坊主憎けりゃ袈裟まで愛し。
はい、この項では後漢末における仏教事情について説明……とは言いつつ、管理人もそんなに詳しい人じゃありません(身も蓋もなく)。
ので、駄文ページの「会いたい」で説明無しに流した箇所やら大嘘こいた部分の補足に特化した解説をしてみようかと、そーゆー企画です。
……ってゆーか、別口で説明しないとわけわからんという時点で物凄い駄作だというのは疑いない訳ですが。
以上、イイワケ。
T.後漢仏教と白馬寺
中国への仏教の伝来は、伝説的には後漢の明帝(28-75)時代とか言われてます。まあそーゆー話は他の詳しいサイトを閲覧して頂きたいのですが(それゆーならこのページは一体…)。ぶっちゃけ、紀元前後にシルクロードを伝ってやってきた新宗教、と此処では断言しときます。
白馬寺は、国内唯一公式の仏寺として、首都洛陽に建立されたお寺。今でも洛陽に行けば観光コースに入ってますが、勿論当時のままの建物ではありません。だって董卓に燃やされちゃったー…ので。
後漢末、ほぼ伝来から300年近く経ってる筈なのですが、この時点ではそんなに仏教は広まっておりませんでした。
白馬寺なんかでは西域から来日……じゃないや、この場合訪中?したガイジンのお坊さんがせっせと仏典を漢訳。安息国(パルティヤ)出身の安世高(148年頃渡来)とか、月氏出身の支婁迦讖(桓帝〜霊帝時代の人)やインド出身の竺仏朔、支謙(祖父が月氏)、竺法護(先祖が月氏で燉煌出身)辺りが有名な坊主ども。
そんな人々が細々と翻訳活動に勤しんでいた割には、漢人……特に民間層にはナニソレ状態。
だって坊さん達が洛陽からあんまり外出せずに引き籠もってたし(頭悪い解釈)。
あと、あの国の人々は中華思想とかいって自国を世界で一番エライ国だと思ってるから、なかなか外来宗教に馴染めなかったらしいですねえ。
あんまり漢人の出家者もいなかったらしいです。厳仏調(2世紀末だから…丁度このサイト対象時代か)とか、少数ながらは存在しますが。
ので、パンピーには道教の一派だと思い込まれていたらしい。
例の明帝の異母弟である楚王英(1世紀くらい)が、黄帝・老子と一緒に仏陀を祀っていたというから、その根は深いです……。
あと、道家の「無」思想と仏教の「空」思想がなんか似てる…と中国のみんなに思われたことから(私にも違いがよくわからない)、六朝期に至るまで道教と仏教はごっちゃの扱いを受け続けたのでした。「空」思想については、三国時代すら越えて五胡十六国時代、道安(314-385)が研究するまでずっと誤解されたまま……。
んで、当時の仏教側も、フレンドリーで親しみやすい仏教をアピールする為に、敢えて誤解させてた部分もあるそうな。
作中で出した、“老子がインドへ渡って仏陀に変身!”なる素敵にトンデモ臭漂う思想は、「老子化胡経」という経典に書かれてるのですが、仏教側が作成、流布させたブツとの説があります。とはいえ、「だったら道教の方が本家だからエライじゃん」と居直った道教関係者に利用され、後世では散々仏教叩きの材料として使用されてしまう諸刃の剣。
あ、この経典、成立したのは西晋なので、208年時点でここまで得々と説かれていたかは怪しい(ってゆーか嘘つきました私)。
とはいえ、166年に襄楷(『クワン』に出てくる例のにいちゃんだ)がやっぱり似たようなことを上奏してるらしいので、業界人の間では既にメジャーなのかもしれなく。
以上、平然と「道教」とかいう単語を使用してましたが、道教教団が成立するのが後漢末、黄巾の乱とか五斗米道とかあの連中が開祖なので、「道教の元になった道家思想とか神仙思想とかそんなかんじ」と言い直さなくてはならないかもしれませんねえ。
道教が例の如く宗教団体としての体裁を整えたのは、仏教の真似っこによるものなので、やはり件の二教は縁が深い。
仏教がインドから輸入した輪廻転生思想も道教が取り入れて、何回か転生することでそれだけ修行を沢山したら、何世か後には昇仙出来るかもねーみたいな気楽なことを言ってたりもします。駄文でも書きましたが、中国人は生きてることが楽しいから不老不死の仙人に憧れる訳で。輪廻思想も本義とは違った意味で解釈されちゃったっぽいです。
……ここまで白馬寺と関係ありそうでなさそうな話を続けてきましたが、何が重要かって、繰り返しますが董卓に燃やされちゃったんですよ。これが。
そう、190年。くどい程にお馴染みの反董卓連合、そして長安遷都。
街は燃やされ、墓は暴かれ、人は強制連行。タッキーの有名な悪行です。
この時期にぼーさん達も四散、辛苦を嘗める訳ですが、……これが仏教グローバル化のきっかけになるのだから世の中万事塞翁が馬。
