……紫陽花はイタリア本国でも珍しい花ではないが、日本で見るそれはまた独特の趣がある。
愛らしさにおいて紫陽花に遠く及ばないが、見渡す限り色とりどりの傘が花開き、時折くるりくるりと回転しては雫を弾き散らしていた。例え陰気な雨の日だろうと、登校風景というものは変わらず賑々しくあるものだ。人の集う場に特有の、気配の共振が生み出す大きな波紋。
そんな慌ただしい朝の時間、特別教室の集まるB棟と本校舎とを繋ぐ二階の渡り廊下から、周囲の風景とは明らかにそぐわない異質な影が階下を睥睨している。
黒いビニールの雨合羽を頭からすっぽりと被った不審者が双眼鏡を覗き込んでいる場合、大抵の人間は見付け次第警察に通報するであろう。荒っぽいマフィアの一党ならば敵の間者と即断し、自ら排除に向かうかもしれない。
しかし不審者は気付かれず、或いは放置されていた。その頭上にもくもくと狼煙の如く紫煙が立ち上っていたからで、風紀委員会の恐怖政治を憚らず堂々と煙草を嗜むのは、既に校内の有名人となっている一人のみ。雨合羽の下には着崩した制服、手摺りから身を乗り出す度に、フードから日本人らしからぬ銀灰色の髪が覗く。
イタリア帰省から戻ったばかりの獄寺隼人である。
「ぐぬぬ……」
双眼鏡を真っ二つに折らん勢いで、獄寺は猛烈に怒り狂っていた。ギリギリと歯軋りし、額には青筋。生憎ニコチンは彼の心を落ち着けるのに役立っていないらしい。
獄寺が監視しているのは彼の女主人である。いや、沢田ツナ自身に問題はない。相変わらず気高くも可憐な、心がむずむずと擽ったくなるようなお姿である、……という感想は仕えるべき主に対して不敬であるような気がして、実際口にしたことはないが。
問題なのは、主人でなくその連れだ。
「…………」
「〜〜〜〜っ」
二人は然程大声で話している訳ではない。通学ラッシュの喧騒に紛れ、会話の内容までは此方へ届いて来ないが、妙に仲睦まじげな様子が双眼鏡のレンズにしっかりと映っている。含羞んだようにツナが顔を伏せ、同時に傾いた傘が獄寺の眼から微笑の残像ごと彼女の表情を覆い隠した。
ツナの持つ黄色い傘の、三分の一が黒い傘の影になり獄寺の位置からは見えない。それだけ肩を並べる距離が近いと思うだけで、頭の中で爆発するダイナマイト、激しく鳴り響く警報音。黄色と黒、なんて危険な取り合わせだろうか!
少し目を離した隙に、主人に悪い虫が付いていた。
……今の状況を獄寺的に表すると、そのようになる。
日本の馬鹿餓鬼共と馴れ合うつもりは皆無だったが故に、初めて覚えた同級生の名がソレになってしまった。非常に不本意である。
手近な野郎を締め上げて聞き出したところによれば、常に笑顔を絶やさないクラスの人気者。野球部に所属しているが、現在は利き腕を骨折していて休部中らしい。が、怪我人だからといって沢田さんとご一緒に、と、登校して許される訳じゃねぇ!
「山本武、コロス……!」
フードに隠れていて逆に良かったのではないかという獄寺の形相は、元々の眉目が整っているだけに、般若の如き剣呑さを無駄に醸し出している。子供が見れば泣くだろうこと請け合いだ。
通学路の途中でばったり、なんて顔して十代目を待ち伏せしてやがったんだろこのストーカーが!
不審者ルックの自分を棚に上げる獄寺のポジティブさは大したものである。
くそ、十代目も嫌がってらっしゃるじゃねーかあの野郎!
……完全に自分のことを棚に上げる、獄寺のポジティブさは大したものである。
「あ、小突いた!」
校門から本校舎の下足室へは、渡り廊下の真下を潜って行かねばならない。つまり、今の獄寺の位置からは完全に二人の傘しか見えないのだが、その瞬間三分の二どころでなく重なった黄と黒にそう判断したのである。山本から逃げるように、途端に距離を置くツナの黄色い傘。
「きゃっ!」
「ははは悪ィ悪ィ」
これでツナの肩へと馴々しく腕を回したという山本の行動の真実を知れば、獄寺はその場で憤死したかもしれない。
ぶちっ。啣えた煙草を噛み千切るくらい、勘違いしている現段階でも憤っている。コンクリートの床に落ちた煙草は泥色の水溜まりに沈み、獄寺は口に残ったフィルムを唾と共にぺいと吐き出した。
「そーいやツナ、英語の宿題やってきたか?」
「…あ!忘れちゃった!」
「お、同志!一緒に放課後補習受けようぜー」
「えへ……」
何故!何故その無礼者をお叱りにならないのですか十代目……!?
