山本の告白はツナを仰天させた。
「実は俺、今ちょっとスランプ気味なんだよなー」
「えぇ!?」
「ここんとこ打率落ちっ放しの守備乱れっ放し。このままの調子じゃ野球始めて以来初のスタメン落ちになりそうで、ちーっとばかし腐ってたんだわ」
軽い調子ではははと笑われても、山本にとって深刻な問題であることには変わりない。一瞬見せた昏い表情にも納得がいくというものだ。
ツナも一度だけ、フェンス越しに野球部へ声援を送る女子達の一団に加わったことがある。すぐに恥ずかしくなって逃げ出したのだが、山本がとても頑張っていることは短い時間の内にも充分伝わってきた。
「でもさ、ツナが……」
努力して手に入れた座を失いそうだというのなら、野球に情熱を注ぐ山本のこと、気弱になって普段と少々様子が違うのも当然だ。
「たっ!大変じゃない!!そんなの、おれ…私の面倒なんて見てる場合じゃないよ!!」
何か言い掛けた台詞を咄嗟に遮って、ツナは山本に詰め寄った。
「んぁ?」
「山本君、頑張ってるのに……そんな……」
「おいおい、ツナがそんなに深刻にならなくてもいーんだぜ?」
「でも、わ、わたし、山本君がいつも野球頑張って、沢山努力してるところ、すごく尊敬してたから……」
「………そっか。そーだよな」
別人のように暗い表情が精悍な顔を横切った気がしたが、錯覚か如何かを確かめる間すらなく、ツナの見上げた山本はいつもの山本だった。
「やっぱ努力あるのみか。今部活サボったら、ますます練習に付いていけなくなるだけだもんな」
頻りに頷く様子には屈託がない。そう簡単に立ち直れるとは思えないが、山本のことだからポジションを維持する自信がちゃんとあるのだろうか?
と、興奮のあまり掴み掛かっていたらしい。ツナが我に返れば、いつの間にか山本の腕に取り縋るような体勢になってしまっている。
「うわ!」
慌てて手を離し、そのまま二、三歩後退して距離を取った。恥ずかしい、べたべた馴々しい、嫌な奴だと思われたかも……!!
ツナの心配を余所に、カラカラと笑う山本は面白がっているだけで、幸い不快には思われていないようだ。
「サンキューな、ツナ。相談に乗ってくれて」
「そんな、私は何も」
「やっぱお礼にキャッチ教えるよ。部活がミーティングだけの日が週一であるから、明後日!ちょっと遅くなるかもしんねーけど、明後日の放課後でも構わないか?」
「もっ……勿論!ありがとう!!」
最後に約束をもう一度確認して、下足室の前で山本と別れた。既に始まっているお昼の校内放送に急かされ、ツナは慌てて更衣室へと駆け込んだ。
制汗剤の匂いがうっすら漂う女子更衣室に誰も残っていなかったのを幸い、その場で小さく飛び跳ねてみる。ソフトボール万歳!獄寺の仏頂面も家庭教師の横暴も、今なら何もかもが許せるような気がしてくる。
その晩、傍目にも露骨なくらいツナは上機嫌だった。大らかな、言葉を変えればあまり物事に頓着しない母が、夕食の席で「ツナったらなんだかゴキゲンねぇ」と評したくらい解りやすかった。
テレビゲームに勤しんでいる今も、宿題の指導という名目のシゴキから解放された喜びというには随分と浮かれた調子で、鼻歌なんぞ口ずさんでいる。
「良いことでもあったのか?」
「へへっ、まあねー」
心臓に悪過ぎる家庭教師の存在をこの一ケ月間で完璧に日常に織り込んでしまったツナは、母に返したのと同じようにリボーンの質問を受け流した。
「その山本だけどな」
「って、解ってんじゃん!」
反射で突っ込めば、読心術の使える俺に隠し事が出来ると思ってんのかテメエ、などと言いつつナイトキャップをくいと被り直す家庭教師。水玉模様のパジャマを着た愛らしい姿形なのに、雰囲気だけが異様に男前……。
ツナがつい感心した隙にゲーム機本体へと歩み寄ったリボーンは、あろうことかリセットボタンを押しやがった。何の躊躇いもなく、ぽちりと。一瞬真っ暗になり、次いでタイトルロゴが浮かび上がるテレビ画面。
「嫌あぁぁあーーー!!!」
