボーンを追い払う為にでもここで先に攻撃を加えれば、逆に自分が主人の勘気を蒙ると承知しているのだろう。
馬鹿の癖に狡猾な策を使いやがる。舌打ちしてリボーンは銃を仕舞った。確かにリボーンの知るツナの気質からすれば、獄寺の言は尤もだ。
「――判った」
力ずくではこの天岩戸は開かないらしい。どっかりとその場に腰を下ろしたリボーンに、獄寺は険しい顔を微妙に痙攣させた。門柱に背中を預けて腕を組む兇手の真意を掴めず、内心戸惑っているようだ。
「ツナが俺に逢ってもいいと言うまで、此処で待たせて貰う。主人が許可出すんならテメエらに止める権利はない、よな?」
「……勝手にしたらどうです」
ふいと気分を害したように背を向ける。一応でもツナに伺いを立てに行くのだろう。生真面目な男だ。
リボーンはこの拒絶を、ツナの本意だとは今もって思わない。少しくらいの試練があった方が、リボーンの熱情が伝わるに違いない、そう思えば待ち呆けも悪くない。
自分にとってもそれだけツナの価値が高まって感じられる。最愛の女。ツナもまたリボーンを愛しているのだから、問題など起こりえない。
二人で手を取り合えば何も恐れる必要などない。何もだ。
「………俺の子供はどうなった?」
ツナがイタリアを発ってから既に二日以上が過ぎている。怒りを隠さない獄寺の様子からも半ば回答を予想していたが、発作的にリボーンは問い掛けた。
びくりと背中を大きく揺らし、しかし獄寺は何も言わずに玄関の戸を閉めた。
子供。実感は薄く、茫漠とした哀しみだけが広がる。自分が間に合わなかった所為で、ツナを傷付けてしまった。
……だから会ってくれないのだろうか?
独り門前に取り残され、初めてリボーンは不安を感じた。
 
 
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それからリボーンは不眠不休で、食事も取らず沢田家の前に座り続けた。時折買い出しなどで出入りするツナの側近達は何も言わず、ちらと一瞥するだけでその脇を通り過ぎた。
体力の限界から、リボーンが倒れたのはそれから丸三日経って後である。衰弱だけでなく風邪を併発していた兇手は、そのままシャマルの経営する小さな病院へ運ばれた。
 
最後まで、ツナはリボーンを家に上げるとは言わなかった。
 
 
 
 
 
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