真上で身悶えしている獄寺の存在には全く気付くことなく、ツナと山本は校舎の狭間を通り抜ける。無情にも遠離っていく二つの背中。ち、近い!近いっつの 「離れろあの野郎!!」
「これで良く解ったか、獄寺」
遂に心の叫びが音声化された獄寺を冷ややかに一瞥したのは、最前から気配を絶ち、悪童の挙動を観察していた黒衣の赤ん坊。獄寺と同じような黒い雨合羽に身を包み、渡り廊下の細い手摺りに悠々と腰掛け笑いを噛み殺している。手にした鮮緑色の傘は、相棒の形状記憶カメレオンが変化したものだ。
「はいリボーンさん!十代目がニヤケ面の男に迫られて困っていらっしゃいます!」
「……お前、意外と面白い奴だったんだな」
迷いのない眼で己に都合の良い解釈を開陳する右腕志願の少年へと、見直したと言わんばかりの口調でリボーンは頷いた。実際は馬鹿にしているのだが、ニュアンスを読み取れない獄寺は素直に恐縮っス、などと返している。獄寺が特別鈍いというより、凄腕暗殺者の本心を見透かせる人間が皆無に近いと言うべきだろう。
「俺は反対です。あんな奴を十代目のファミリーに入れるだなんて……」
「もう入ってるぞ。俺が決めた」
「んな゛っ!?」
両者マイペースであるが故に、会話が噛み合わないこと甚だしい。今までの前フリを一切無視したリボーンの断言にダメージを受け、獄寺は大きく仰け反った。首から提げた双眼鏡がぶらんと大きく揺れ、その拍子、フードがずり落ち雨糸と同色の灰髪が外気に晒される。
「堅気が何の役に立つんですか!?あんなへらへらした奴に十代目の価値が理解出来る筈がねぇ、可愛い女とお近付きになりたいだけの馬鹿はお呼びじゃねーんスよ。
……大体っ!俺一人がいれば十代目をお守りするには充分でしょう!!」
獄寺が怯んだのも束の間で、眼光を鋭く尖らせる悪童は己の正しさを確信する故に引き下がらない。最低限の言葉遣いだけは崩さないが、思い付く限りの理由を捲し立て食い下がる姿には、自己以外の全てに対する抑えきれない敵愾心が燃え盛っている。
そんな悪童の主張に黙って耳を傾け。
「……おい、獄寺」
すぅと、リボーンは愛銃の照準を少年の額へと合わせた。殺気はおくびにも出さず、無造作でありながらも一分の無駄も存在しない完璧な動き。伝説の殺し屋の銃口に狙われるプレッシャーに獄寺は唾を呑んだ。危険に際し息を潜める、本能に近い反応だ。
表情はない。が、リボーンの黒光りする瞳は獄寺を射抜くように見据えている。
「仮にもあいつの重要性が理解出来てるとほざくつもりなら、テメェ一人で護衛に充分たぁ口が裂けても言えねー筈だぞ」
「………はい」
反論を探して何度も口を開閉し、しかし格の違いに気圧された獄寺は二の句を発することが出来なかった。家庭教師の苦言も尤もなのだ。
獄寺が主張したのは自負であり、決して主を軽く見たつもりではない。だが、少年のプライドなど引き換えに出来ぬ程に高貴な存在なのだ、彼の主は。項垂れた獄寺を見て小さく息を吐いたリボーンは、無表情を保ちつつも銃口を下ろしてくれた。
「あいつの身体は、ボンゴレの未来と同義だ」
次代を背負うに相応しい、ファミリーに残された唯一の血族。最有力のボス候補である沢田ツナの身に万一のことがあれば、伝統と共に求心力を失ったボンゴレは確実に空中分解する。
……また、野心溢れる者にとって、彼女の身には通常の後継には存在しない利用価値がある。当初の獄寺の念頭にあったように、暴力を前提に彼女を自由に扱おうと画策する不埒な輩は、今後必ずや現れることだろう。
主の安全と幸福を護るのが獄寺の使命だ。決して失敗の許されない任務でもある。
