あの後、居眠りから目覚めた家庭教師は、俺が内心でサド侯爵コールを連呼することにすっかり閉口したようだった。
「大体テメエの責任だろーが。なんで四年近くもあって一人も孕ませられねえんだ、この出来損ないのダメツナが」
事情を説明する気は毛頭なかったんだろう。うっかり洩らした失言といったかんじで、罵倒を口にした後のリボーンは偶然目にした人がいたら確実に心臓発作を起こしそうな悪相になった。
全てにおいて完璧なヒットマンが俺の前でだけ見せる油断が愛しい。
四方八方から降り掛かってくる火の粉を元から鎮火するまでに、不本意ながらも三年近くを要した。
日本を後にしてすぐの頃、襲名前後の時期は特に悲惨だった。食事をすれば毒入りで、車に乗れば爆破され、ツアー旅行を組めそうな団体さん暗殺者がファミリーの内からも外からも殺到した。昼も夜も熱い視線を送られて、俺の人生史上最もモテた時期だった。
日本から同行した少数の側近連中以外は誰一人信用出来ない、正に学校で習った「四面楚歌」なんて状態。
あの頃の山本やヒバリさんは敵対者を片端から殲滅するのに夢中で、ギラギラと血に酔ったヤバい目付きが本当に怖かったし、獄寺君は逆に防衛本能の鬼みたいになってて、俺を心配する余り極度のノイローゼ状態にあった。今も何彼と付いて歩きたがるのも後遺症の一種だろう。
精神的に正常を保っていたのは了平さんくらいのもので、皆が追い詰められても仕方ない程に俺は何時殺されても不思議じゃない状態にいた。
リボーンは、俺の最強の家庭教師は、絶対に俺を死なせる訳にはいかず、一方では俺に何かあってもボンゴレの血を絶やさぬため、早急に次の後継を必要としていた。
当時の状態では暗殺者の可能性がある女や簡単に敵に買収されそうな女の前で丸腰になるなど自殺行為で、仕方なくリボーンは自分の眼鏡に適った女性を選別し、彼女達を自分に夢中にさせてから俺に宛行った。
一歳を数える前に四人以上の愛人を抱えていた最強のヒットマンには敵の心臓だけでなく女の真心を射抜くことすら容易な術で、リボーンを愛する余りに彼女達は決して俺を裏切らない。
リボーンという楔を頼りに、これまではそれで上手くやってこれた。
こうして俺が奇跡的に命を全うして、幼児だったリボーンもすくすくと成長した今、別の危険をあいつは考えたんだろう。
生ける伝説であると同時に生身の人間でもあるリボーンは、これから第二次性徴の時期に入る。その後で彼女達の誰かが身籠れば……必ずその出生に疑いの声が上がる。
不名誉な噂の生じる前に危険な芽を摘もうとするリボーンはボンゴレだけの為に行動している。
つまり俺だけの為にしか行動しない。
それを知っているから、俺は理由を聞かされなくてもリボーンの言うことに逆らわない。
それはいいけど次の指令、自力で代わりを見付けてこいなんて更に気が重いんだけど……。
突如投げ与えられた自由は胸をもやもやと苦しくさせるのみで、実はあんまり有り難くない。そもそも選択肢が存在していないのが問題だ。
ボンゴレの名前に露骨な媚を売ってくるような野心家は遠慮したいし、だからって町中でナンパとかして成功を収める可能性など俺が単性生殖で子供を産む可能性より低そうだ。抗争三昧に一段落ついた途端にデスクワーク三昧の日々突入で気安く出歩く暇もないし。
地位と権力で最近はカバーされているけど、そもそも俺は獄寺君のような二枚目からは程遠い容姿なんだよね……。
彼との間にあった身長や体格の差は結局縮まることはなく、シートの隣に座ったこの位置からは端正な横顔を斜め下から見上げる目線になる。
出会った中学生の頃と面立ち自体は変わらないけど、顎のラインが鋭角的な線を描いて生来の美貌に男らしい精悍さを弥増していた。きれいに筋の浮く長い首、纏わりつく銀灰色の髪が色っぽい。
俺の視線を感じてちょっと顎を下げ、何か?というように眼差しを緩めて微笑んでくる。硬質な容姿が劇的に柔らかい印象になって、だけどずっと以前のでれでれに笑み崩れた表情を知っている俺は、何時から彼はポーカーフェイスが巧くなったんだろうと考えている。
十年近くも共に死線を潜り、衣服よりも近い心的距離に彼の存在を置き続けた所為で、獄寺君に嫉妬や羨望を抱く前に素直にその姿を鑑賞するのが癖になってしまっている。自分の所有物だという意識が強いからだろう。
