昨夜感じた倦怠感のまま、日が高くなった後も寝台の上で怠惰にしている。
急ぎの仕事は都合良く入っていない。目的意識がなければ起き上がれそうにない。肩の荷が下りた爽快感よりも、今は喪失感の方が強かった。
燃え尽き症候群なんて誂えたような言葉が日本語にあったような気がする。その内に心許ない肩の軽さにも慣れる日が来るのだろう。
「なんだぁ?まだ寝てんのかよー」
静寂を破り、ノックもなく寝室の扉が開けられた。枕の下の拳銃を反射的に構えてしまうのは職業柄仕方ない。
「……ディーノか」
「よっ!さっさと着替えしろよ」
ぴたりと額に照準を当てられていてすら、ディーノに緊張した様子はない。
本部に奉職する構成員ですら、リボーンの私室に断りなく踏み入ってくるような蛮勇の持ち主は他にいない。同盟三位の勢力を誇るキャバッローネファミリーの主であり、會ての教え子でもあるという特殊な立ち位置によって、気安い振る舞いもディーノにだけは許されていた。
その日の気分によっては教育的指導、即ち鉛玉をくれてやることもあるが、生憎今日のリボーンには元弟子の不調法を咎めるだけの気力もない。
「………厭だ」
銃を放り出し面倒臭そうに侵入者を一瞥するリボーンに苦笑して、ディーノはずかずかと寝室内を横切るとカーテンを大きく開け放った。薄暗い室内が俄かに白々とした光に包まれる。
眩しさと不快感を示してリボーンの黒曜石を思わせる、今朝ばかりは少々淀んだ色の眼が眇められた。
「今日はお姫様の頼みで迎えに来たんだぜ?さっさと支度しな」
「断る」
ディーノの言う愛称が誰を指しているか察し、リボーンは間髪入れずに拒絶する。何故折角の決意が鈍るような真似をしなくてはならない。
「冗談じゃねー、テメエもさっさと消えろ」
「それは出来ない相談だ。もう下で待ってるぜ、ツナ」
「……!クソっ」
抵抗も想定の内だったのだろう、悪戯に成功したガキ大将が浮かべる邪気のない笑顔で、ディーノは窓の外を指差してみせる。眉間に皺を寄せた対照的な渋面で、寝巻のまま起き出したリボーンも窓辺に近寄った。
カーテンを閉めていた時は気付かなかったが、外気は異常に冷え込んでいたらしい。まだ秋口、しかも南イタリアでは年間通して滅多に雪は見られない。つまり窓の外ではリボーンがこの屋敷に住んで以来一度も見たことのない光景が広がっていた。
音もなく淡雪が降り続け、地面を前に幻のように消えていく。
察するに、この異常気象にはしゃいだツナが仲の良い兄弟子に強請って雪見など画策したのだろう。確かに日本でツナが暮らしていた並盛町でも降雪は年に数度だけだった。彼女が物珍しがったのも理解出来る。
「何で敷地内に入れた?」
定期的な訪問の際もツナは門前で車を降りて、広大な本部の敷地を自主的に歩いていた。裏門からなら、しかもリボーンの居室が設けられているのは九代目の住む建物とは離れた別棟なので、自然警備も厳しくないが。
鋭く舌打ちして、リボーンは急ぎシャツを羽織り、いつもの黒スーツに着替える。冬物は出ていないが仕方ない。ネクタイを選ぶ手間ももどかしく、偶々手に触れたものを鷲掴んで首に巻き付ける。
「テメエの仕業だろディーノ、一体どーゆーつもりだ」
「別にぃ?俺は未来のドンナに敬意を払ってるだけだぜ?」
「………ふん、この食わせ者が」
確かにこの付近なら目立たないが、しかし万一にも見咎められては困る。
勿論ツナは本部の敷地内に自由に出入りする資格を持っている。政治的な状況は、しかしそれを許さない。
「師匠に誉められるようじゃ、いよいよ俺もいっぱしのマフィアだなぁ」
退室するような気遣いも見せず扉口で着替えを見守っていたディーノを押し退けて、ネクタイを結びながら
「言ってろヘナチョコ」
八つ当り混じりにドアを蹴り開けた。
*****
「リボーン!こっちこっち!」
そんなに力一杯手を振らずとも、この自分がツナの姿を見失う筈がない。
小さく舌打ちし、しかしリボーンは本心を表に出さぬ無表情で客人の許へと歩み寄った。今日も供はビアンキで、姉妹のように二人寄り添っている。
顔を見る前は平手の一つでも食らわせてやろうかと思っていたリボーンだが、邪気のないツナの様子にその気も削がれた。
それよりも何時までも外に立たせていてはツナが風邪を引いてしまう。矢張りすぐには用意出来なかったのか、ツナのシンプルなワンピースの生地は精々が秋物の厚さで、見ているだけで酷く寒々しい。
さりとて簡単に中に入れ…とは言い難い事情の所為で、明敏な彼にしては珍しく、リボーンは取るべき対応を咄嗟には決めかねた。選択に困っての無表情でもある。
「……ツナ、褒められた行動じゃねーぞ」
「乗って!」
取り敢えず苦言を呈すところから始めようとしたリボーンを珍しく強い声音で遮って、ツナは凄腕ヒットマンの利き腕を掴んでぐいぐい引き寄せようとする。
「あ゙?」
不本意な拘束を甘受する筈もない兇手は、寧ろ反射でその手を振り解いたが。
「ごめん、来ちゃいけなかったのは知ってたけど、でも今朝雪が降ってんの見たら、どうしてもリボーンに会いたくなっちゃって」
「…………」
拒絶されたことで強気な態度を保てなくなったのか、悄然と項垂れたツナは泣き出すのを堪えているように見えた。