「――それに、山本のファミリー入りはお前にとっても悪い話じゃねーんだぞ、獄寺」
「は?」
顔色を失った獄寺を慰めるような慈悲をリボーンが所持しているかについては不明だが(ツナに尋ねれば全力で否定しただろう)、不意にシリアスな空気をまぜっ返し、黒衣の赤ん坊は声の調子を変えてみせた。
「単なる一部下が易々とボスに手ぇ出すなんざ言語道断だからな。山本が同等の立場になるんなら、お前も安心出来るだろ?」
「なっ…!!お、俺は別に疚しい気持ちなんか……」
「ふん」
蒼白から鮮紅へと瞬時に顔色を変化させた獄寺が顔を左右に振れば、濡れそぼった灰髪から水飛沫が四方八方に飛び散った。犬のような仕草だ。リボーンは迷惑そうに眉を顰めたが、口に出しては注意しなかった。不機嫌になったその鬱憤は、飼い主の方に思う存分ぶつけるつもりである故に。
リボーンが本校舎の方に目を遣れば、既にツナと山本の姿はない。疾うに教室へと向かったのだろう。
四角四面で粋の欠片もない建物へと、足早な生徒達が次々に吸い込まれていく。窄んだ傘がぎゅうぎゅうに突っ込まれている金属の傘立ての傍らで、手入れの行き届いていない植込みが野放図に葉を繁らせ。淡青色に染まった紫陽花が雨に打たれて、その身をさやさやと揺らしている。
イタリア本国でも珍しい花ではないが、雨空の下ひっそりと色付く日本の紫陽花はどこか可憐で、独特の趣があるように思える。口中で一人ごちて、リボーンは未だあーだのうーだの呻き続ける獄寺へと向き直った。
「っつーわけで、獄寺を納得させる為にも山本の入ファミリー試験を行うことにしたんだ」
「ちょっと待てーー!!」
絶叫。思わず立ち上がった拍子に木の椅子がガタリと大きな音を立て、同級生達に白い目を向けられたツナは慌てて声を潜めた。
昼休みに入ってすぐ、暫く京子達と談笑していたツナが一旦席に戻り、さて獄寺君は何処だろうと弁当包みを取り出しつつ首を傾げた時だった。この家庭教師の神出鬼没さには今更驚かないが、一方的な調子で告げられた内容の方は聞き捨てならない。
「ちょっ、おま、ソレまだ諦めてなかったのかよ!?」
「とーぜんだぞ」
ツナの机の上にちょこりと仁王立ちし、リボーンは胸を張っている。サイズが小さいのは確かだが、何故教室の面々は紛れ込んでいる赤ん坊を気に留めていないのだろうか?謎である。
「今頃獄寺が山本を屋上に呼び出してる筈だ」
「ウソぉーーーーーーー!!?」
またもや絶叫してから我に返り、慌てて両手で口を塞ぐ。迷惑そうに寄越される視線達が痛い。心配そうに様子を伺っている京子とも目が合い、ツナは前に突き出した両手をぶんぶんと振って、何も問題ないことをアピールした。実際は問題大アリだが。
転校初日の、上級生を一睨みで撃退した獄寺、ツナにダイナマイトを投げてきた獄寺、ツナの周囲を護衛するようになって以来何度か見聞きした、他校の不良達としょっちゅう殴り合っているバイオレンスで迷惑極まりない獄寺の姿が、ぐるぐるとツナの脳裏を駆け巡っている。
あの気性の荒い獄寺君が仕切っていて、穏便な展開になろう筈がない。今頃喧嘩を売ってたらどうしよう、山本君、怪我してるのに……!
山本の身を心配して、ついでに獄寺の所為で我が身まで山本に嫌われてしまうこともちょっぴり心配しつつ、ツナは弁当を置き去りにしたまま教室を飛び出した。向かうは勿論屋上だ。
このシリーズの獄寺はヘタレ要素抑え目のツン寺だった筈なんですが、しかし誤魔化しの効かない獄寺視点(と見せかけて実際はリボ様視点なんですが)において、そして獄寺が獄寺だった所為で、……すっかりアホの子に……。
短い天下でした、ツン寺(/_<。)<よよよ