「人が大事な話をしようって時にゲームなんかすんな」
ツナの絶叫は、それなりに正論な言い分にばっさり切って捨てられる。
「もう!何だよ話って!ダンジョンの途中でセーブ出来ないのに!また山本君に告白しろとか言うならお断りだよ!俺の三十分返せ!!馬鹿!!」
「混乱し過ぎだぞ、落ち着け」
肩で息をしつつも、ツナは渋々忠告に従った。
「テメーの奥手さ加減は身に染みてる。告白は要らねーからアイツをファミリーに勧誘しろ」
「難易度上がってるーー!!」
未だ混乱が続いていたようだ。ツッコミ箇所を間違っていることに自分でも気付いたツナは、改めて大きく深呼吸した。リモコンを絨毯の上に放り出し、家庭教師に向き直る。
「山本君をお前らの物騒な世界に巻き込むなんて冗談じゃないよ!山本君には野球っていう大事なものがあるの。大体俺だってマフィアになんか……痛!」
「ダメツナが俺に口答えするなんざ、百万年早ぇぞ」
ツナの決死の説得は、暴力によって遮られた。横っ面を叩かれる度に思うのだがこの赤ん坊、尋常ではない跳躍力だ。それ以外でも色々と人間離れしているが。
「なんつー横暴な……!」
「偉そうな口を叩く前に、お前は男心について勉強した方がいいぞ。山本も獄寺も可哀相に」
「は?何だよそれ。おい、リボーン?」
捨て台詞を吐くだけ吐いて、不意にツナから興味を失った風に、リボーンは自分専用のハンモックへと飛び乗った。
真意の知れない言葉に何とはなしの薄気味悪さを感じたが、問い詰めようにも横たわった赤ん坊は。
「すぴー」
「もう寝てる……」
余りの早業を前に、ツナが出来るのはゲームとテレビの電源を切ることだけだった。
風呂に入って歯を磨いて一晩寝れば、山本を勧誘しろだの可哀相だのといったリボーンの台詞は、完全にツナの頭から抜け落ちていた。難しいことを長く考えるのは苦手なのだ。
「大変だーー!!」
……考えていれば何かが変わったのだろうかと、通学鞄を握り締めたまま、それこそ現実逃避のようなことを考えた。
「山本が屋上から飛び降りようとしてる!!」
教室に飛び込んできた同級生が叫んだことを、誰もが俄かには信じなかった。皆の知る山本武のキャラクター、快活で頼もしく、人望の篤い少年の常からは、自殺など想起出来る訳がない。ないが。
「あいつ昨日一人居残って野球の練習してる最中、無茶して腕を骨折しちまったらしいんだ」
「……!!」
少なくとも、心当たりのあるツナ一人だけは、山本の本気を悟ってしまった。
「とにかく屋上に行こうぜ!」
半信半疑故にどこかお祭り気分の同級生達は、ぞろぞろと屋上へと向かい始めている。先月の持田騒ぎを彷彿とさせる光景だ。
どうしよう……俺が努力とか嗾けるようなこと言ったから……?
「ツナちゃん行こっ!」
「う、うん……」
手招く京子の後を追いながら、ツナは何度も廊下を転びそうになった。足が震えて、思うように動かない。
屋上には既に大勢の生徒達が集まっていた。職員室まで連絡が行っていないのか、教師の姿はそこにない。野次馬達は本気の筈がないと信じるが故の侮りと、もしかしたらという一抹の不安の交差する微妙な表情で、山本から一定の距離を置いて取り囲んでいる。
「冗談きついぜ山本ぉー」
「そりゃやりすぎだって!」
焦ったように声を張り上げた男子も、無理矢理作った笑顔が強張っている。
フェンスを挟んだ向こう、屋上の端ぎりぎりに立つ山本は、既に遠いものを眺める目で喧騒に相対している。骨折した右腕を肩から吊って、その立ち姿は見るからに痛々しい。
「わりーけど、そーでもねーんだ。野球の女神サマに見捨てられた今、俺にはなーんも残ってないんでね」
トレードマークの鷹揚な笑顔はそこにない。軽く眉を顰めた、その目元に諦観じみた苦笑がうっすらと滲んでいる。
「まさか……本気!?」
静かな無表情とでも言うべきその面貌には意外なまでに威圧感の漂うことを、初めて皆が知った。騒めきの種類が徐々に緊迫したものへと変化していく。
どーしよー、どうしよう……!!