それでも何時の間に彼が冷静さを身につけるようになったのかを俺は知らない。
獄寺君の顔越し、車窓からはローマ市内の夜景が見える。あんまり清潔でもないごみごみした普通の市街の中に、何の前触れもなく古代遺跡と中世建築を合体させたような異形の建物が現出し、さり気ない日常のような顔をして夜闇の中に溶け込んでいる。
紺碧の海と砂色の建物のコントラストがヨーロッパらしからぬ情緒を醸し出す、シチリアのボンゴレ本拠も気に入ってる。けど、古代から現代までごた混ぜのびっくり箱みたいな、ここローマのオフィスも俺は嫌いじゃない。
今ではすっかり見慣れてしまったけど、顔見せやら何やらで初めて赴いた時には目に映る全てが物珍しくて、そうだ何度かはお忍びで市内観光もした。
獄寺君と山本と三人、スーツじゃなく普通の学生旅行者みたいにラフな格好で、何食わぬ顔してバチカンにも入国してみたし、コロッセウムやフォロ・ロマーノ、古代遺跡群を前に解説してくれる獄寺君はやっぱり物知りだった。
ジーパンの尻が汚れるのは気にせずスペイン階段に腰掛けて、俺達が食べたのはジェラートじゃなくて袋詰めの焼き栗。上手く皮が剥けずに四苦八苦していた俺に、獄寺君は自分が剥いた栗の実を手ずから食べさせてくれた。
俺の唇に指先が触れた瞬間獄寺君はこっちが吃驚するくらい真っ赤になって、俺の左隣に座ってた山本に指差して爆笑されて俺越しに掴み合いの喧嘩をしたり。
そうだね、あの頃はまだ素直に全部を表情に出してくれていた。
俺達のささやかなローマの休日はダンスの代わり、駆け付けてきた暗殺者の皆さんとの銃撃戦か肉弾戦でフィナーレを飾るのが専らで。
観光には同行しなかったリボーンも何処か見えない場所から必ず護衛していて、銃撃戦では生き生きと血の雨を降らせていた。
思えばホント、傍迷惑な一行だよね……。
俺達がお忍びを止めた理由は遊び歩くような暇がなくなったからというのが大きいけど、周囲にかける迷惑を考えて自粛した面もあったかもしれない。流れ弾の犠牲者が出なかったのは俺が生きている以上の奇跡だった。
無茶苦茶だけど、それでも思い返せば楽しいばかりの記憶。
今の横顔に満面の笑顔が重なって見える。
俺の姿を映す時だけ、彼の眼にはじりじりと焦げ付くような火焔が常に宿っている。
すとん、と大した感慨もなく腑に落ちた。
愛人問題を考える都度胸に去来するモヤモヤ感は、億劫さ以上に獄寺君への罪悪感が大きい。
当然のように隣にいる彼の気持ちを知っていたのに、平然とそれを黙殺してきた俺に、獄寺君はどれだけ傷付いてきたんだろうか。
納得すれば、これ以外の選択肢はないような気がした。
腰を上げずににじり寄って、俺は獄寺君との距離を詰める。彼は気付かない振りで前を向いている。
そうするのが自然なような気がして、丁度良い位置にある彼の肩に頭を凭せ掛けた。
獄寺君は、一瞬びくりと身を震わせたけど、そのまま気付かない振りを続行することにしたらしい。相変わらず前を向いたまま、スーツのポケットから煙草を取り出すと慌てた手つきで火を点けた。
ポーカーフェイスが得意になった獄寺君は、普段俺と同乗してる時には吸わない煙草を照れ隠しの時にだけ利用する。
痩身ながらも身を寄せた彼はしっかりと筋肉が備わっていて、特にダイナマイトを投擲する肩は随分と鍛えられている。ずっと前から知っていたような気がしていたけれど、今夜は何となくそれを新鮮に感じられた。
顔見知りの部下達はバックミラーを覗くなんて野暮はしないし、見られても構わない程度には俺は彼らを信用している。
息遣いすら肌で感じられる場所に居る獄寺君の感情は、壊れ物に触れるような臆病さを滲ませつつ、俺の腰を優しく引き寄せて支えた右手が証明してくれていた。
左手には暗闇で蛍火のように光る煙草の灯り。
俺達を乗せたリムジンは、市街の中心からは少々郊外にあるボンゴレのオフィスに到着した。
地下の駐車場から高級幹部専用のエレベータに乗り込み、暗証番号を押せばボスの居住エリアへ直通する。
オフィスビルと高級ホテルを足して割ったような内装の廊下を進み、寝室前に辿り着いた俺は護衛の部下達に就寝の挨拶をする。
ボスの身仕度を手伝う為、いつものように獄寺君がその後に続き、そして銃弾も通さない重厚な扉は閉じられた。
その夜に限り、右腕が退室したのは明け方近い時刻だった。