洛陽から早い段階に脱出出来た面々は、多くが徐州へ行きます。これは坊主に限らず、庶民・士大夫層、全てに当て嵌まることですが(ex陳羣)。融が徐州で大々的に仏教保護したのも、流れてきた仏教徒を支持層として取り込もうとした可能性が高いです。で、曹操の徐州大虐殺を逃れる為、難民達は更に南下……。
三国時代以降、中国における仏教中心地が呉へと移動したのも、故ないことではありません。中原の戦乱によって西方との交通手段が遮断され、民間外交の中心が海路(海のシルクロードとかいうやつ)に移動したのも、理由に挙げられましょうか。
前述の支謙さん、建業にて孫権に優遇され、皇太子(孫登?)のカテキョーになってます。晩年はボケた挙げ句変な塔建てて…とか言われる孫権ですが、奴が仏教徒だとしたら……まあ信仰心の現れということで美談と言えなくもないかもしれなく……(苦笑)。
で、洛陽から素直に長安に連行された人々はどうなったかというと、董卓死後のより一層激しい社会混乱の中で、荊州・益州方面へ……。これは荀攸や王粲なんかと同じルートですね。蜀方面にも仏教が伝わったのは確かみたいなんですが、例によってあの国は資料不足で正体不明……(汗)。
個人的に、仏教史とは関係なく、後漢末の人の流れとして
洛陽→徐州→揚州
長安→荊州→益州
のパターンは散見出来ると思ったり。私的重要事項。
U.許昌寺とオリキャラ
上記で見ていった通り、ふつーに考えれば三国志で仏教絡めたい場合は呉でどうにかするのが一番ナチュラルです。そこを敢えて魏でやっちゃう私はチャレンジャーという以前にアホなのですが、だって知識より先に話の方を思いついちゃったんだもん。←殺
なんかこじつけられそうなネタはないかと図書館を漁っていた私が『中国仏教通史 第一巻』(塚本善隆、春秋社)にて発見した……それこそが許昌寺でした。
「般舟三昧経記」なる経典の後書きに、「建安13年戊子許昌寺に於いて校定」なる文が!
ちなみに、これと同書かはわかんないのですが現在流布してる『般舟三昧経』、上述の支婁迦讖さんが訳出したブツで、経典中のストーリーの中で阿弥陀如来が登場したりすることから、日本でも浄土系の宗派ではバイブル的扱いを受けている……らしい。
他にも『仏教通史』では、曹操・曹丕・曹叡が民間淫祠に対して弾圧を加える傍ら、反巫師神仙的な仏教の止揚に努めてたとか(240年以降らしいですが)、洛陽・許昌・間合わせて広域首都圏が形成され、洛陽+周辺都市で仏寺・訳出仏典が流伝したとか、色々とオイシイことが書かれてありました。
そして、建安十三年――即ち208年、そうです、これは赤壁の年!!
そんな訳であのアホ文が生まれたのですが、その後恐ろしい記述に出会ってしまったことを、皆様の知る権利の為にも付記しておかねば……。
アンリ・マスペロの『道教』なのですが、この人は許昌を地名ではなく人名として捉えておられるようで。最初ぱっと見た時は「許昌って堅パパが退治した陽明皇帝かよ!?」とか思いっきり勘違いしたのですが、そうではなく前述の楚王英、その母方の叔父の孫(どんな係累だ…)だそうな。マスペロは楚王英の創建した仏教寺院の系譜に連なる存在として許昌寺を捉えているらしい……。
そういや許都が許昌と改名されるのは、文帝即位後でしたな……。写本が広まる間に、後世の地名に書き換えたと考えれなくもないですが。
アンリと善隆のどちらを信用するかという話になってきそうですが(しかしマスペロも洛陽に所在を想定してるし、対立概念ではないのかな)、私は塚本善隆説に全面依存して以後も妄想を続けたいと思います(苦笑)。
で、オリキャラとして、許都城内に存在する許昌寺(208年当時は違う寺名)の住職さんが出てくる訳です(笑)。
寺があるからには責任者も居て当然なので、なるべく個性のない坊主にしようと思いましたが……やや暴走したような……。
当時のセオリーとして中国に在住する高僧は西域人と見て間違いなく、やや浅黒く彫りの深いイランちっくな月氏人の老人だと設定。で、これもセオリー的に白馬寺の出身。
ここまではまあオリキャラともいえない味付けですが、きっとこの人は若い時分に中国に来たんだろーなーとか、董卓の乱混乱期に多くの同僚と死に別れたり離れ離れになったんだろーなーとか、その中には若い頃のロマンスの相手もいたかもなーとか(坊主だしな…)、考えていくだに変な方向に妄想が突っ走り……(死)。
か、書いてる途中でもそこまでは考えてなかったのに、書き終わってみればそんなことになってました。(_ _|||)