ツナといえば屋上に辿り着いたは良いが、今にも飛び降りそうな気配を漂わせる山本を視界に入れた瞬間、腰を抜かして動けなくなっている。頭を低くしているのは、見付かりたくないと心の何処かで感じているからかもしれない。
だって、きっと恨まれてる。合わせる顔がないよ……。
「この愚図女」
「り、リボーン!?」
頭を抱えて小さくなっていれば、いつの間にやら隣にツナの鬼教師が佇んでいる。え、またこいつ学校に来てた訳?ていうかこの状況何とかしてくれんの?
「テメーの所為だと思うんなら、とっとと責任取って来い」
ツナの期待など粉砕する勢いで、勿論リボーンは容赦なかった。
背中を思い切り蹴飛ばされ、ツナの軽い体は吹っ飛んだ。
「きゃあああ!!」
頭から屋上のコンクリート床に突っ込み、涙目で何とか起き上がれば。
「ツナ……?」
予想もしない近距離で、フェンス越しの山本と目が合った。
「え?……えええー!?」
蹴り飛ばされた勢いで人垣を突き抜け、一人皆の輪から飛び出している。よりによって、山本と一対一で対峙するようなポジション。
ちょっと、リボーン!!
内心大パニックのツナを余所に、何をどう解釈したのか山本は初めて唇を歪ませた。嘲るような、そんな攻撃的な笑みを浮かべる山本を、ツナは一度も見たことはなかったが。
「説得は無駄だぜ」
「山本君、やめてよ……」
無駄だと言われても、ぼうと痺れた頭ではそれ以外の言葉など思い付けなかった。緑のペンキが剥げ、赤茶色に錆びた金属の露出しているフェンス。以前から、そして今も山本とツナの間を隔てている。
「言っただろ。野球は俺の唯一の取り柄なんだって。ツナだってどーせそう思ってんだろ?」
「そんなこと……!俺、そんなつもりで」
「お前、いっつも俺のこと避けてたじゃん。今でも恨まれてんのかもしれねーけど、野球に関しては評価してたんだろ?」
「違……!!」
自分の言葉や態度がそういう風に受け取られているとは思いも寄らなかった。だって、山本君はいつも笑っていたし。
恐々見上げた山本はやはり微笑んでいたけれど、ツナは余計に胸が痛くなるようだった。勝手に偶像扱いして憧れて、俺は今までずっと山本君の何を見ていたんだろう。空は今にも泣き出しそうな曇天で、山本の黒髪越し、一部だけに蒼の色が覗いているのが逆に不吉な印象を抱かせる。
「恨まれてるって、何……?」
「ああ、覚えてないのか。ひょっとしたらと思ってたけど」
山本は何もかもをすっかり諦めたような顔で、ツナの疑問にも答えてくれない。一人で勝手に納得して、結論を出して、男心なんて全然解らない。解らなくて当然じゃないか、リボーン!
「“ダメツナ”のお前になら解るんじゃね?何もかも上手くいかなくて、死んじまった方がマシだって気持ち」
「そんなの解んないよ!!」
自分から理解を拒んでおいて、この期に及んで同意を求めて来ようとする山本が悲しくて腹立たしくて、なるべく刺激しないようにと考えていたこともつい失念してツナは叫んだ。
「……へー、さすが男はべらして得意絶頂のツナ様は言うことが違うなー。そりゃ俺みてーな落ちこぼれと一緒にされたくないよな」
想像ではとても耐えられないと思っていたのに、実際山本の口から酷い言葉を聞いても、ツナはそれ程傷付いたりしなかった。態とツナを傷付けるような言い回しを使う度に、何故だか山本の方が傷付いていくような気がした。
「私はダメツナだよ!ダメツナだから……!」
目尻に力を入れた所為で、睨んでいるように見えたかもしれない。みっともなく泣き出すよりはずっとマシだった。