泣き言ならば昔に散々聞いたが、そういえば流される涙を一度も見たことがない。傍に居た期間が短すぎたのだろうか。今も身近にツナを支える側近達の前では素直に涙を零しているのかもしれない。
――それにも関わらず、ツナが縋ろうとする対象は今も昔もリボーンだけなのだ。
その自覚……願望に近いその認識は、リボーンの胸を焦がす。
「乗ればいいんだな?」
「!……うん!」
すかさずツナの乗ってきたらしいリムジンのドアを開け、疑問符を顔に浮かべたツナが何か言う前に車内へと押し込む。続いて自分も乗り込……んだ途端、ついてくると当然のように信じ込んでいたビアンキの手によって、外から。
ドアが閉められた。
「な!?おい!!」
慌ててドアに手を掛けるが、中から開けられない仕様のロックになっているのか、ウンともスンとも動かない。ウインドウ越しににっこりとビアンキが微笑んだ。
「謀りやがったなテメエら……!!」
昨夜のコロネロの醜態が思い浮かぶ。これは因果応報と言えるのか。
「ご……ごめんな、リボーン」
「謝るんじゃねェ!」
今ツナに謝られるのは余計に落ち込む。
寧ろ主犯に違いないビアンキは口の動きだけで『ごゆっくり』囁くと、女の笑みではない表情を見せた。
それを合図にしたようなタイミングでリムジンは静かに発車する。
ビアンキから少し離れた場所では、呑気な顔でディーノが手を振っている。
二人の笑みに浮かんでいるのは、手の掛かる弟妹を見守る家族の顔だった。
*****
いざ車中二人きりになって、しかし会話は続かなかった。リボーンの方では何を言って良いのか解らず、ツナは無心に窓の外の雪を眺めていたからである。
ただ居心地は悪くない。自分の意思で避けていたにも関わらず、ツナが隣に居ることはリボーンにとって至極当然のことだと感じられる。
「懐かしいよね、何だか」
それはツナも同じなのか、のんびりとリボーンへ向き直った表情の中に、先程の悲愴さは欠片も残っていなかった。
「……何がだよ、バカツナ」
「うーん、なんとなく」
漠然と返事を寄越し、ツナはくすくす笑う。随分とリラックスしているようで、昨夜見た快活さとも種類が違う。こちらが今のツナには素なのだとリボーンは悟っていた。
「……もう満足しちゃったから別にいっかなーとは思うんだけど」
へにゃりと気の抜けた笑みを零し、そしてツナの榛色の瞳が、真直ぐにリボーンの黒曜石の瞳を捉えた。
「でも言っとく。俺、リボーンが好きなんだ」
知っていた。
面と向かって告げられたことは一度もなかったが、リボーンはツナがずっと長い間、自分に寄せていた感情の種類を知っていた。その意味に気付いていて、見ぬ振りをし続けていた。
「……えーと、知ってたかもしれないけど……」
「ああ」
そっかー、やっぱりなあ、ははは。空気が漏れるように微かな咽喉の振動。
「……ちょっと、その。変な手紙がさ。どうせお得意のイタズラとは思ったけど、自分でもなんか予想外にショックで」
「!?」
ビアンキめ、あれ程念を押したのに処分せずツナに読ませたのか。
怒りに目の前が真っ赤になる。暴走しそうなリボーンの殺意を押し止めたのは、隣で尚も言葉を紡ぐツナの声だった。聞くのは恐ろしいが、聞かずにはおれない。意識を攫われる。
制御の出来ない己の情動が何よりも恐ろしい。
「思い余って、昨日コロネロに相談したんだよ。そしたらさ、……お前も俺のことが、す、好きなんじゃないかって、言ってくれて」
昨夜、むすっとした渋面でツナの話を聞いたコロネロは
「それはリボーンの作り話だぜ」
いやに強く断言した。
「女遊びは派手にやってるらしいけどな、アイツは敵かも判らん得体の知れない女を近付けるような奴じゃないぜ、コラ」
喧嘩腰に近い口吻だが、コロネロなりに悪友を認めているのだろう。その声音が理解と自信に満ちていたからこそ、ツナは素直に彼の言葉を信じることが出来た。
「そんな嘘八百、わざわざ俺とお前に吹き込んだのはな、多分俺達をくっつけようって下らん策略だぜ」
「……え、なんで」
思ってもみぬ話に目を丸くしたツナから視線を逸らし、そっぽを向いたまま言い難そうにコロネロは口を開く。
「俺に同情させて唆す気だったんだろーぜコラ。アイツはお前を好きなんだ。……馬鹿なりにお前の幸せを願ってんだぜ、許してやれ」
「ムカツク……」
操っていたつもりが、全部見透かされていた訳か。
腐ってもアルコバレーノと感心する余裕もなく歯噛みするリボーンの、珍しい素の表情にツナは
「お前らやっぱり仲良いよな」
ピントのずれたコメントを寄せる。にっこりと笑って、
「コロネロの勘違いか慰めでも構わなかったんだ。リボーンに会いたくて堪らなくなった、だから来たんだ。だって好、 」
――意地を張るのも限界だった。皆まで言わせず、細い体を窓に押さえ付けた。
驚きで半開きの口に無理矢理舌をねじ込んだ。縋り付いてくる体を力の加減も忘れて掻き抱いた。貪るように接吻けた。
ツナが愛しかった。認めるしかなかった。
十年前、陽の当たるリビングがリボーンの閉じた瞼の裏に浮かぶ。あの時確かに存在していたものを、一度は手放したそれを再び掴んだと思った。
溺れるような切実さで接吻を繰り返す二人はもう見ていなかったが、車外では會ての桜を思わせる風花が、今もって舞い続けている。